文章の「推敲」してますか?ブログやレポートの「見直し」は大切!


 学生ならばレポートや小論文。
 会社員ならば報告書や考課票。
 自分のブログを持っている人ならばブログ。

 

 「読む」だけでなく、普段から文章を「書く」活動をしている人は意外と少なくないんじゃないかと思います。「手書き」の機会は減ったかもしれないけれど、キーボードに向かって文章を考える作業は日常的なもの。FacebookやTwitterだってそうだ。

 ただ、そのような文章に日頃から接していて感じるのが、「その文章、ちゃんと『推敲』してますか?」というツッコミ。……いや、気軽に投稿できるSNSならいいんですよ。むしろ誤字が「ボケ」としておいしい状況になるかもしれないし。

 しかし、1,000字以上の文量を伴う文章を読んでいると、意外と見かけるんですよね。ちょっとしたミスを。別に読めなくはないし、「こまけぇこたぁいいんだよ!」もそのとおりだとは思うのですが、なーんかもったいないなー、と思うので。「推敲」まで行かずとも、「見直し」くらいは心掛けてみてもいいんじゃないかしら。

 

他人の文章をきれいに整える作業は楽しい

 急に自分の話になりますが、大学時代の僕は、所属していたサークルで機関誌を作る役職に就いておりました。いわゆる「編集」的な立ち位置でござる。

 機関誌の方向性を考えてテーマを提案、話し合いのうえで決定し、原稿の形式などを細かく指定し、表紙・目次・扉などの体裁を整える。締切ギリギリに上がってくる何十本もの原稿を一字一句たりとも飛ばさずに読み、誤字脱字のチェックと違和感のある表現を執筆者に確認。

 それを一冊の「本」とするべくデータをまとめたら、印刷会社さんへ持って行って入稿作業。部数や用紙の確認をして、お支払い。そこまで終えれば、あとは後日受け取りに来るだけ。よろしくお願いしまーす!

 ――拘束時間は長かったものの、もともとそういった作業が好きなのか、それなりに楽しんで取り組んでおりました。なにより、自分たちの手で作り上げた「」を手にする瞬間は感慨深いものがあるし、それを文学フリマなどの場で手に取ってもらえると超嬉しい。ひゃっほぅ。

 

自分の文章を読み返さないライターの多さ

 それから約4年。ご縁あって、少し前まで数ヶ月ほど似た作業に取り組んでいた時期がありました。それが、オウンドメディアに掲載する原稿の校正作業。なかなか専門的な内容も多く、仕事をしながらも「読者」として文章を読むのを楽しんでいた――のでありますが。

 正直に言って、酷い。いや、酷いってレベルじゃない。内容や構成は悪くないのに、誤字脱字の数がぶっ飛んでるし、文章の支離滅裂っぷりが尋常じゃなかった。例えば、以下のような誤字や、変な表現が当たり前のように大量に見つかるのです(若干の改変を加えております)

 

  • 「圧倒的なシャアを誇り」 ⇒ 三倍の速度を誇るんですね(正:シェア)
  • 「チキン調達」 ⇒ クリスマスパーティかな?(正:資金)
  • 「身落としがち」 ⇒ 早まるな!(正:見落としがち)
  • 「ご説明されていただきます」 ⇒ お、おう……?(正:させて)
  • 「この問題の最も悪い点です。悪い点ではないですが、」 ⇒ どっちやねん!
  • 「のんびりとした環境の中でのんびりと」 ⇒ 驚きののんびり具合
  • 「多い方の多い特徴として多い」 ⇒ まさかの三重表現
  • 「Aとは、Aということです」 ⇒ 俺が俺だ、ってことですねわかります

 

 あえて言わせていだきますが、「なに言ってんだこいつ」状態。そりゃあ人間、ミスはあって然るべきだけど、こんな間違いが同じ原稿中に2つも3つも当たり前にゴロゴロしてるのには流石に驚いた。まだ中学生の作文課題の方が筋が通ってるんじゃ……?

 聞けば、これら原稿の執筆者はクラウドソーシングで募集したそう。でも文章レベルだけを見ると、どっかの高校の門の前で適当に縄を投げて、引っかかった学生さんに任せたほうがしっかりした文章を書いてくれるんじゃないかしら……。そのくらい酷く感じたのです。

 ちなみに、明らかに繰り返し表現が多く、支離滅裂な文章を書いている人に関しては「これ、もしかしてプログラムじゃね?」と疑いをかけ、その点を先方の編集担当者さんに進言したら、それ以降、依頼が来なくなりました。自分が余計なことを言ったのか、プログラムライターを弾いたことで校正の手が不要になったのか……。

 

気にしすぎ?誤字・脱字が目に入ると我に返る

 どうして自分は、こんなにも誤字・脱字を気にするのだろう。――何と言うか、明らかに目立つところにこの手のミスがあると、「冷める」もとい「我に返る」んですよね。

 せっかく魅力的な、読者を引きこむような文章を書く人でも、夢中になって読んでいる途中で誤字が目に入ってしまうと、途端に現実に引き戻されてしまう*1。自分がやたらと集中して読みたがるからなのかもしれないけれど、どうもそれがもったいなく思えてならないのです。

 

 この手の誤字・脱字は新刊書などを読んでいても普通に見つかるし、月100万PV級のブロガーさんの記事でもしばしば目に入ります。単語をひとつ誤変換するくらいならかわいいもんですが、自ら太字大文字の装飾をしている部分にミスがあると、一瞬で説得力がなくなる。

 どんなに魅力的な旅ブログでも「寝台車」が「死んだ医者」になってたらミステリーだかサスペンスだかの幕開けだし、おしゃれカフェでスイーツを食べた感想が「うまかった!」じゃなくて「馬買った!」になってたら馬主になっちゃいますよ。お金の臭いプンプンですよ。

 なかなかそんな “ゆかいな誤変換” *2が起こることはないでしょうが、意図せぬ誤字や脱衣は、文章を読み進めていた読者の目を「止める」ことにつながりかねない。せっかくテンポ良く読んでいた流れを遮らないようにするためにも、誤字・脱字は避けるべきものなのではないでしょうか。

 

「見直し」「読み返し」で得られるもの

 普段からブログなんてものを自ら進んで書きつつ、さらに他の人の運営するブログも読んでいると、たびたび「文章論」の類を目にすることがあります。文量はどのくらいだとか、目次は入れるべきだとか、見出しの付け方やら文体の作り方やら……いろいろ。

 でも僕としては、そんな小手先の方法論に頼る以前に、自分で「読み」「書き」をしていれば自然と「文章力」はついてくるとも思うのですよ。

 もちろん、大勢に読んでもらう、魅力的な文章を書くには別のアプローチが必要でしょう。けれど、 “読んで” 、 “伝える” ための最低限の文章は、ただ愚直に続けていればそれなりに身につくものなんじゃないかと。

 

 言うまでもなく、ただただ「書き」続けているだけでは大きな変化は臨めません。そこで必要になってくるのが――たびたび各所の “文章論” でも指摘されているとおり――とにかく多く「読む」こと。さまざまな人の多彩な文章を読み、インプットを増やすこと。

 そこに重要な要素として加えたいのが、冒頭にも述べた「見直し」の視点。要するに、自分で、自分が書いた文章を繰り返し「読み返す」作業ですね。

 徹底的に練り直す「推敲」レベルまではしなくてもいいと思います。まとまった文章を書き終えたら、もう一度最初から読み返すこと。翌日とか、時間を置いてから読み返せるのならなお良い。書き終えたばかりだと内容を覚えているため、すんなり読めてしまうものですが、時間が経てば少しは記憶が飛んで、第三者視点で読み直すことができるので。

 

 自分がブログで文章を書くときには、ひとかたまりの文章*3を書いたら、その分を読み返してから次に向かうようにしています。執筆中に意識的に「読み返し」を行うことで、文章全体の流れや構成がぶっ飛び過ぎないように気をつけている感じ。それでも割とぶっ飛びますが。

 ライティングのお仕事に関しては、さらに慎重に何回も読み返すことになります。1日で「書けたー!」と原稿が完成してもすぐには入稿せず、翌日まで寝かせて読み返し、細部を修正・調整する格好。少しでも質を高めることにつながりますし、先方の校正・編集さんの作業量も削減できますしね。

 

 ――そんな感じで自分としては、まとまった文章に関しては「推敲」もとい「読み返す」ことをおすすめしたく思います。ぶっちゃけ、文章力向上の第一歩って、この作業を継続することなんじゃないかと思ってる。たかがブログ、されどブログ、でござんす。

 今回、意図的にこの記事に「誤字・脱字」を最低5箇所仕込んでおいたので、暇な人は探してみてください*4。既に気づいていた人は、さすがでございます。

 

 

関連記事

*1:そういう文章を書く人は、しっかりと推敲しているイメージもありますが。

*2:ゆかいな誤変換。---僕の見た秩序。

*3:小見出しひとつ分など。

*4:「意図的じゃない誤字・脱字があるかも!」という予防線としての“最低”。