「わからない」からこそプロフェッショナルになれる


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 20歳になれば、『大人』という力を手に入れることができると思っていた。

 ――というのは、まあ比喩でしかないのだけれど。ともかく、社会的に「成人」として認められ、お酒も煙草も許されて、自分の身ひとつで世間を渡り歩き、手に職つけて稼いだお金を自分の自由に使うことができるのだ――と、そう思っていたのだ。

 

 ところが、今となってはそんな幻想は遥か遠く、現在はただただ自分の無力さを痛感するだけの日々。「社会」なんてものは本当に不確かで、曖昧模糊としているくせに残酷で、『大人』は思っていた以上にカッコイイものじゃなかった。

 いや、そもそも『大人』なんていなかった。どうしてそれを守るべきなのかも知れない「規範」や「マナー」を疑いもなく信じ、成功者を神と崇め、自分の正しさを証明するべく他人を蹴落とす人ばかり。……そういうのは声の大きな一部の人で、中には “カッコイイ” 人もいると知ってはいるけれど。

 

 『大人』も『こども』も何も変わらず、みんな等しく「人間」でしかなかった。

 

目に見えない存在に従属していれば無問題

 「わかった振りをする」ことが『大人』である、と言う人がいた。

 

 世間的に広く周知されている規範としての「常識」を知り、守るべし。通念としてのビジネスマナーを学び、遵守せよ。集団に、組織に、社会に溶け込み、多数のうちの「個」として労働に励まねばならない。それを実践できる人こそが、『大人』である――と。

 『大人』は、決して疑問を持ってはならない。何よりも「和」を尊ぶ彼らは、空気を乱されることを嫌い、不必要な時間を割かれることを忌避する。社会のことを何も知らない若者には口を挟むことすら許されず、「上下関係」の名の下に一蹴される。口を動かすなら手を動かせ――と。

 

 ゆえに、「常識」や「マナー」は “知っている” だけで構わない。それが、なぜ「常識」として広く共有されているか、どうして「マナー」として周知されているか。そういったことを “理解する” 必要は皆無である。ただ、 “前へ倣え” であり続けるべし。

 だって、下手に理解しようとすれば、疑問を抱いてしまう。胸に込み上げてきた疑念を晴らすべく質問したところで、「余計な時間を取らせるな」「そういうもんなんだ」と一笑に付されるのは目に見えている。モヤモヤを抱えて生きていくくらいならば、知らずに従っているだけでいい。

 

 そのほうが、楽だから。

 

 “理解する” 必要なんてない。ただ、 “知って” いるだけでいい。たとえ意味がわからなくたって、それは社会様が「そういうもの」として決めているものだから。みんながそうだと信じているかぎり、なーんにも困ることはないのだから。

 

「わからない」を「わかる」ところから始めよう

 しかし、『大人』だろうが『こども』だろうが、対等な「人間関係」においてはそうもいかない

 手放しで自分のことを愛してくれる人なんて家族くらいのもので(それすらも不安定なものではあるけれど)、それ以外の関係性は、どちらかが諦めればいとも容易く壊れてしまう。だからこそ、誰しもが「わかった振り」ををしてでも関係にしがみつく。

 

 「わかった振り」をすること、それ自体は悪くはないと思う。ただ、ある人のことを必要以上に「わかる」と思いこみ、幻想を押し付けてしまうのはちょっと怖い。もし一度でもその幻想が裏切られてしまえば、そこで発生したダメージは双方に振りかかる。

 曰く、「そんな人だとは思っていなかった」「理解してくれていると思っていた」――などなど。ひとたび可視化されたすれ違いが自然修復されることはなく、相互に歩み寄る努力がなければ、再び結ばれることもない。なればこそ、大切なのは「わからない」を知ったときの対応だ。

 

時折、実際にひどく優秀なのに「人の心がわからない」あるいは「人の心を考えるのが苦手」という人物に出会うことがあり、決して無理な設定ではないのかもしれない。

大切なのは、こういう人たちは人の心が「わからない」のであって、「わかろうとしない」のではない、ということだ。

むしろわからないからこそ、色々な可能性を想像して手を打ったり、他の人よりも深く検討していたりする。

 

 「わからない」を知らなければ、「わかろうとする」ための行動にも移せないし、最終的に「わかる」ところまで行きつけない。自身が「わからない」と自覚しつつも、それを何とかしようと悩み実践すること。それを行動に移せている人は、周囲からも真摯に映るはず。

 上で引用した、いぬじんid:inujinさんのブログこそ、そうなのではないかと思うのです。周囲に問いかけるような書き口が大好きで、いつも読ませていただいる文章。「わかる」と断定するのではなく、「わからない」まま淡々と記しているように読める文体を、僕は “真摯” だと感じています。

 

 ――とは言っても、とにかく省エネで生きようとするのなら、社会規範も人間関係も「わかっている」ものとして振る舞ったほうが楽なのかもしれない。

 でも、周囲の環境や瞬間瞬間の心情によって常に移ろいゆく「人の心」に関しては、「わからない」を前提に「わかる」努力をしたいな、とも思うのです。

 

「わからない」からこそ世界を広げられる

 また、「わからない」ことは強みになる、という指摘もある。専門知識を持ったプロフェッショナルは重宝されるが、「知りすぎたがゆえに見えなくなった」ものもあるのではないか。そのような光景は、物語作品の中でもたびたび見られるものだ。王は人の心がわからない。

 

コミュニケーションに悩みを抱えずに生きて来られた人は、最初からおしゃべり上等でスタートしているので、誰とも楽しく会話はできるかもしれませんが、コミュ障に共感することは難しい。でもコミュ障を克服した人は、いつまでも共感することができる。最終的により優れたコミュニケーターになれるのは、まず人見知りでうまくしゃべることができない人だとぼくは思っています。コミュ障であることは、むしろ最高のコミュニケーターになれる可能性を持っているんです。

 

 「わからない」「できない」ということは、「まっさらな状態にある」ということだ。ゆえに、「わかる」「できる」ようになるまでの過程を、一から学び可視化することができる。であるならば、同じく「わからない」と悩んでいる人に寄り添うこともできる。

 もちろん、なかには「わからない」当時のことを忘れてしまう人もいるかもしれない。けれど、そうならないためにあれこれと策を講じることはできる。それこそ学校教育のように、学びの過程をノートに記録するといった方法で。

 そういった意味では、「ブログ」もうってつけの存在だ。Twitterなどの短文SNSで何らかの話題にコメントをするときは、流されるままに周囲の意見に追従してしまうこともある。しかし、長文のブログではそうもいかない。そもそも「わからない」ことについては書けないし、雑な部分はいとも容易く見透かされる。

 

 何もブログに限った話ではなく、友人との飲みの場で話し合うような形でもいい。気心の知れた相手ならば自分の知ったかぶりは見抜いてくれるし、「それはこういうことなんじゃないか」とヒントを提示してくれることだってある。友人相手なら、「わからない」を互いに教え合える。

 だからこそ、ネットだろうがリアルだろうが関係なく、自分の「わからない」を躊躇なく示すことのできる人は、好感を集めやすいのではないだろうか。失敗は責め立てられるかもしれないけれど、「わからない」と言うだけなら「は? 常識だろ?」くらいのツッコミで済む。

 

 ――とまあ、なんでもかんでも無遠慮にツッコむ癖が最近また出てきたので、自戒を込めて。「知らんがな」とは距離を置きつつ、「わからない」を探しながら、「わかろう」と努力し考え続けるための旅に出よう。

 

 

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