山田ズーニーさんの著書『あなたの話はなぜ「通じない」のか』を読みました。
話が通じるためには、日ごろから人との関わり合いの中で、自分というメディアの信頼性を高めていく必要がある。
普段の雑談から、職場での上限関係、メールでのやり取りに、はたまたインターネット上での交流に至るまで。この一冊で論じられているのは、あらゆるコミュニケーションを円滑にし、ただ会話をやり過ごすのではなく、双方の納得のいく形で「自分」の意見を伝えるための方法。
その鍵となるのが、「メディア力」。最初は何のことやらと思いながら読み進めていましたが、ブログやSNSといった “自分メディア” を持つ人が少なくない現状を鑑みれば、納得のいく説明ばかり。
──そう、人見知りな人間だって、「文章」でなら自分を伝えられることを自分は知っている。そして、その方法と考え方は、対面コミュニケーションでも変わらない。
「伝わる」が大前提となる対人コミュニケーション
広い意味での「コミュニケーション」を論じた本は少なくない……というか、書店に足を運べば、膨大な数のハウツー本が見つかる。コミュ力が云々、伝え方がどうの、話し方がこうの、会話のルールがほにゃらら──と、ベストセラー本も数多い。
そういったコミュニケーション本は、営業やビジネス、あるいは雑談に特化した視点で著された本もあり、一概にどれが正解だと断言できるものではない。そもそも社会の中で付き合う相手が千差万別である以上、「対人コミュニケーション・完全コンプリートガイド」なんてものが作られることはないように思う。……あったとしても、とんでもない文量になりそう。
しかし一方では、自分が過去に読んできた本の傾向をを見ると、いくつかの共通点があるようにも感じられるのも事実。そのうちのひとつが、多くのコミュニケーション本には、「伝わる」という表現が繰り返し登場するという点だ。
コミュニケーションは、自分が伝えたいと意識したことが相手に伝わるわけではない。逆に言えば、伝えたいことなんてなくても、何かが伝わってしまうことが前提になっているんです。
(吉田尚記 著『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』)
「伝える」ことばかり考えると、結局、相手のことを考えず、自分の意志を押し通すエゴになってしまう (中略) 「伝わる」ためには相手の気持ちを徹底的に想像して、その人が嬉しくなって、心が動くアイデアを考えなければいけません。
(小西利行 著『伝わっているか?』)
話すべき内容があって、「伝えたい」という熱い思いがあれば、それは相手に伝わるものなのです。「これだけは伝えたい」という、内心からほとばしり出る情熱があれば、たとえ説明は拙くても、それは相手に伝わるのだと思います。ただそのとき、相手への想像力、相手への思いやりを忘れさえしなければ。
(池上彰 著『相手に「伝わる」話し方 ぼくはこんなことを考えながら話してきた』)
言うまでもないが、コミュニケーションには「相手」の存在が不可欠だ。自分の主張や意見を持つのが第一段階、それを相手の理解できる表現で言語化し伝えるまでが第二段階、そして最後に、こちらの言葉を受け取った相手がその意図を理解し、「伝わる」までが第三段階。
つまり、コミュニケーションが成り立つには「伝わる」ことが大前提だと言える。なればこそ、多くのハウツー本では「伝わる」ための手法や考え方が取り上げられ、筆者もまた、あの手この手で「伝わる」内容の本とするべく執筆に取り組んでいたのではないかと想像できる。
想いが“通じる”ための5つの視点
前置きが長くなりましたが、この「伝わる」という大前提は当然、本書でも共有されているように読めた。はっきりと明文化されているわけではないものの、同様の表現が認められる。それが、冒頭で挙げられている「想いが通じる5つの基礎」であり、「通じる」=「伝わる」と換言できる。
- 自分のメディア力を上げる
- 相手にとっての意味を考える
- 自分が一番言いたいことをはっきりさせる
- 意見の理由を説明する
- 自分の根っこの想いにうそをつかない
先ほど書いた “段階” に当てはめると、自分の主張や意見を持つ第一段階が「3」、それを相手の理解できる表現で言語化し伝えんとする第二段階が「4」と言い換えられそうだ。
そして最後、自分の言葉を受け取った相手がその意図を理解し “伝わる” 、第三段階。それこそが、これら「基礎」を実践することで得られる結果であり、目指すべき目的として、本書では論じられている。
話が通じるとは、勝ち負けでなく、あなたと相手の間に橋を架けるようなものだ。伝えるほどに、あなたへの信頼が高まり、結果的にあなたのメディア力が上がるから、話はますます通じやすくなる、そういういい循環を起こしていきたい。
言うなれば本書は、コミュニケーションの最低条件である「伝わる」は当然のこととして説明しつつ、その一歩先、「自分の意見を齟齬なく相手に伝え、理解・納得してもらう」ところまで踏み込んで書かれたハウツー本だ。
すぐに実践するのは難しいけれど、読んでいて、どれも本質を突いた言説ばかりであるように感じられた。同時に、考えるべきことが多すぎて混乱しかねないようにも読めたが、その点は、冒頭から一貫して主張されている一文に立ち返れば整理しやすい。それこそが、「メディア力」だ。
個人の「メディア力」を構築する、「論理」と「共感」
本書は、全5章構成。第1章〈コミュニケーションのゴールとは?〉で目指すべき目的を共有し、続く第2章〈人を「説得」する技術〉では論理的な主張を考える方法を解説しつつも、第3章〈正論を言うとなぜ孤立するのか?〉では「論理」の問題点を指摘。
本文後半、第4章〈共感の方法〉で論理を手助けする「共感」の存在を提示し、第5章〈信頼の条件〉では共感の先、メディア力の本質でもある「信頼」を築くために必要な要素を提示。そして最後は、前向きに「コミュニケーション」を見つめなおすための激励で閉めています。
細分化すれば、本文で取り上げてられている視点・考え方は非常に多種多彩。それもすべてが一連の流れとしてつながっているため、「こうしておけば間違いない!」とこの場で断言できるものではない。
ただし大別すると、自分の話が「通じる」ためのコミュニケーションに必要な要素は、「論理」と「共感」の2つに整理できる。いずれかが欠けていればコミュニケーションは成り立たず、結果として「メディア力」の形成にもつながらない。
「時間を守るのは人としてあたりまえ」、これは結論だ。いきなり結論で通じ合うには、ある程度の共通項が必要だ。共通の背景、共通の価値観、共通のビジョン。
まずは「論理」。とかくコミュニケーションにおいては、自分の「常識」や「普通」を押し付けてしまいがちだ。しかし、それは論理的ではないし、相手も納得できない。自分にとっての当たり前が相手にとってもそうとは限らず、異なる考えを持つ人間を説得することは難しい。
背景、共有できない、価値観、共有できない、ビジョン、共有できない。そういう相手でも、「問い」なら通じ合える。
「これはこうだ」と結論で通じ合えなくても、「これはどうなんだろう?」なら通じ合える。魅力ある「問い」があれば相手を巻き込める。
そこで筆者が提案しているのが、結論ではなく「問い」を示すこと。なぜそれは推奨されないのか。どうして時間を守る必要があるのか。時間を守らないことによって発生する問題は何か。──そういった「問い」を互いに共有することで、自分の意図=「結論」に結びつける考え方だ。
これは、普段からインターネットに親しんでいる人なら、見覚えのある光景なのではないかとも思う。問題の理由や論理を無視したまま、「それはおかしい」「私はこう考える」と断言した結果、多くの批判を集めてしまう現象。あるいは、論理を明確にしていても「でも、こっちは違うだろ!」と飛んでくる、見当違いの高飛車なコメントなど。
そういった場面では、双方の「言いたいこと」だけが衝突する形になっており、コミュニケーション以前の問題であるように見える。自分の主張と「なぜ」を明確にせず、もしくは相手の意図を汲まずに言語化した結果のすれ違い。同じ問題を話しているようで、全く別の方向を向いている。
そこで同じ方向を向くために必要なのが、ここで論じられている「問い」の存在だ。自分の意見を表明する前に「なぜ」の行方を明らかにすることで、相手と問題を共有する格好。小論文において何よりも「問題提起」が重要視されることと、つながる部分もあるのではないかしら。
正論は強い、正論には反論できない、正論は人を支配し、傷つける。人に何か正しいことを教えようとするなら、「どういう関係性の中で言うか?」を考えぬくことだ。それは、正論を言うとき、自分の目線は、必ず相手より高くなっているからだ。
しかし同時に、筆者は「正論」が必ずしも相手に伝わるとも限らない、とも指摘している。説得力のある論理、理由が並べられた批判、誰にとっても歴然の真実だからこそ、素直に納得できない場合もある。それが真に迫っていればいるほど、「感情」がそれを認めることを拒否してしまう。
人の発信には100%、心をこめた早めのリアクションを心がける。これをずっと続けるだけで周囲のあなたへの理解は増す。受け止めて、理解して、リアクションの達人になるのだ。
そんなときにこそ必要となるのが、相手に寄り添う「共感」の視点だ。ただただ暴力的に論理を叩きつけるのではなく、理解できない、理解することを拒んでいる相手の感情を考慮して、正しい部分はそうと認めつつ、自分を「信頼」してもらうこと。
この「信頼」を言い換えたものが、冒頭から登場している「メディア力」だと筆者は説明している。 “言葉が通じないのは、通じるだけの信頼関係がないからだ” として、そこで「通じる」ための関係性を保証するのが、 “その人固有の「人との信頼の体系」” である「メディア力」である、と。
──こうしてまとめて書こうとすると、どことなく「上から目線」っぽく読めてしまいますが……。本文中の筆者の説明は非常に丁寧で、同じ目線に立って論じられているように読めるものでした。まさにこの本一冊を通して、相手に「伝わる」ための手法を実践している形。すごい。
「自分メディア」が当然となった現代のコミュニケーション
この『あなたの話はなぜ「通じない」のか』が出版されたのは、2003年。本文中ではメールやネットの例が出ているものの、まだSNSが普及する前の時代になります。
にも関わらず、本書に登場する事例は対面コミュニケーションにとどまらない、現代のSNSやブログにも当てはまるものであるように感じました。……というか自分の場合、普段から長時間をネットで過ごしていることもあり、「これ、ブログで見たことある!」なんて頷きながら読んでおりましたので。
「何を言うか」よりも、「だれが言うか」が雄弁なときがある。
本書はこのような一文で始まっていますが、SNS全盛を迎えた現在においても、それは変わっていないように思います。フォロワーやアクセス数などの数字を持つものこそが強者とされ、「だれ」が何よりも重視されている文化圏。
もちろん、それが悪い意味で作用することもあります。いつの世も嘘つきの常習犯は信用されず、他者を慮らない人の周囲には同様のコミュニティが形成される。悪印象が張り付いてしまった「だれ」は、「何」を言おうと話が通じなくなってしまいかねないリスクを持つことになる。
なればこそ、少しでも数多くの人に自分の想いを伝えようとするのなら、個々のコミュニケーションに気を払い、 自身の「メディア力」を一定以上に保ち続ける意識が必要になるのではないかと。「論理」と「共感」の要素を意識し、自分を理解し、相手を敬うコミュニケーションを心掛けることによって、自分のメディア力が向上し、ひいては信頼につながる、と。
もともとは「ひさしぶりにコミュニケーション本でも読んでみっかー」と軽い気持ちで手を出した本だったのですが、まさかネットコミュニケーションにまで考えが及ぶとは思わず、収穫も多い一冊でございました。間違いなく、何度も読み返すことになるでしょう。