自分の「好き」を主張するために、他を貶めないようにしたい


 比較でしかモノを語れないのは、もったいないことだと思う。

 たとえば、自分の好きな映画やアニメ、音楽について。他人にその魅力を伝えようとするとき、僕らはどのようにその「好き」を表現するだろうか。

 大げさに身振り手振りをしながら、感情的に訴えかける? 自分にとって魅力的な点、印象の強い部分、心を動かされた箇所について、その理由を詳しく語ってみる? 演出や作画、スタッフなど、個々の要素の優れた点を挙げて説明してみる?

 そのような「好き」の表現がある一方で、他のモノとの「比較」によって優位性を証明しようとする人もいる。たとえば、売上や再生数などの視覚化されたデータを参照しながら説明してみる、というように。たしかに「数字」がはっきりしていれば、客観的にも優位性を示しやすい。

 しかし「比較」の方法はそれだけではない。中には、「その比べ方はどうなの?」と疑問に感じる切り口もある。

 それが、比較対象を貶めることによって、自分の勧めるモノを高い位置に保とうとする方法だ。それを聞いた相手が、もし貶められた対象のファンだったらどうだろう。――相手はきっと悲しい気持ちになるだろうし、あなたがおすすめする作品にも反感を持ってしまうのではないだろうか。

 

他人に「好き」を伝えるのは難しい

 相手がまったく知らないモノについて、その魅力を伝えておすすめするのは難しい。相手が少なからず知識を持っていればともかく、何も知らない場合は一からその魅力を説明しなければならないからだ。

 そもそも、自分が感情的に「好き」だと感じていることを改めて言語化するのは、意外と大変だ。

 あるモノについて「好き」ということは、言い換えればそれなりに「詳しい」はずであり、それが「当たり前」だということでもある。自分にとって当たり前のことを、改めて言語化して説明するのは難しい。サッカーを見たことも聞いたこともない人に、一からルールを教えるのが困難であるように。

 ゆえに僕らは、しばしば感情的になりながら、少しでもその魅力が伝わるように努力する。ただ一言「すげえ」とか「ぱねえ」と言うだけでは、相手も「お、おう……」と曖昧な反応しかできない。そこで、大げさなくらいに感情をのせて伝えようとする。

 たとえば、「あれがこうでギュイイイイン! ってなって超すげえんだよ! CG映像がむちゃくちゃ動きまくっていて……」などと、擬音や抑揚をつけながら興奮気味に話してみたらどうだろう。具体的な内容は伝わらないにしても、「あー、なんかよくわからんけど、こんなにも興奮するくらいすごかったんだな……」などと、相手にその「すごさ」を印象づけることはできる。

 究極的には自分が魅力を伝えたいモノやコトについて、相手に実際に「体験」してもらうのが最善の方法だとは思う。でもそのためにはまず、相手に興味を持ってもらわなければならない。だからこそ僕らは、相手の興味関心のツボを刺激するべく、感情的に、感覚的に、具体的に、「好き」を伝えようと努力する。

比較による優位性の証明

 その一方で、他のモノと比較することによって優位性を説明しようとする方法もある。冒頭でも書いたように、コンテンツならばその売上、人間ならばその成績や業績などを明示することによって、他との差別化を図ろうとする格好だ。

 この方法も、たとえば「1 対 大多数」で比較するのなら、一定の効果は見込めるように思う。「自分の好きなモノ=1」と、「それと同様のカテゴリーに属するモノの平均や一般=大多数」との対比。これならば相手の反感も買いにくい。

 あるいは、そのモノの全体での立ち位置を示すという切り口もある。

 その最たるものが、売上だ。対象となるモノを好きな人の数、世間での認知度をある程度は視覚化したデータが用意できれば、優位性を示しやすい。もちろんそれがすべての人にとって魅力的であるとは限らないので、あくまでもひとつの指標に過ぎないとも言えるものの。 

 そのような広い視野で比較するのなら、まだ問題にはなりにくい。しかし、そこで具体例として特定の比較対象を持ち出そうとするのなら、慎重になる必要があると思う。

 作品にせよ人間にせよ、「この映画は名作と呼ばれたあの映画と比べでもここが優れていて……」とか、「この人はあの人よりも気配りがきくし成績優秀だから……」などと説明すること。たしかにそれを聞いて納得する人もいるかもしれないが、大きな反感を買ってしまう可能性もある、諸刃の剣だ。

 「A」という作品の魅力を伝えるために、「B」という作品を比較対象に挙げて説明したとしよう。そのうえで、説明する相手がBの大ファンだったとする。

 「Bも良かったけれど、やっぱりAと比べたらまだまだだねー」程度の表現なら、まだセーフかもしれない。相手も「ふーん、具体的にはどのあたりがいいの?」と興味を示してくれるかもしれないし、そこで公平な比較検討と説明ができれば、「じゃあ試してに見てみようかな」となる可能性もある。

 しかし、そこで興奮して感情的になってしまい、「いやー! Aはマジで最高だったよ! Bなんざ時代遅れだね! 演出も人選もダメダメだ!」なんて口走ってしまったら……どうだろう。言うまでもない。戦争勃発だ。

 相手が温厚で冷静な人であればいいけれど、本当に心からBのことが好きだった場合は少なからずカチンときてもおかしくはない。売り言葉に買い言葉で「は? Aを好きとかどんな感覚してんの?」と舌戦に発展するかもしれないし、「ふざけんな!」と掴み掛かれても文句は言えない。

 さすがにリアルファイトまで勃発することはそうそうないにしても、この手のやり取りはネット上では日常茶飯事のようにも感じる。だからこそ、あるモノの「好き」を語るにあたって、別のモノを出して比較しようとする際には慎重になる必要がある。感情的に語ることによって、相手の心に魅力を訴えかけられる場合も当然ある。しかし同時に、投げかけた感情が刃として返ってくるかもしれないことを忘れてはいけない。

実は「嫌い」を主張したいだけ?

 自分の主張を通すために他を貶めようとする行為の問題は、目的と手段がすり替わってしまっている点にある。本来は「好き」を伝えるために「嫌い」を主張していたのが、「嫌い」が主張のメインとなり、他はどうでもよくなってしまっている。そんな人が少なからずいるように感じる。

 たとえば、SNSで散見される一方的な政治的主張――原発問題にせよ他国との関係性にせよ――などがそうだ。本来は自らの主張を通すため、対立側の問題点を挙げたり、比較によって自分たちの優位性を説明していたはず。

 それが一部では、相手の揚げ足取りに徹したり、ヘイトを撒き散らしたりすること、それ自体が目的になってしまっているように見えることがある。「愛国」を叫ぶ人たちのTwitterアカウントを見ると、そのツイートは他国へのヘイトや対立軸に対する誹謗ばかり。他国や相手のことを知ろうともしないばかりか、自分の国のことも偏った見方しかできていないように映る。

 別の問題として、世代論も似た性質をはらんでいるのかもしれない。おなじみの「昔は良かった、なのに今は……」「最近の若者はこれだから……」という言説は、自分の「好き」な過去を美化し、その優位性を確保するため、現在や別世代を揶揄しているように見える。「過去」を知らない若者からすれば反論も難しいため、「知らんがな」と突っぱねることしかできないのがやるせない。

 もちろん、時には感情論も比較論も必要な手段だと思う。けれど、感情だけで突っ走って主張を通そうとしても、それでは問題解決にならない。それでは相手が反感を抱いてすれ違うのは必然だし、そもそも議論の入り口にすら立てていない。

 自分の「好き」や主張を伝えるにあたって、必ずその先には「相手」がいる。相手の「好き」や主張を尊重せずに自分の話だけ通そうとするのは、さすがに傲慢が過ぎるのではないだろうか。感情的になるほど忘れがちな視点だとも思うので、自戒の念も込めてまとめてみた。

 

 

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