忙殺されて“言葉”が雑になりがちな大人に勧めたい『日本語の練習問題』


 出口汪さんの『日本語の練習問題』を読んだ。

 出口さんと言えば、 “カリスマ受験講師” と名高い現代文のプロフェッショナル。参考書を何冊も出版しているため、学生時代に名前を聞いたことがある人も多いのではないかしら。僕自身、受験の際には少なからず彼の参考書のお世話になった覚えがあります。

名文を“練習問題”としてこなし、日本語の論理と感性を身につける

 読んで字のごとく “日本語の練習問題” を取り扱った本書は、複数の視点から日本語の使い方を復習することができる1冊だ。敬語にはじまり、主語と述語、接続語といった文法はもちろん、感情や意思の伝え方、五感の表現方法に擬音語・比喩など、トピックは多岐にわたる。

 幅広い意味での “日本語” を取り扱っているため、受験前の学生だろうが社会人だろうが、年齢に関係なく勧めることのできる教科書的な本であり、読めばきっと何かしらの気づきを得られるはず。僕自身、「自分の使う敬語が適当すぎてヤバい!」と自覚させられたくらいなので。

 このような本を読みつつ、改まって考えてみると、日本語を母語とし、当たり前のように使っている僕らはそのプロフェッショナルのようでいて、実のところあまり考えずに物を言って(書いて)いる。

 文法的な正しさとはどのようなものか。聞く(読む)人に情景を呼び起こすような表現とは。そして、美しい日本語とはどういったものを指すのか──。普段は無意識に使っているそれを再考し、新鮮な視点で「日本語」を学ぶことのできる1冊として、本書は示唆に富んでいる。

 他方で、全体の文章量はさほど多くはなく、意外にもあっさりと読むことができる。かと言って内容が薄いかと言えばそんなことはなく、筆者が「全身全霊で書き上げた」というだけあって非常に濃密だ。

 本文中で “練習問題” として登場するのは、石川啄木、中原中也、梶井基次郎、太宰治らの作品群。名だたる名作を事例に、現代文の講師ならではのわかりやすい解説が添えられており、噛んで含めるように「日本語」を復習することができる。日本語の論理を改めて学びながら、文豪たちの名文=「美しい日本語」を読むことによって、自然と感性を磨くことができる──という寸法だ。

「美しい日本語」とは、美辞麗句を並べることではありません。

 日本語の練習問題をこなすことによって、ふだんの日本語の使い方を変えることです。言葉の使い方を変えるということは、世界の捉え方を変えることに他なりません。

(出口汪『日本語の練習問題』より)

日本語の「美しさ」を決めるのは誰か

 しかしその一方で、これは読む人を選ぶ本であるとも感じた。

 と言うのも、良くも悪くもアツすぎるというか、筆者自身の主張が前面に押し出されすぎているように見えるのだ。出口さんが抱く「美しい日本語」の理想像を皮切りに、それを多くの人に伝えんとする熱意が本文の節々から感じられる……のは良いのだけれど、その “熱” があまりにも強すぎる。

 良く言えば、強い意志を胸に抱く、熱血教師が書き上げた日本語指南書。でもそれは見方を変えると、一方的に「正しさ」を突きつけられているようにも感じられるため、人によっては押しつけがましさを感じるのではないかしら……と。

 もちろん、その主張をすんなりと受け止めることができる人であれば、なんら問題はありません。ただ、自分なりの「日本語観」を持っている人のなかには、本書の “アツさ” に耐えきれず、忌避感を覚える人もいるのではないかと思われました。

 特に、冒頭から何度も何度も繰り返される「美しい日本語」という表現は、自分でも読んでいて違和感を覚えるほどだった。

 たしかに、「日本語の正しさ・美しさが重視されるべき」というのはわかる。「昨今の日本語表現が乱れている」というのも知っている。それを是正するためには「名作文学から学び、日本語の論理と感性を磨くべきだ」という主張にも納得はできる。

 しかし、元も子もないことを言ってしまえば、「美しさ」なんて一個人の感覚でしかない。にも関わらず、「この表現こそが正しく、美しいものだ(≒それ以外は間違いである)」と言い切ってしまうのはどうなんだろう……と、そう考えずにはいられなかったのです。

 ──なるほど、仰るとおり、文豪たちが著した「名文」と呼ばれる文章は紛れもなく美しい。でもだからと言って、現代の日本語表現がそれに劣っており、他人に情報や感情や心を伝えるのに適していないかと言えば、そうは言い切れないんじゃないだろうか。

 もちろん、問題文を読みこみ、解答を導き出す「現代文講師」という筆者の立場を考慮すれば、本書の論調も理解はできる。さらに、本書に登場する名文は数多の研究者によって読み解かれた作品でもあるため、多くの人の共通認識としての「正しさ」が認知されており、それが世間的に広く知られていることにも相違ない。

 ただ、それを引っくるめても、そもそも「言葉」とは、時代によって移ろい変化するものではなかったか──とも考えてしまうのです。古き良き「美しさ」を共有するのも大切だとは思うけれど、時代の流れや環境・文化の変化によっても移ろう表現を考慮せず、「間違っている」「美しくない」と切って捨ててしまうのは、それこそ日本語を雑に扱っているようにも映る。

 ──なーんて感じたことをうだうだと書いてみましたが、何も本書に対して全面的に反論するつもりはございません。ただ、あまりにも美しい美しいと繰り返されているわりに、自分としてはその “美” の理由に納得できる説明がなく、違和感を覚えずにはいられなかったので……。

 そういった部分を除けば本記事冒頭でも書いたとおり、この『練習問題』で取り上げられているトピックは多岐にわたり、個人的にも学びの多い1冊となりました。普段から少なからず「日本語」や「文章」と向き合っている人であれば、きっと何らかの気づきを得られるはずです。

 僕自身、敬語の使い方を復習することができたし、“問題”として参照されている名文はどれも魅力的。買ったはいいものの近頃読めていなかった中也の詩集を再読しようと決意するくらいには、読後に行動を起こすべく感化される1冊となりました。

 すべての物を「綺麗だ」「汚い」といった言葉だけで認識する人と、一つひとつの対象の違いを正確な言葉で表現する人とでは、その感性は大きく異なっています。

 もう少し具体的にいうと、「感情語」だけでは「表面的なありふれた感覚」しか相手に伝わらないということです。

 それまでの人生で最も美しい景色を見たとしても、それをただ「美しかった」と表現しては、人生最大の感動があったことを相手に伝えられません。

(出口汪『日本語の練習問題』より)

 なかでも印象的だったのが、こちらの指摘。普段からこうしてブログを書き連ねていても、文章の「わかりやすさ」を何よりも重視するべきだという意見はたびたび目にするもの。でもだからと言って、一言二言の「すごい!」「おいしい!」だけでは、まったく何も伝わらない。

 「とにかくわかりやすく、思ったこと、感じたことを素直に書こう!」とは、一見すると正しいようにも思える。でも同時に、言葉をこねくり回さず、無思考に安易な表現に飛びつき、複数の視点から試行錯誤せずして、「なーにが “わかりやすく” やねん!」と感じる部分もなくはない。

 そんなときにこそ、こうした “練習問題” が活きてくると思うのです。

 名文を知り、根底に流れる文法を学び、正しい表現を考え、それを自分のものとして落とし込む。その一連の作業を経ることによって、生きた日本語を身につけることができるのではないかしら。学生は言うに及ばず、大人になり、日々の忙しさのなかで「言葉」を丁寧に扱うのが難しくなりつつある大人にこそ、この『練習問題』をおすすめしたい。そう思いました。

 

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