今も昔も変わらない『インターネット的』なものに思いを馳せる


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 「ひとりぼっちじゃない」。

 思春期の真っ只中にいた自分がインターネットに触れ、顔も名前も知らないどこかの誰かと言葉を交わすようになった頃。ふと抱いたのが、この「ひとりぼっちじゃない」という感覚だった。

 外出している親の目を盗み、家でパソコンに向かっていた少年時代。友達の多くが部活動に明け暮れ、塾で勉学に励み、青春を謳歌していた一方で、週末でもパソコンの画面に向かっていた僕。その姿は、傍目から見れば間違いなく「ひとりぼっち」と形容できる姿だったように思う。

 でも、ひとりで向かっていた画面の先には、いつだってどこかの誰かがいた。暇を持て余した大学生、よくわからない仕事をしている大人、不登校の中学生。チャットや掲示板で話す相手は本当に十人十色で、同年代の子供ばかりが集まる学校とはぜんぜん違う。そんな “誰か” と話すことが、たまらなく楽しかった。

 誰も彼もがまったくの赤の他人なのに、その一人ひとりに日常があり、人生がある。当たり前と言えば当たり前──街中を歩く最中でさえ感じられる──ことなのだけれど、顔も名前も知らない相手と、文字だけを介して行う会話でそう実感できることが、子供の自分にはすごいことのように感じられたのです。

 このような話は、SNSが定着した今となっては言うまでもないことなのかもしれない。けれど、僕自身がそう実感するに至った00年代前半の、さらに少し前。まだインターネットが普及し始めたばかりの頃に、そのような指摘が書かれている本が出版されていたのだとか。

 つながりすぎないで、つながれることを知る。こういう関係が、インターネットの上では、リアルに感じられるかもしれません。「ひとりぼっち」なんだけれど、それは否定的な「ひとりぼっち」ではない。孤独なんだけれど、孤独ではない。

(糸井重里著『インターネット的』Kindle版 位置No.485より)

 2001年に出版された、『インターネット的』。近年になって「今の時代が予見されている」と再注目されていた糸井重里さんの本を、ようやっと読むことができました。

今も昔も変わらない「インターネット」の姿

 本書を読み進めるなかでまず驚かされるのが、出版された当時の雰囲気──「時代感」のようなものを、ほとんど感じないということ。

 読み進めるなかで、当時の流行りや時事ネタなどがほとんど話題に挙がらない。糸井さん個人の体験や普遍的な日常の出来事を切り口に話をしているため、まったく古臭さを感じることがないんですよね。強いて言えば、ポロッと出てきた作家名や作品名、そして “ケイタイ電話” などの一部の単語くらいかしら。

 それでいて、肝心の内容も色褪せていないという。それどころか、2019年現在も変わらない「インターネット」の姿を示しつつ、当時は存在していなかったサービスの登場を予見しているという、もはや末恐ろしさを感じられるほどの内容です。

 「SNS」という単語が生まれる以前からその可能性を指摘し、個人の情報発信の価値がますます高まっていくと考え、今まさに進行中のパラレルキャリア的な働き方の到来を予見していた本書。こちらが出版された2001年と言えば……mixiはおろか、前略プロフィールすら存在していない時期っすよ。マジか。

分けあうということは、なぜかは知らねど、楽しい、と。その「シェア」というよろこびの感覚が、インターネット的なのです。

(糸井重里著『インターネット的』Kindle版 位置No.311より)

「消費者が一定の数だけそろえば商売になる」仕事がうまくいくには、一定の数の消費者と出会うチャンスが必要になります。それをするための最高の道具として、インターネットというものがあります。本人は意識しているかどうかわかりませんが、毎年お客さんに待たれている地酒の杜氏さんは、とても「インターネット的」なのだと言えましょう。

(同著 Kindle版 位置No.996より)

文章がヘタなのに面白い、ということが成り立つのがネット社会なんです。チョーでも何でも、その書き手が楽しくイキイキとした生活をしていれば、書いたものは面白い。

(同著 Kindle版 位置No.1243より)

 「シェア」や「リンク」の重要性は当時から語られていたかと思いますが、本書の指摘のどれもこれもが、2019年現在のインターネットにも当てはまるものばかり。今も昔も変わらないインターネットの特性と魅力を再確認しながら、20年近くも前にその本質を捉えていた糸井さんの見識眼に驚かされる。そんな1冊です。

「インターネット的」とは

 もちろん、一口に「インターネット」と言ってもその捉え方はさまざま。情報メディアやコミュニケーションツールとしての観点からその特徴を指摘することもできますし、通信技術やビジネス面であれこれと論じることも可能。それを十把一絡げにして “本質” を語ろうとするのは、さすがに無理筋でしょう。

 本書はそのように難しく考えるのではなく、そしてインターネットそれ自体を語るのでもなく、インターネットがヒト・モノ・コト働きかける影響について説明していく内容となっています。

 それすなわち、 “インターネット的であること” 。

 インターネットは人と人とをつなげるだけで、それ自体が何かをつくり出すものではない──。今となっては当然かもしれませんが、大切な指摘ですよね。そういった根本的な部分から話を始めているため、今も「インターネット」の役割についてピンときていない人でも、きっと興味深く読めるはずです。

 では、「インターネット的」とはどのような特徴を指すのか。本書ではまず、「リンク」「シェア」「フラット」の3つの軸を指摘。そのうえで、これらの特徴を持つインターネットが人間の生活・社会・思考・表現にどのような影響をもたらすのか、順を追って説明しています。

「インターネット的」の核を成す3つの鍵
  • リンク:一見すると不要な情報でも、そのつながりから可能性を見出せる
     → 役割や肩書きではなく、熱意や知識といった情報でつながる
  • シェア:おすそわけ、分け合うことは楽しい
     → 情報をたくさん出せば出すほど、その人のところに情報が集まる
  • フラット:情報のやりとり自体に意味があり、立場・年齢・性別などの意味が失われる
     → 価値観もフラットになり、各々の優先順位が多様化する

 インターネット的な社会では、どのようなものに価値が生まれるのか。どうやって立ちまわることが、インターネット的な社会では効力を発揮するのか。

 このように本書では、「インターネット的」であることについてさまざまな切り口から語られています。一見すると不要なつながり=リンクの中から発見できる問題、誰もがフラットになるからこそ気付かされる役割の存在──などなど。より具体的な内容は、ぜひ実際に読んで確認してみてください。

 そんななか、読んでいて特に印象に残ったのが、次の指摘です。

インターネットができたことで、「誰でも思ったことを垂れ流せる」という意見は否定的にせよ肯定的にせよ、よく語られてきました。しかし、もっと重要なのは、垂れ流せるとわかったおかげで「思ったり考えたりすることの虚しさがなくなった」ということだと思います。画面の向こう側とこちら側に「人間がいて、つながっている」という実感が、クリエイティブを生み出すこと、送ること、受け取ることの楽しさを思い起こさせてくれたことが、革命的なのだと思っています。

(同著 Kindle版 位置No.1756より)

 言い換えれば、「声なき声が、どこかの誰かに届くようになった」ということ。

 それまでは自分の頭や心の中にためこみ、誰にも話せず、話さずに消えていくだけだった感情や思考、表現や創作を、ネットの海に向かって垂れ流せるようになった。切り取られた言葉を、誰に向けるでもなく呟けるようになった。これは本当に大きな変化であり、僕自身も救われてきたという実感があります。

 世間的には役に立たない、一個人の取り留めのない発言であっても、「もしかしたらどこかの誰かが目にして、共感してくれるかもしれない」という希望を持てる。たとえ共感にまでは至らないとしても、「画面越しに誰かがいる」という安心感は、真にひとりぼっちの状態では得られなかったものだから。

 今日も今日とて、誰に向けて話すでもなく、自分の思いを、自分の言葉で垂れ流す。「バズって人気者になるかも!?」なんて夢は見ないし、そういう結果は求めていない。ただなんとなく、自分が書きたいから、発信したいから。その過程でどこかの誰かに声が届くことがあったら、それはそれでステキなこと。

 お金稼ぎやPVの多寡を「価値」として声高に叫ぶ本が多く出版されている一方で、自分のよく知る、自分を救ってくれたインターネットの姿が、本書には書かれておりました。これまでもこれからも「インターネット的」な営みの中で過ごしていきたいと思いつつ。同様の感覚を持っている人にこそ、本書を勧めたく思います。

 

 

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