なんか、もっと、こう、自由になれないかなって思う。
最近のサイトをみても、みんな一般論しか述べていなくて、自分は間違っているだろうけれどもこう思うとか、こうしか生きられないからこう生きてる。っていうブログとかサイトがない。あっても、すぐ、“お前はおかしい”ってリプがついて、消えて行ってしまう。
各所で話題になっている、ブログに代表される「インターネット」の話。だいたいどの意見を読んでも、「あるあるー」「わかるわー」と頷いてしまう自分だけど、インターネット歴は15年程度。「初めてのネットはギリギリで電話回線だった」くらいの経歴です。
それでもやっぱり “昔と比べて” 、現在のネットに息苦しさを感じてしまう気持ちにはなぜだか共感できてしまう。
振り返ってみれば、当時は最低限のマナーさえ守って、あとは荒らしだけ気にしておけばよかった。しかし、閉じられた個人サイトやチャットルームの中で仲間内で好き勝手にキャッキャウフフできていたあのころとは違い、今はそこかしこに不特定多数の「世間」が存在する。
端的に言って、インターネットは良くも悪くも “開かれ” すぎた。それはもちろん当初の目的に沿うものではあったのだろうけれど、仮想世界だったそれが今や現実世界と限りなく近しい存在となってしまったことによって、いろいろな不都合が生まれてきた。そんな話。
「メディア」となることで発信の敷居が高くなった
で、SNSの時代がやって来て。皆が書き手になったのか?違うと思う。皆が寸評者になった。誰もがテレビに向かってあーだこーだ言うように、ネットコンテンツを寸評する時代がやって来た。ネットは書き手で満ち溢れた以上に、寸評者・視聴者でいっぱいに充たされた。どんなネットコンテンツも、どこでどんな人がみているかわからない。誰かに罵声を浴びせる時でさえ、オーディエンスを意識し、政治的に発言する人のなんと多いことか。
(中略)
ネットメディアは、“テレビに似てきた”。
シロクマ先生の仰るとおり、今のネットメディアはテレビとそう大差ないと思う。
「視聴率が稼げればちょっとくらい偏向的な表現をしちゃってもいいよね☆」という一部番組の考え方は昨今のPV至上主義であるバイラルメディア問題にもつながるように思えるし、「あの芸人はクソ(面白い)」とか「俳優がイケメン(ブサイク)」とか学校や会社の休み時間で雑談をする様子は、Twitterで反射的にアニメやブログの感想を呟くのとなんら変わりがない。
現代のネットでは、誰も彼もが「ツッコミ」に徹している。そこにコンテンツに対するありがたみはほとんど感じられず、休日にテレビを垂れ流してワハハと笑うように、電車に座ってタイムラインやまとめサイトを追いかけてデュフフと笑っているだけだ。
「マスコミは嘘つきだー」「マスゴミだー」と見限ってネットにやってきた人たちが、マスコミ以上に不確定で情報信頼性の低い(一部)まとめサイトの言説を盲信しているのは一周回ってコント的ですよn……ゲフンゲフン。
人の揚げ足をとって失敗を許さない。失敗した人を笑いものにして追い込み、自分のポジショニングを維持する。まるでサル山のサルたちの権力争いのような構造が、そのままの形で社会の中の人間関係の中に降りてきているのです。
マスコミの権力を疑うよりも、彼らが醸し出している空気に乗っかって、魔女狩り的なツッコミを行っている。この場合のツッコミは「叩き」を同義であり、見えないツッコミは数の論理で相手を追いつめていきます。
とにもかくにも、誰もが無料で手軽に消費できるからこそ「ツッコミ」のハードルが低くなった。それは同時に、逆に「ボケ」る側──コンテンツメーカーやクリエイターが「発信」するハードルが高くなっていくことでもある。
もちろん、実際にはハードルなんてない。インターネットでは誰もが自由かつ平等に発信できる(という体裁が整っている)以上、企業でなく個人ですらも好き勝手に自分の思いの丈を叫ぶことができる。実際、僕もいまブログなんてものを書いているわけですし。
ところがどっこい。上でも書かれているように、 “誰かに罵声を浴びせる時でさえ、オーディエンスを意識し” なくてはならないのが現状だ。
ちょっと非常識だったりマナー違反だったりすることを書いただけで瞬く間にメラゾーマするし、政治的正しさや周囲の目線や自分の立場などなど、気にかけなければならないことはいっぱいだ。別に気にしなきゃいいって? ……とんでもござらん。あっという間に断頭台行きでさあ。
そんなこんなで、あちらこちらが「メディア」と化したインターネットは、発信者にとって非常に息苦しい場となった。ソーシャル “メディア” の代表格であるSNSが台頭してきた段階で、それは想像のできる流れだったのかもしれないけれど。
そのような現状が、冒頭の記事で小島アジコ先生も仰っている “ブログが不自由になってきた” の一因だと僕は思います。
Facebookは10年前の個人ホームページ?
結論だけ言うと「ネットにバカが増えた。バカが増えた結果中身のない批判・炎上がヤツが増えた。それらはfacebookでネットを覚えた連中でネット作法も知らずに、傍若無人に振る舞い、彼らに配慮していった結果ネットが窮屈になった」と言いたい。
(ネットが窮屈に感じる原因はfacebookルールと拝金主義 - かくいう私も青二才でね)
他方、青二才さんはネットの窮屈さの一因として「Facebook」の存在を挙げています。これは、「文脈を知らないレイトマジョリティ層にアーリーアダプター層が駆逐されて前者が圧倒的多数派になった」という点では、たしかにそのとおりなんじゃないかしら。
ただ、見方を変えれば、その「遅くれてきた多数派」って、言わば「○年前の僕ら」と同等の存在なんじゃないかと。前々からなんとなく気になってたんだけど、日本のFacebookにある独特の閉鎖性・空気感って、10年前の個人ホームページに割とよく似ているように見える。
よく知っている仲間同士で “仲良く” やり取り(ここ重要)しながら、また別の人とつながって連れてきて、同じタイムライン上に書き込むような形(直接的な交流はあまり発生しないという違いはあるものの)。
また、ちょっとした有名人や有識者のFacebookページを見ると、時にはそのファンたちが「そのとおりです!」「まったくです!」とヨイショヨイショしている一方で、過激なアンチたちが「何言ってんだこいつ」「タヒね」などと罵詈雑言をズッコンバッコンしていることも。これってまんま、個人HPのBBSが思い出されるのは僕だけかしら。
──あ、個人HPで思い出した。これはTwitterの話になるけれど、少し前に話題になっていたTwitter上での「俺ルール」のこと。「フォロー返しは義務」「RTは許可制」「フォロワー数多イ、オレ、ツヨイ」みたいな。これも何となく既視感。もしかして:毒吐きネットマナー*1
今となっては、当時の毒吐きネットマナーを始めとする「ネチケット」にはむしろ共感できるし、あれはコンテンツ発信者のありったけの愛と毒を詰め込んだ意義ある書物だとは思うのだけれど。ただ、規則のないコミュニティに設定した「俺ルール」という面では、どこか似通ったものを感じられるようにも思う。
何が言いたいかといえば、そんなFacebookに漂う空気感も、Twitterで自分の主張を通すために作った俺ルールも、過去の「ネット民」が通ってきた道なんじゃないのかな、ということ。
──ほら、そう考えて見れば、何となく愛おしく見えてきません? ある種の同族嫌悪は沸き上がってくるかもしれないけれど、「こやつめ、ハハハ」くらいに考えてみてもいいんじゃないかと。あ、まったく見下す意図はございませんので、念のため(予防線)。
インターネットを旅する
多数派には勝てっこないし、それじゃあこの不自由なインターネットでこの先生きのこるにはどうすればいいのかといえば、簡単です。旅に出ればいいのです。
ネットを「海」に例えるのはもはやお約束な感じがあるけれど、たしかに過去のネットには「海」っぽさがあったように思う。ハイパーリンクの船を乗り継いで、htmlの文字列の波を超え、まだ見ぬホームページ島を探す旅。自由気ままにどんぶらこ。箱庭諸島やりたい。
時には「偉大なる航路」に乗り込んで、「ひとつなぎの大秘宝-エ口画像-」を求めたこともありました。やれブラクラだー! やれグ口画像だー! とパソコンを強制終了したことも一度や二度ではございません。You are an idiot!
それでもやっぱり、流浪の民として好き勝手に海を行くのは楽しいものだった。
ところが今は、誰もが「SNS」という大きな集合住宅で共同生活をするのが当たり前になった。個人HPに客を迎える過去の習慣とは異なり、部屋と部屋はアカウントによって区分けされてはいるものの、割と自由に出入りができるし、簡単に会話をすることもできてしまう。小心者の僕は、壁ドンに怯える日々でござる。
「つながりやすくなった」という面では並々ならぬ利点があるし、僕もそのメリットを享受しているので、何も悪いことではないと思う。でもやはり、誰もが自由に “ツッコめ” るがゆえにクソリプやら何やらが飛んでくる状況だけを見れば、好ましいものではない。
2015年、インターネットから空き地は消えた。遊び場が欲しければ、どこぞのSNSという名のビルの何号室かに、外部から干渉されない場所が用意されている。妹キャラにはオ◯ニー必須だと叫んでも外には聞こえない。安心していい。
そう断言する俺自身を含め、どうしても郷愁めいたものが残るのだとしたら、それでもその場所は密室でしかないということだ。広い空き地があって、空が見えて、エ口本探しに飽きたらキャッチボールをやってもいい、駄菓子屋で買ってきたうまい棒を食っててもいい。空き地の前の道路は町につながっているし、その町には鉄道の駅があって、ひょっとしたら空き地にだれか知らない人が遊びに来るかもしれない。空き地で大声をあげて遊んでいる「俺ら」を見て「おもしろそうなことやってるね」と近寄ってくる人だっているかもしれない。かつて、それがどれほど嬉しかったことだろう。
ビルの何号室かは、部屋の番号を知らなければ訪れようがない。
でも、そういうものだ。人口が増えたら都市化は進む。あたりまえの話だ。
どこか懐かしい文体の匿名さんの表現が非常にわかりやすい。 “空き地” がなくなったネットにおいては、自由と不自由が同居している。そう考えると、むしろ今の形があるべき姿であるような気すらしてくる。環境の変化は避けられない。当たり前のこととして、受け入れるべき。
こんなことを書いてきてアレだけど、僕はネットの現状をそこまで極端には不自由だとは感じていない。たまに「あー、かったりぃなー」とダルさを感じる程度だ。
現在のインターネットに “空き地” はもう残っていないかもしれないが、それでもネットの世界は広大だ。結局のところ、自分も大多数の人と同じように人気のSNSを使い、読者の多いメディアに触れ、企業の運営するブログサービスを利用している。そんな、ネットの “一部” しか見ていない。見えていない。
そういう意味では、ここに書いている「ネット」の話だって、 “ぼくのしっているいんたーねっと” のことでしかない。たかが15年、しかも最初の数年はROM専だった若造の意見なんて、むしろ、共感できない人の方が多いと思う。
「ネットで話題」なんて言葉をテレビとかで見ると、「どこのインターネットで話題なんだ?」とよく思う。ネット上には多くのクラスタがあって、そこにはそれぞれの文化・価値観があり、それぞれの作法でやりとりが行われている。インターネット黎明期なら、全体の参加者も少なくクラスタの数もそんなになかったのだろうけど、今は使う人も増えて、年齢の幅も広がり、かなり多様化が進んでいる。相当数の日本人が多かれ少なかれネットに関わっているわけで、もうメディアの「ネットで話題」という言葉は「日本で話題」ぐらいの意味しかない。
Twitterを使っていると、タイムラインに流れてくるのは自分が興味あると思ってフォローした人たちの発言ばかりで、それがそのままインターネットのあり方であるかのように思うことがあるけど、それは当然錯覚だ。ネット上には、自分の全然理解できないコミュニティがたくさんあって、自分が全然興味ないと思っている話を、真剣にやりとりしている人たちがたくさんいるのである。
たまには、自分の知らないインターネットを見にいくのも楽しいのかもしれない。
結局は、ここに帰結する。「今のネット」が不自由だ、息苦しいと感じるなら、「知らないネット」を探しに行けばいい。最近は「デジタルデトックス」なんてものが流行っているみたいだけれど、そこまで極端にせずとも異世界の空気を吸うことはできる。
ちょっとマイナーなサービスに登録してみるもよし、その辺のチャットに潜り込んでみるもよし、あまりユーザーが使ってくれないはてなの新サービスを積極的に使うもよし。単純な話、英語を覚えるだけで世界はとんでもなく広がると思うのですよ。日本のネットなんて、広大な大海原の片隅に過ぎないのでは。
別に「まだSNSで消耗してるの?」なんて言って移住する必要はない。いや、するのもありだけど。今は気軽に誰かとつながれるSNSやブログといった「ホーム」があるのだから、いつでも帰ってくればいい。
ちょっとした旅行気分で、ぶらぶらと「自分の知らないインターネット」を旅するのも楽しいのではないかしら。
インターネットで、自分の居場所を見つけて、そこから見える世界と情報だけに触れ続けるのは、心地良いし、楽だ。でもそこだけに居続ければ、その世界がインターネットの全てだと錯覚してしまうおそれがある。思考停止は、怖い。
そうならないためにも、たまには別の世界、別のインターネットを覗いてみるのもいいと思う。「私の」じゃない、「誰かの」インターネット。見たくないものが見えることもあるだろうけれど、その時はさっさと退散すればいい。
どこにでも、誰とでも繋がるインターネット。そんな便利なものを使える僕ら。せっかくだし、おもしろいものを見つけに行こう。
なんやかんやで、僕はやっぱり「インターネット」が大好きらしい。
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*2:ガイドライン違反回避のために一部伏せ字としています。