「自己肯定」と「自己正当化」の違いとは?


 「自己肯定」と「自己正当化」。

 なんとなく似た言葉だけれど、厳密には何が違うのだろう。「」と「」、いずれもポジティブな印象を持つ字が使われており、パッと見では意味合いが大きく違うようには思えない。

 でも改めて考えてみると、それぞれ別の場面で使っていることは否めない。「自己肯定感を持て」なんて言われるように、どちらかと言えばプラスの考え方として使われる印象の強い前者に対して、後者は「自己正当化するな」と否定的なイメージ。

 自身に向けられた、「肯定」と「正当化」。
 これらの言葉について考えてみました。

プラスの「肯定」とマイナスの「正当化」

 「自己肯定」と「自己正当化」。2つの単語をGoogleで検索してみると、その違いは一目瞭然だった。前者がポジティブに語られているのに対して、後者はネガティブなものとして避けられている。

 以下、それぞれの単語の検索結果から、タイトルと本文を一部抜粋してみた。

自己肯定 - Google検索

  • “自分を肯定するというのは実はとても大切”
  • 自己肯定感を高める方法! | 幸せの種『気づき』
  • 自己肯定感が低い人の6つの対処方法
  • 大人になってから自己肯定感を高めるには

自己正当化 - Google検索

  • 自己正当化型モラハラADHDについて
  • 自己正当化がいかに人間関係を滅茶苦茶にしてきたか
  • 自己正当化型ADHD(ジャイアン型ADHD)かもしれない
  • “自己正当化が著しい人には、自己欺瞞がある”

 こうして並べてみると、次のような印象を受ける。

  • 自己肯定感:「『自己肯定感』は大切だから、なんとかして高めよう!幸せになろう!」という、前向きスーパーポジティブ。
  • 自己正当化:「『自己正当化』には並々ならぬ問題あり!どうやって対処すればいいのか。治さなあかん!」という、後ろ向き残念ネガティブ。

 「自己正当化」からは、「正」というプラス思考の字が含まれているにも関わらず、どこかネガティブでどんよりとした印象を受ける。個人的なイメージを言えば、「正当化」という言葉からは、やたらと「正義」を語る人から滲み出る押し付けがましさを感じられるような気もする。

字義から見える、「肯」と「正」の明確な差異

 では、「肯」と「正」という2つの漢字には、どのような字義があるのだろう。

「肯」

- ウィクショナリー日本語版

字源

会意。もとは、肎(上部「骨」+下部「肉」)、原義は骨に入り込んだ肉。それを、分け取ることから「あえて」の意を生じ、「承知して~する」「同意して~する」の意を生じたものか。

意義

あえて
承知する。同意する。

 まずは「」。意義には「承知する」「同意する」という説明があり、「肯」の字だけでも「肯定する」という意味をはらんでいるように受け取れる。ただ、この説明を読んで気になったのが、元来の字源から派生した「あえて」という意味も持っていること。

 言い換えれば、「肯」という字には「複数ある要素のうちの、ひとつを認める(=肯定する)」という意味がある、とも捉えられる。つまりそこには、肯定されたかもしれない「他の選択肢」が暗黙に示されている。そう考えることもできるのではないだろうか。

「正」

- ウィクショナリー日本語版

字源

会意。「-」(目標となる線)+「止」(足)。目標に向けてまっすぐ進むこと。「征」の原字。

意義

まっすぐ。
ただしい。
ちょうど、まさに。

 続いて「」。こちらは特に変化球もなく、普段から使っている漢字そのままの意義だと受け取れる。「まっすぐ」であること。「ただしい」こと。「まさに」その通りであること。

 本筋とは関係ないけれど、原字が「」であるというのは、どことなく示唆的でおもしろい。征服。征圧。征討。征伐。征夷。遠征――。「征(正)」という字からは、何が何でも我が道を行こうとする強い信念を感じる。

「それだけ」か、「それだけではない」か

 うまい表現がちょっと思い浮かばなかったのだけれど、

  • 「正」は「それだけ」
  • 「肯」は「それだけではない」

 と、それぞれ言い換えられるんじゃないかと思う。

 何が違うのかといえば、「他の要素が併存しているかどうか」という部分。「肯」は「あえて」という意義から、他の選択肢の存在も(暗黙的にではあれど)示されているのに対して、「正」は「まっすぐ」でそれ一本だけであり、他の要素が見て取れない。そんな違いがあるのではないだろうか。

 複数から選び取った「肯」と、決めた一本の道を突き進む「正」。

 どちらが良いか悪いかという話ではないけれど、少なくとも字義からは、そんな違いを受け取れるように思う。

良くも悪くも諦めた「自己肯定」と、諦めきれない「自己正当化」

 前置きが長くなったけれど、「じゃあ『自己肯定』と『自己正当化』の違いはどこにあるの?」という話に戻ってみよう。僕個人としては、「諦めているか、諦めていないか」の違いだと考えています。

前向きな“諦め”を感じられる「自己肯定」

 「自己肯定」という言葉には、良くも悪くも諦めた、諦観的な印象を受ける。いや、もちろん「前向きスーパーポジティブひゃっはー!」なイメージもあるのだけれど。

 でもその “前向き” さには、どこか善悪も是非も清濁も併せ呑んで、「そういう自分がいるんだから仕方ないよね」と認め、諦めて受け入れているような雰囲気も感じられる。いろいろ切り分けできるけれど、まあそういうもんだよね、と。

完全には“諦めきれない”「自己正当化」

 他方で「自己正当化」には、完全には納得できないような疑念、抗っているような様子が見える。自分ではそれが「正しい」ことだと考えているのだけれど、どこか煮え切らない。裏側に「否」があることを知っていても認められず、盲目的に振る舞っているような印象を受ける。

 完全に認められないまではいかずとも、「どれが正しいんだろう?」と考え続けているのなら、まだ前に進んでいるようにも見える。しかし「自己正当化」という言葉を向けられる人の多くは、ひとつの道に決め付けて、視野狭窄に陥っていると言えるのではないだろうか。

「周りの目」 によって変化する、「自己」の認識

 しかし一方で、そこに「周囲の視点」を持ってくると、また少し印象が変わる。

 その人自身が “諦め” ているかどうかはスルーして、

  • 自己肯定:「自分が受け入れていればそれでいい」
  • 自己正当化:「他者の評価を気にしながら自らを定義する」

 ものだと、それぞれ言い換えてみる。すると、先ほどの「肯」と「正」、それぞれの字義とは逆転しているようにも見えるのだ。ふしぎ!

 そもそも、頭に “自己” という表現がくっついている以上、「自分」から見た肯定・正当化の反対側には、「他者」から見た肯定・正当化がついてくる、というのは自然な話なのだろうけれど。

自分に自信を持ち、自分の頭で考え、自分の判断にもとづいて行動する──そうしたことができる人になるには、やはり他者から認められ、受けとめられることが必要なのだ。もちろん、それが親であるに越したことはない。だが、教師という立場からも、子どもたちに自己肯定感を育んでいくことはできるはずだ。

乙武洋匡『自分を愛する力』より)

 今の自分が間違っていると、どうしてそんなにも簡単に受け入れられるんだ。なんで過去の自分を否定するんだ。どうして今の自分を認めてやれないんだ。なんで未来の自分なら信じることができるんだ。

 昔、最低だった自分を、今どん底の自分を認められないで、いったいいつ誰を認めることができるんだ。今の自分を、今までの自分を否定してきて、これからの自分を肯定することなんてできるのか。

渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。6』より)

 「今が正しい」と信じるのにいっぱいいっぱいな「自己正当化」に対して、「自己肯定」にはいくつもの前提が必要となる。周囲から認められていること。過去の自分を認めること。

 「自己完結」とは自分ひとりがいれば事足りるものであり、つまるところは心の持ちよう次第なのだから、簡単だと考える人もいるかもしれない。しかし、社会に生きている以上は他者との関わりや影響を考えざるを得ないし、そもそも「他者」がいなければ、「自己」の存在も曖昧なものになってしまう。

 そんななかで、その場凌ぎの「自己正当化」を避けつつ「自己肯定感」を養うには、どうすればいいのか。そのひとつの答えとして、日々の変化とありのままの自分を受容し、自然なものとして「諦める」姿勢が挙げられると、個人的には思う。

圧倒的な客観(ありのまま)に、目を見開いていくという方向性。良い意味で諦めてゆくことにより、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」という無益な思考から、自由になる。

感情とは、すこぶる無常なものであり、どのみち変化してゆくもの。「この感情も、やがては変化する。一時的なもの、無常なもの」という思いで、執着せず、ただ変化を眺めてみる。

小池龍之介著『“ありのまま”の自分に気づく』より)

 

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