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“いいね”によって失われた言葉と、ネットの非言語コミュニケーションのメリット


 

「省略している言葉」についてちょっと思うことがあったので、考えたことをば。

 

簡略化されたコミュニケーションは楽チン

LINEやMessengerといったコミュニケーションアプリが普及するのは、あっという間だった。昔から類似のチャット風サービスはあったものの、それらは新たにスマホに最適化されることによって、個人・集団を問わず離れた人同士のコミュニケーションを円滑にした。

電話ほどに気合を入れる必要もなければ、必ずしもお互いがリアルタイムにやり取りをしなくてもいい。メールほどに形式張ったものでもなく、時候の挨拶や定型文をいちいち添えるような必要もない。

気軽に押せるスタンプは、堅苦しい上下関係をも超越した……のかも?

LINEスタンプがもたらしたのは、一目でわかる非言語コミュニケーションの「わかりやすさ」と「お手軽さ」。可否を示すシンプルな「OK」「NG」は当然として、使う場面が限定的すぎるやり取りや、一見すると意味不明なイラストなど、なんでもあり。

イラストとして意味を固定されたスタンプは、画面上で行われるコミュニケーションを徹底的に簡略化した。

了承ひとつにしても、どういった言い回しでどのような敬語を使って……とか考える必要はなく、「目上の相手に対して『了解』は失礼だ」云々といった規範の存在もない。

単純明快な意味しか持たない「記号」でありながらも、そこには「どのスタンプを使うか」という選択肢の幅もあり、別種の文脈が生まれている点もおもしろい。

どんなキャラクターのスタンプを使うかが「個性」となり、それによって生まれるコミュニケーションもある。世代や地域、職種や文化によって異なる独自のルールやマナーといったものはなく、そこには共通言語としての「スタンプ」と、端的なやり取りが基本となる「チャット」があるだけだ。

そうしたLINEスタンプ、もしくはTwitterの「ふぁぼ」といった非言語コミュニケーションは、本来ならばその背後にあるはずの言葉や思惑を排除した、直感的なやり取りが基本となっている。

結果、SNS上での交流が簡略化されることによって、ユーザー各々が膨大な情報に触れられるようになり、同時に、たくさんの人とゆるくつながれるようになった……という見方もできるのではないかしら。

 

スタンプひとつ取っても、各々によって解釈が異なるケースもありますが。

 

非言語コミュニケーションによって省略されたもの

LINEスタンプの他にも、Vineに代表される短い動画やそれに付随した音声コンテンツなど、現代のネット上ではテキスト以外の、非言語によるコミュニケーションが当然となっている。

これら簡略化されたコミュニケーション手法によって、一度のやり取りに割く時間が短くなり、効率的になったことは間違いないと思う。でもだからと言っていいことだらけかと言えば、そうとも言い切れない。Twitterの「ふぁぼ」の使い分けなんかも、そのひとつかと。

 

これまでの「☆」こと「お気に入り」ボタンには、ありとあらゆる感情・意味が付与され、そのときどきで違った使い方をされていたように思う。「気になる」「共感」「メモ」「既読」などなど。

確かに、そういった意味合いの違いによってたびたび衝突が起こっていたのも事実。「会話の終わりには『☆』を付けなければならない」という自分ルールを周囲に押し付けてしまったり、気軽につけただけのスターを深読みしてしまったり。むっちゃハイコンテクストな文化。

 

共有されていない “自分ルール” 同士の衝突や、「実はこういう意図でスタンプを押したんじゃないか」といった深読みによるすれ違い。

非言語コミュニケーションは単純すぎる。そしてそれゆえに、一方が余計な文脈をそこに差し込もうとしただけで、容易にディスコミュニケーションが発生してしまう。

しかし同時に、そういった「記号」によるやり取りがシンプルであるがゆえに「余計なことば」を排除し、無用な争いを避けているようなケースもあるんじゃないかと思う。

批判に対して熱くなって反論せず、「読んだぞふぁぼ」で終わらせるとか。相手の要求が行き過ぎていると感じるものの、時間を取って反対意見を考えるほどではないため、妥協して「OKスタンプ」ひとつで了承するとか。

本当はいろいろと思うところや感じるところがあるけれど、手軽で簡単だから「スタンプ」や「ふぁぼ」で終わらせてしまうような形。それが必ずしも最適解であるとは言い切れないものの、そうすることで回避された諍いもあるのではないかしら。

あえて「物申さない」という選択肢が、そこにはある。

 

「省略された言葉」の行き場

しかし、そういった「スタンプで済むから」という思惑で省略されてしまった言葉は、消えてなくなってしまうのだろうか。考え方によっては自分に「我慢」を強いているようにも見えるため、コミュニケーションにおけるストレス負荷として蓄積されてはいないだろうか。

そこで積もり積もった「ストレス」はどこへ向かうかと言えば、自然と外部での「愚痴」につながるんじゃないかと思う。SNSでちょっとネタっぽく吐き出してみるとか──と考えると、「対面コミュニケーションにおける不和」と「それを解消する飲み会の愚痴」の構造となんら変わりないですね。

というかそれ以前の問題として──非言語云々とは言うものの──そもそも、日頃の自分が考えているすべての感情を言語化することは不可能だ。「ことば」はいつだって不完全で、相手に正しく伝わるかどうかなんてわからず、そもそも自分でも何を言いたいかがわかっていないこともある。

だからこそ、「なるべく話して『ことば』にする」作業は大切だと思うものの、非言語コミュニケーション全盛の現代ネットにおいて、そうした思考過程は余分であるようにも見える。記号を使えば簡単に意図は伝わってしまうし、ぶっちゃけそのほうが楽だ。いちいちメールの文章を考えるのはかったるい。

だけどだけど、非言語によって覆い隠された感情や主張は「省略された」だけであって、やっぱり消えてなくなったわけではないとも思う。スタンプひとつ押すにも、ふぁぼひとつ付けるにも、画面上のボタンを選択するまでの一瞬の中では、内心の葛藤と決断があったはず。

莫大な情報量と目まぐるしい日常生活に立ち向かうためには、非言語コミュニケーションの利便性が欠かせない。しかし他方で、その過程で失われた「ことば」を書き綴る場所も必要であると感じている。ひとつのスタンプ、ひとつのふぁぼに込めた想いと感情を振り返る機会があってもいいんじゃないかしら。

 

──というわけで、そんな思考を書き殴るチラシの裏として、僕はいつもこの空間をおすすめしているのです。ブログやろうぜ!(丸投げ)

 

 

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