お金は何に使うべき?そもそも僕らは「お金」で何を買っているの?


こちらの記事を読みました。

まさしくお金も人脈もない僕自身に関して言えば、だからと言って、ブログで良いコンテンツを提供できているのかどうかと考えれば怪しいところではございますが……それでも、「ない」ことによって発揮される力というのはたしかにあると思う。

記事の本筋とは異なるけれど、そうやって何かが「ない」ことによって別の視点を持てるようになったのは事実だと思っています。言ってしまえば言葉遊びだけど、「お金がない」ということは、そこでお金を使わないことで得られた別の「経験がある」ということでもあるんじゃないかと。

 僕らが「お金」で買っているものは、主に2つあるんじゃないかと思います。

ひとつは「時間」。
もうひとつは「選択肢」。

 

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「時は金なり」というけれど

たとえば、こんなケース。

 

とある週末。花の金曜日。会社の飲み会を終えた、帰宅の途中。

自宅の最寄り駅まで行ける終電には間に合わないかもしれないけれど、とりあえず乗れるところまで乗ってくべ〜と、電車を乗り継いだ。しかし案の定、最寄り駅までたどり着くことができず、途中の駅で降りる形になってしまった。

──さて、どうしようか。明日は休みだし、無理に帰らずビジネスホテルに泊まってしまうのもありだけど、やっぱり心の安らぐ自宅のオフトゥンで眠りたい。もしくは、タクシーを使うか。あるいは、朝まで一人で飲む──。

 

この場面でこの人が選んでいるのは、諸々をひっくるめると「時間の使い方」なのではないかと思う。

どのようにお金を使うかによって、その夜の睡眠時間と週末の過ごし方が変わってくる。支払う金額と、それによって得られる対価、そしてその後の影響。それらいろいろを考慮したうえで、「こうしよう!」と決断を下すことになる。

自分の場合を考えれば、僕は昔からずっと「タクシーは使わない主義」を通してきた人間なので、まずそれは除外。ホテルに泊まるには値が張るし、良いお店を見つけて朝まで飲むのも楽しそうだけれど、貴重な週末を消費してしまうことを考えると、それもちょっと……。

結果、この人は「家まで歩く」という選択をするんじゃないかと思う。距離にもよるけれど。「いやいや、それなら朝まで飲むのと変わらないんじゃ?」とか、「運賃を払ってショートカットした方が効率的でしょうに……」というツッコミもわかるけど、僕は頑として歩くでしょう。

 

理由は単純。それが一番「楽しそう」だし、「普段はできないこと」だから。

 

だって、夜の街とか超わくわくしません?

歩きまわるのは酔っぱらいと猫などの獣だけ、静まり返った住宅街は異世界感が尋常じゃなく、もしかしたら道中で変わったお店と出会えるかもしれない。閉まってるけど。

深夜に限らず、時間に余裕があるのであれば、基本的に自分は「歩く」人間です。交通費は最優先の節約対象。池袋〜新宿くらいなら1時間かからないし、1、2駅くらいならば、ちょちょいと歩いちゃう。

そうして得られるものと言えば、少しの「節約した感」と「運動した感」、場合によっては「道中での出会い」など。代わりに失うのは「時間」ですね。これを、大きいと感じるか否か、そのバランスが人によって違うのだと思います。

先日も友人に誘われて、目的もなく池袋〜上野までとっとこ歩いてきましたが──そこで何を得られたかと言えば、ちょっと考える必要が出てくるかも。

これまでよく知らなかった「山手線の内側の地理」に「友人との交流」、それと途中で立ち寄った「東京大学のハンバーグ丼」かしら。あれはおいしかった。ってか、自分の通ってた大学の学食と比べるとメニューも豊富かつ安くて泣いた。

閑話休題。

要するに「移動」という面で「お金の使い方」を考えた場合、そこで買っているのは移動によって短縮される「時間」であり、見方によっては代わりに「機会」を失っているようにも見える。

もちろん、電車や車といった乗り物に乗らなければ見ることのできない「景色」や「経験」もあるので、その点は一長一短ですが。

 

お金があれば、「選択肢」が増える!

もうひとつ「お金」で買うことができるものとしては、「選択肢」の存在が大きいんじゃないかと思います。当たり前っちゃ当たり前だけど、広い意味での「消費」の話。

たとえば──また自分の話で恐縮ですが、1年ちょっと前に無職になってからの1年間は、明らかに自分の消費活動に変化がありました。先ほど書いたように、やたらと「歩く」ようになったのも無職になってからだし、街中で利用する店舗もガラッと変わった。

 

一方で、お金の使い方は明らかに変化した、というか学生時代に戻りました。外食は定食屋からファーストフードになり、喫茶店もなるべく安いチェーン店を選択。徒歩1時間圏内なら電車を使わずに歩きますし、映画は行ってもファーストデーのみ。働いていた頃は2ヶ月に1回くらいは行っていた美術館にも、全く行かなくなりました。

『レールの外ってこんな景色: 若手ブロガーから見える新しい生き方』より

 

日常的に利用できる金銭が減る分、消費活動における「選択肢」は非常に狭まる。

気になる喫茶店があっても、 「コーヒー1杯500円」に絶望してマクドナルドへ。グルメ系ブロガーさんが紹介していた定食屋へ行こうとしても、1,000円オーバーに尻込みして松屋へ。……安定のファーストフードでござる。いつもお世話になってます。

メシだけでなく、他の娯楽や趣味に関しても同様。映画館よりはレンタルビデオ。美術館よりは公園。書店で本を1冊買うにしても慎重になり、図書館に顔を出す機会が増えた。

でも一方では、「図書館に顔を出す機会が増えた」というケースもあるように、逆に選択肢が限定されることで、見えてくる世界もあるんですよね。そういった意味では、「無理にお金を使うこともないんじゃないか」という視点を持つきっかけにはなりました。

それまで読んでいた新品のビジネス書よりも、図書館で古典を読むようになったことで世界が広がっただとか、旅先ではビジネスホテルを避けて、初めて利用したゲストハウスで友達ができただとか。何もお金がなくたって、得られるものはあるんだなー、と。

 

「お金がある」から「◯◯がある」んじゃなくて、お金がなくても、◯◯以外の別の「 “何か” がある」のだと思います。

その意味では、冒頭の記事で鳥井@hirofumi21さんが書いている「予算がないからこそ、アイディア一本勝負になれる」という指摘も何ら間違いには思えず、共感することができたのです。

「人生は選択の連続だ」なんてばっちゃが言ってたけど、その点では「お金」も選択のひとつでしかないんですよね。それがなくとも「選ぶ」ことはできるし、自らのアイデアや技能をもって、選択肢を増やすことだってできる。

もちろん、そこで「課金」することによって時間を短縮し、選択肢をも増やすことができる「お金」の存在は大きい。実際、その「課金率」によって格差ができつつあるのが、社会の現状なのかもしれないけれど……それはまた別の話っすね。

 

 

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