1年に2、3冊ほど、本を「ジャケ買い」することがある。
本を買う際にはネットの口コミを頼りにし、すっかり電子書籍で読む習慣が染みついた近頃。事前知識も誰からのおすすめもなく新刊を手にする機会はとんと減ったが、それでもふと、書店に並ぶ本に引き寄せられることがある。
著者名に見覚えがあるわけでなく、イラストや装丁に既視感を覚えるでもなく、「なんとなく」で手が伸びてしまう本。そんなことは年に何回もないため、普段は選り好みしがちな自分もたまには己の直感を信じてみたくなる。実際問題として、 “直感” が当たるかどうかは五分五分といったところなのだけれど。
その直感に従って手に取ったうちの1冊が、この『恋する寄生虫』という本だった。過去形なのは、本書を買ったのが結構前──2016年10月のことだったので。なんとなく気になってレジまで持っていったはいいものの、電子でポチった本の消化を優先するあまり、読むのを忘れていたのです。いやはや、もったいない。
そう、本当に “もったいな” かった。連休の気まぐれに本書を片手に外に出て、普段は入らないような喫茶店に迷いこみ、アイスコーヒーをちびちびしつつページをめくり始めたら、いつの間にか読みふけっていた。2、3日かけてゆっくり読むつもりが、1日で読み終えてしまった。……本当に、おもしろかったのだ。
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〈虫〉でつながる恋模様
本書を手にしたのは2年も前の話になるので、当時の自分がどういった意図で購入に至ったのかはわからない。十中八九は表紙イラストに惹かれたのだと推測できるけれど(ヘッドホン装備のショートヘア女子は正義。寂しげな雪景色も自分好み)、タイトルにも何か感じるところがあったのではないかとも思う。
──恋する寄生虫。
この字面から何をイメージするかは人それぞれでしょうが、当時の自分はおそらく「 “寄生” 的な恋愛模様を描いた物語」という方向で捉えていたのではなかろうか。他者に取り付き、対象の感情を収奪するような恋模様。それが一方的なものか双方向的なものかはさておき、なんとなくドロドロとしたものを感じさせる字面を見て、2年前の自分には何かビビッとくるものがあったのではないかと。それとヘッドホン女子。
要するに、タイトルの “寄生虫” を抽象的な意味で捉えていた格好。寄生虫と聞いて「トキソプラズマは人の性格を歪める」という話も想起したものの、多分そのようなストーリーではないだろうと。比喩としての “寄生虫” であり、まさかマジもんの虫が出てくるわけでもなかろうと。そう思っていた。
ところがどっこい。その “まさか” だった。
本作で描かれるのは、 “寄生虫” を介した男女の恋愛模様。体内に宿した〈虫〉によって惹かれ合い、そうとは知らずに恋をして、感染しているがゆえに苦悩し、また同時に救われた気持ちにもなる、歳の離れた2人の物語。「恋は病」と言うけれど、本作において「恋は虫」。これは、比喩でもなんでもなかったのだ。
恋の病に薬はないが、“虫のいい話”が人を癒やすこともある
失業中の青年と不登校の少女。社会不適合者の烙印を押された2人が織りなす本作は、常に重苦しい雰囲気のなかでストーリーが展開していく。「恋愛小説なのに暗いなんて……」と一瞬書きそうになったが、恋愛とは往々にしてそういうものだった。何もToLOVEる続きの明るく楽しいラブコメばかりではないのだ。
もちろん、心温まるシーンが皆無というわけではない。2人が徐々に心を通わせ、デートまがいの外出をするようになり距離を縮めていく中盤。その様子は、よく知る「恋愛小説」そのものだった。
極度の潔癖症ゆえに人と関わることができない青年と、視線恐怖症ゆえに人前に出られない少女。自分は2人のような大問題を抱えているわけではないものの、「要するに僕は人間に向いていないのだ」と話す彼の精神性には共感できたし、ある種の「似た者同士」ゆえに惹かれ合う2人の関係性は、傍目から見ても応援したくなるようなものだった。そうして気がついた頃には、物語のキャラクターに過ぎない2人にそのような想いを抱く程度には、強く感情移入しながら読み進めている自分がいた。
二十七歳で、初恋だった。
相手は、十七歳の少女だった。
しかし、それを恥ずべきことだとは思わなかった。もとより異常な人間が、異常な状況下で、異常な恋をしたというだけの話だ。何もおかしいところはない。
(三秋縋著『恋する寄生虫』P.151より)
だが、その恋は想像以上に “異常” なものだった。彼らの恋愛感情は、その体に巣食う寄生虫によってもたらされたものであり、2人ともに「人間ぎらい」の性質を持っているのもまた、〈虫〉による影響なのだという。
「不確かな存在によって感情をコントロールされている」とだけ書くと、さすがに非現実的すぎる印象を受けるかもしれない。しかし本作の場合、驚くほどに “寄生虫” という存在を掘り下げ、尺を割いて説明しているため(それも自然な流れで)、読んでいて荒唐無稽とはまったく感じなかった。それどころか、 “寄生虫” の存在が果たす役割が思いのほか大きく、幾重にも重ねられた伏線が次々に回収されていくため、後半は驚きの連続だった。
本作で問われるのは、ずばり〈虫〉によってもたらされた感情の実在性。その恋心が〈虫〉に操られることで生まれたものだとして、それは本当に「嘘」の感情であると言い切れるのだろうか……?
きっかけは〈虫〉だったかもしれない。けれど、そのうえで積み上げてきた2人のやり取りと思い出、抱いた想いと喜怒哀楽の感情をも含めて、すべてが作られたものであると断言できるのだろうか。もし〈虫〉によって作られた関係性が──言い換えれば、「外部環境のひとつ」と捉えることもできる存在が作用して構築された関係性が「嘘」だというのなら、〈虫〉以外の外的要因によって築かれた関係・感情もまた、作られたものであると言えてしまうのでは……?
だって、〈虫〉は僕たちの体の欠かせない一部分なのだ。それを切り離して何かを考えることなんてできない。僕という人間は、〈虫〉を含めた上で、初めて僕と呼べるのだ。
人は頭だけで恋をするわけではない。目で恋をしたり、耳で恋をしたり、指先で恋をしたりする。それならば、僕が〈虫〉で恋をしたって、何もおかしくはない。
(同著 P.293より)
先ほどは「 “寄生虫” は比喩でもなんでもなかった」と書いたが、読み終えてから改めて考えてみると、〈虫〉の存在は比喩としても捉えられるように思えてくる。
たとえば、〈虫〉を「自分の短所」に置き換えてみたらどうだろう。自身は嫌だと感じている部分もひっくるめれば「個性」のひとつであり、自分という人間を構成する大切な一要素。当然、それが縁となって誰かとの関係が始まることだってある。そして、その関係性を指す名前が「恋」であったとしても、何もおかしくはないのだ。
あるいは、寄生虫症を広い意味での「病気」として考えてみてもいいかもしれない。進んで病気になりたい人はいないでしょうが、「病気」をある種の理由付けとすることで救われる人だっている。長年にわたって悩まされていた自身の性格や特徴、それが「病気」であると診断されることで解決策や対処法が見出されたり、同様の病を持つ仲間との出会いがあったり──というように。
自分ではどうしようもないと感じていた問題に「名前」が付けられたことによって、掴みどころのなかったものが形になる。そうして形を与えられることで、精神的に楽になる人がいる。──本作における〈虫〉とは、そのような「名付け」の役割を果たしているようにも感じられた。
そして、そう考えると〈虫〉は、僕らにとってもありふれた存在なのではないだろうか。
自分ひとりの苦しみだと考えていたものが外部と共有されることによって、世界が広がったような実感が得られる。「短所」や「病気」にとどまらず、そのような「世界が広がった」感覚を体験したことのある人は少なからずいるはずだ。
都合の良い話かもしれないけれど、「虫のいい話」が人を癒やすこともある。それは間違いない。曖昧模糊とした感情を苦しみとともに抱え続けるくらいなら、言葉にして断言してしまったほうがいい。それは病気であり、「恋は病」であり、「恋は虫」であるのだと。「言葉」の力はそれだけ強いのだ。
そもそも、人間はバグっている
本作を指して「純愛小説」と呼ぶのは間違っていないし、シンプルでぴったりだと思う。かたや「自由意志」の所在を探る物語として、哲学や心理学の切り口から考えて楽しむこともできそうだ。寄生虫の話も勉強になるし、読めばきっと寄生虫博物館に行きたくなる。本書は、そんな小説だ。
普段の自分であれば、「あーおもしろかった! 機会があれば、作者さんの別の作品も読んでみたいなー」となるところだけれど、今回はいつもと少々異なっていた。「読んでみたいなー」という漠然とした希望でなく、「読まねば……!」という義務感に駆られている。それほどに、本作はおもしろかったのだ。
もちろん本編は言うまでもありませんが、同時に強く印象に残ったのが「あとがき」だった。以下、少し長めですが引用させていただきます。
人間の価値基準というのはけっこう場当たり的なものです。裕福になってから高級レストランで食べたコース料理よりも、極貧時代に学生食堂で食べた数百円の定食のほうが美味しく感じられたり、充実した大学生活を送っていた頃に同棲していた女の子よりも、どん底の生活を送っていた中学生の頃に一度だけ手を握ってくれた女の子のほうが愛おしく感じられたりします。(中略)引き算の幸せ、とでも言うのでしょうか。僕はこうした価値観の倒錯を、人間のもっとも美しいバグのひとつだと思っています。
(同著 P.307より)
そう、 “恋する寄生虫” に感染するまでもなく、そもそも人間はバグっているのだ。まっこと非論理的だと思うし、その不合理ゆえに恋愛で傷ついた経験のある人も多いと思う。でも、そんな “不合理” もひっくるめて愛することができるのが、人間のおもしろいところであるとも感じている。
倫理的に考えれば「狂っている」としか言いようのない倒錯しきった愛情も、一周まわって「純愛」と捉えることができるように。他者に実害を及ぼすようなレベルだとさすがに一歩引いてしまうけれど、それが身近な “不合理” であるのなら、共感できる部分も少なからずある。そして最近気づいたのだけれど、そのような「不合理を愛する物語」を書く作家さんが、自分は結構好きだったりするようなのだ。
だからこそ、 “価値観の倒錯” を指して “人間のもっとも美しいバグのひとつ” と表現するような本書の作者──三秋縋(@everb1ue)さんの著作は、きっと自分に合っているのではないかと、義務感でもって読まなければならないのだと、強く感じられたのでした。よっしゃ、ちょっくら本屋行ってくる。
買ったきり開封すらせずにいたCDや一度も開かずにいた本がある日突然ほかのどんなものより重要に思える瞬間がくるなんてのはよくあることで、ゆえに僕たちも無理に好かれようとはせず、とりあえずでいいので誰かの心の中の本棚やCDラックのような場所に収めてもらうことがだいじなのだとおもいました。
— 三秋 縋 (@everb1ue) 2018年9月11日