ファッションとは?素人が『ちぐはぐな身体』を読んだらいろいろ納得した


 

 鷲田清一さんの『ちぐはぐな身体』を読みました。自分にとっては、もはや異文化とも言えるほどに縁のない「ファッション」に関する本をたまには読もうと思い立ち、手に取ってみた格好。

 むっちゃおもしろかったんだけど、僕の知ってる「ファッション」と違う……。

 

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とあるオタクのファッション感覚

 「ファッション」とは無縁の生活を送ってきた……と思う。下着・靴下以外の服なんて年に数着も買わないし、買うにしても決まったブランドの無難な衣類ばかり。服を選ぶのは、ダルい。

 なぜって、自分の好みやフィーリングで買ったところで、親や友人から「それはおかしい」とツッコまれるのが目に見えているから。ブッ飛んだ装飾や色合いの服を選んでいるつもりはないのに、周囲に言わせれば「普通じゃない」らしい。そうなのか……。

 それならば勉強しようと、高校・大学時代にはいくつかの雑誌を手に取り、道行く人の姿格好を観察していた時期もある。けれど、それでもなお服を買うと、「やっぱり変だ」「明らかに浮いてる」と言われる。……ダメだこりゃ、どうやら僕は、絶望的にファッションセンスがないらしい。

 

 そんなこともあって、僕は「ファッション」――もとい、自分の服装を気にするのをやめた。着るものと言えば父親や親戚のおさがりか、誕生日に母親が気を利かせて買ってくれた服くらい。

 増えても年に数着程度なので、切れてボロボロにでもならないかぎりは衣類を捨てるような機会もなく、衣装ケースには、小学生時代のパーカーやら高校生時代に買ったワイシャツやらがいまだに残っている。……さすがに外出時に着ることはなく、家着として使っている感じだけど。

 

 ともあれ、そんな自分が学生時代に認識した「ファッション」とはすなわち、「流行やルールに沿った衣服の組み合わせ」であり、その目的は「周囲に合わせて溶け込む」ことであり、なかには「目立たない程度に独自の着飾り方で自己表現する」人もいる、というものだった。

 ……うん、全力でかったるい。というか1着が数千円もする洋服を取りそろえるくらいなら、同じ価格帯か場合によってはもっと安い娯楽に注ぎこんだほうが楽しいじゃあないか。ゲームソフトやCDはもちろん、文庫本・コミックに至っては10冊単位で買えるじゃん。わぁい。

 

「ちぐはぐ」を自覚し、志向し、距離感覚を引き受ける

 ――という、偏りに偏りまくった前提でもって本書『ちぐはぐな身体』を読みはじめたところ、あまりの認識の差異にくらっときた。

 

ファッションというのは、規定の何かを外すことであり、ずらすことであり、くずすことであり、つまりは、共同生活の軸とでも呼べるいろいろな標準や規範から一貫して外れているその感覚のことだからだ。

 

 僕の知ってる「ファッション」とぜんぜん違うじゃないですかー! むしろ “規定” に合わせ、制服のごとく “お約束” を学び、社会における “普通” を体現するものだと自分が思っていた自分のファッション認識は、本書の事例で言えば「ダイエット症候群」に近いように見える。

 ――なーんだ、ズレていたところで問題なかったのか……と思ったら、続けてこうも書かれていた。

 

ファッションというと、まず着飾るというイメージがあるが、ファッションとはほんとうは社会を組み立てている規範や価値観との距離感覚であり、ひいてはじぶんとの距離感覚であるとおもう。

 

 まずは前提としてのルールや約束があり、それに沿って着飾ることが「ファッション」である。と同時に、たとえ世間の流行からズレていてもなお、 “規範や価値観との距離感覚” も含めて「ファッション」であると言える、という指摘。

 これに当てはめると(当てはめなくても)、僕の “距離感覚” は明らかに流行とかけ離れていると換言できる。そういう意味では、これまでと違う「ファッション」の考え方を知ったところで結局、その認識は変わらない。センス皆無のド素人であり、浮いてなんぼのオタクでござる。

 

 しかし一方で、本書はファッション以前の「そもそも」をも説いている。モード=流行としてのファッションを論じている先ほどの引用も、実は終盤のもの。結論に近い言説だ。ここに至るまでには、衣服の前段階として、タイトルにもある “身体”“ちぐはぐ” っぷりが書かれている。

 曰く、「そもそも人間(特に自己)の身体はいかにして認知されるのか」「衣類の役割はなんぞや」「制服が付与する《属性》の良し悪し」「デザイナーの意図はどこにあるのか」などなど。哲学者である筆者の論調はタイトルに反して明快で、おもしろく読むことができました。

 

「自分の身体」を再考することで、自己肯定にもつながる

 ざっくりと言えば、本書が示しているのは「ファッション」の基礎知識や在り方というより、衣類をまとう「人間の身体という存在」そのものに対する考え方である。――自分には、そのように読めた。

 言い換えれば、性別・年齢・背格好・用途といった視点から衣服を検討する「個々人の身体」の姿形ではなく、「そもそも、人間の身体ってどんなもの?」から始めている一冊。それゆえ、知識もセンスも皆無な自分でも読みやすく、実際、高校生向けに書かれた本らしい。わ、わぁい……。

 

 ぼくらの身体というのは、知覚情報も乏しいし、思うがままに統御もできないという意味では、ぼくらにとって想像以上に遠く隔たったものだ。

 ぼくの身体でぼくがじかに見たり触れたりして確認できるのは、つねにその断片でしかないとすると、このぼくの身体って離れて見ればこんなふうに見えるんだろうな……という想像のなかでしか、ぼくの身体はその全体像をあらわさないと言っていいはずだ。つまり、ぼくの身体とはぼくが想像するもの、つまり〈像(イメージ)〉でしかないことになる。

 

 鏡なしで自分の顔をまじまじと見ることは叶わず、鏡を使っても全身をくまなく把握することは難しい。僕らの身体はこれ以上ないほど身近な自分のものであるにも関わらず、それは同時に遠く曖昧な存在だ。

 ゆえに、視覚以外の面で身体の存在を強く認識できる、皮膚感覚が重要になってくる。お風呂に入ったり、シャワーを浴びたり、他者と肌を触れ合わせたり。そして、衣服をまとうことによって全身で己の肉体の形を知覚し、その存在を補填することができる。

 また同時に、衣服は時にその人の言動以上に個人を規定する。その人の “〈存在〉を〈属性〉に還元する” 制服をはじめ、少し着崩すだけでそれがある種の意思表明、個性の発露と受け取ることもできなくはない。あえて「外れる」ことで初めて、「ファッション」が始められる。

 

たいていの服というのは個人のイメージについての社会的な規範(行動様式、性別、性格、モラルなど)を縫いつけている。その着心地がわるくて、ぼくらはそれを勝手に着くずしてゆく。どこまでやれば他人が注目してくれるか、どこまでやれば社会の側からの厳しい抵抗にあうか、などといったことをからだで確認していくのだ。が、それは抵抗のための抵抗としてなされるのではない。じぶんがだれかを確認したいという、ぎりぎりの行為、のっぴきならない行為としておこなわれるのだ。

 

 ――とここまで読んで思い返してみれば、腰パンにしてみたり、ボタンを付け替えてみたりといった思春期の “抵抗” は、きっと多くの中学・高校で珍しくない光景だったはず。

 そういった小さな、でもこだわりのある “抵抗” によって、不確かな己の身体の存在を試行錯誤していた人たち。彼らはきっと、卒業後はいわゆる「おしゃれ」な人間として自然と流行を追えるようになったのではないかしら。そして逆に、僕のような諦めた人間がネルシャツマンになるのもまた、自然な流れだと言える。手近な《属性》としてオタクになった……わけではないけれど。

 

制服を着ると、ひとの存在がその(社会的な)《属性》に還元されてしまう。そうすることで、ひとは「だれ」として現れなくてもすむ。人格としての固有性をゆるめることのできる服とは、そのなかに隠れることができる服である。そう考えると、現在の制服も、人びとによって、人格の拘束とか画一化などといった視点からではなく、むしろ制服こそが“自然体”という感覚で受けとめられだしているのかもしれない。

 

 一方で、合わせて言及されていた「制服」の利点についても納得できる。本書は1995年の出版ですが、現在、そして学生・会社員時代の自分の感覚としても共感できるので。

 ただしこれは、よく言われるメリットのひとつである「自分で選ぶ必要がないから楽」というよりは、「気負うことなく集団に溶けこむことができて楽」という、個人の社会的な立ち位置の問題として説明されている点には留意しておきたい。過度なアイデンティティを重視し、一個人としての「わたし」や「ぼく」としての「自分らしさ」をしばしば求めてしまいがちな若者にとっての制服は、「わたし」を覆い隠す避難場所にもなる。

 

 こうして見ると、本書は「ファッション」をメイントピックのひとつとして論じた本でありながら、その中心にあるのは筆者の専門とする「身体論」を紐解いた内容であり、それが結果として読者に「自己肯定」的な効用をもたらすようにも感じた。

 畢竟、「ヒトの身体を考える」とは、「己の身体を考える」ことと同義であるわけで。自身の身体について再考しつつ、さらに付随する要素・比較対象としての「衣服」を持ち出し、「制服を着崩してもおっけー☆」=「ズレていてもええじゃないか」=「それもまたファッションだ」と説明することで、流行や規範に縛られている人の心を解きほぐしてくれるのではなかろうか。

 

ぼくらの身体感覚はいつも断片のように散らばっている。それらの断片を縫うようにして、想像力が「わたしの身体」を一つの全体像として描きだす。ぼくらの存在はその意味で、一種のつぎはぎ細工だ。想像力がたよりなのだ。想像力が衰弱すると、かろうじて服がそれを支えてくれる。服が想像力をもう一度かりたてる。だから、無理をしなくてはならないのだ。気張らなくてはならないのだ。じぶんを下りられなくするために、だ。

 

 不安定で、不確定で、ちぐはぐ。そんなどうしようもない己の身体を持て余しつつも、「つぎはぎ上等じゃい!」と開き直ることができる。そんな力が、この本にはある――と、ファッション音痴な自分なりに感じました。

 実際、自分の場合は着物を着るようになったことでまさにこの「皮膚感覚」を強く意識し、己の身体性の獲得に至ったという実感があったので、納得できる言説が多かったです。ファッションがよくわからない人、あるいは考えすぎて疲れ切った人におすすめできそう。

 あと、本書で語られている「着崩す」「ずらす」「はずす」こと、――まとめて “「非風をまぜること」、そこに生じるちぐはぐがかっこいい” という言説は、本文中では別の文脈で引用されていた九鬼周造の「いき」の考え方にもつながるように思えた。ちょうど再読しようと考えていたので、こちらは別の機会に考えてみたい。

 

 

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