究極の自己肯定は肯定も否定もせず『“ありのまま”の自分に気づく』こと


 

 小池龍之介さんの著書『“ありのまま"の自分に気づく』を読みました。

 一口に言えば、他者からの「承認」 に一喜一憂せず、善でも悪でもなければ何者でもない、ただの自分、“ありのまま”の自分を受容しようという内容。たびたび話題にも挙がる「自己肯定感」という言葉とも関連の強い、興味深い一冊となっています。

 

自己承認は成り立たない

 本書は全4章構成。その第1章「承認について」の序盤で、住職である著者は、「自己承認は成り立たない」と断言しています。それはなぜか。

 

 老子や荘子の老荘思想の中には、自分が立派になったことを口で言うとか、自分がエコな生活をしていて自然な生活をしているということを口に出して言いたがる時点で、それはもう自然ではないという思想があります。

  自分で自分について、「自分はこれだけいいことをしている」とか、「これだけ優れている」などと口にしたところで、それには信憑性があるのだろうかということです。借金をする際、自分が自分の保証人になることができるのだろうか、それは明らかにできないですよね。

  「自分が自分を承認する」ということは説得力を持たず、それは成り立たず、自分が自分を支えることはできない。まさにそれゆえに、他者の支えが必要になってしまう、ということが言えるのだと思います。

 

 いくら自分を承認しようとしても、「それは自分でそう思い込んでいるだけじゃないの?」と言われてしまえば、説得力を持たなくなってしまう。それが自然だ、本来の自分だ、と言っても、言い聞かせているようで、逆に不自然に映ってしまう。

 自らを承認することは難しく、ゆえに他者からの承認を必要とするが、それでも絶対的な承認をもたらすことはできないと、著者は書いています。

 

 人が誰かを褒めるときや、好意を持つとき、その対象となるのは、その人の一部分でしかない。イケメンだとか、髪がきれいだとかいった外的要因はもちろん、気立てがいい、一緒にいると楽しい、といった、性格的な面もそうだ。

 しかし、それらは不変のものではない。この世は無常であり、容姿は年を経て変化するし、いついかなるときも「良い人」なんてのは存在しない。場面場面で見れば、良いこともするし、悪いこともする。無条件の愛などなく、何らかの条件なしには、人は人を承認できない。

 そのため、ある人のある要素、パーツを好きになったとしても、それはその人そのものを承認することとイコールではない。「承認」は不確かなものであり、それに依拠しすぎることによって、孤独感や渇愛が増していくこととなる。……なんだか、夢も希望もないように感じますね。

 

孤独と渇愛

 「じゃあどうすりゃいいんじゃい!」という疑問に対して、「ただ無条件に受け止めなさい」と回答・説明しているのが、次の章です。何々を満たしたから受け止めるのではなく、ただ、受け止めるだけ。

 イライラしているときは、「そっかー、イライラしてるんだねー」と気づいてあげる。やる気がでないときは、カラ元気を出さずに、「やる気が出ないんだー、ふーん」と認めてあげる。

 

 そのような無条件の承認は、自分にしかできないものだ。他者からの承認を得ようとすれば、「◯◯だから」という条件が必要になってくるし、その条件も移ろいやすい。自分で自分を、「うん、そうだね!」とだけ承認してあげることで、「精神的自給率」を上げることを、著者は薦めています。

 また、「渇愛について」の章では、人は自分という色メガネを通してしか世界を見ることができず、ゆえに人間はみんな自己中だ!と説明しています。自分を褒めてくれる人は好き、批判してくる人は嫌い、それ以外の関わりのない何十億の人間はどうでもいい。

 

 対象をありのままに受けとらずに、「良い」「悪い」「どうでもいい」という主観的な歪みを加えるので、世界があるがままには見えない。

 「私にとって」というメガネを取ってしまうと、好ましい存在だけでなく、嫌な存在も実在しない。「好ましい」とか「嫌」というのは、ありのままの世界には存在しない、脳内でつくられる妄想なのです。

 

 そんな「私にとって」しか見えない感情で生きている僕らは、日頃、「良い」や「悪い」の感情と同居しながら生活しているが、たとえ良いことがあって満足したとしても、すぐにまた「不満足」の状態に戻ってしまう、だから苦しい、と書いています。

 「私には理想のパートナーが欠けている」と考え、それを見つけたとしても、いつの間にかそれが当たり前になり、他の人を求めてしまう。「仕事で成功したい」と考え、一生懸命働き、周囲から賞賛されたとしても、その刺激に慣れてしまい、他の刺激を求めるようになってしまう。

 

 釈迦(ブッダ)が「一切皆苦」と宣言するとき、それは言わば「この人生は、仏道によって脱出しない限り、一生不満足なまま死んでゆくクソゲーだ」と言い放っているようなものです。

 

 いやー、人生はクソゲーであり、神ゲーでもあるとは、全くその通りですわー。

 

ありのままを受容し、諦める

 いやいやいや、そんなこと言われたら、もうどうしようもないじゃないっすか!と叫びたくなりますが、本当にどうしようもないらしいです。

 

 圧倒的な客観(ありのまま)に、目を見開いていくという方向性。良い意味で諦めてゆくことにより、「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」という無益な思考から、自由になる。

 

 常に中立的な立ち位置に自分を据えて、「良い」も「悪い」も、「こうなりたい」も「ああするべき」も、ぜーんぶ、その感情があることに気づき、受け止め、見届けるだけ。

 

 感情とは、すこぶる無常なものであり、どのみち変化してゆくもの。「この感情も、やがては変化する。一時的なもの、無常なもの」という思いで、執着せず、ただ変化を眺めてみる。

 

 つまり、究極の自己肯定とは、今、そこにある自分を肯定も否定もせず、ただ“ありのまま”に受け入れること

 「自己『肯定』を『肯定』しない」と言うと、矛盾しているようにも見えます。けれど、「肯定」の裏には「否定」があると考えれば、それらの判断基準から解き放たれ、単に「そこに在るもの」としてだけ自分を認めることは、「肯定」と言えるものだと思う。

 

 ただ、この“ありのまま”という視点も含めた本書の内容について、辛い時、苦しい時の「考え方」の処方箋としては賛成できるけれど、それを常に実践しようという気にはなれませんでした。

 何に対しても中立的。好きも嫌いも、ただ「そういうもの」として受け止めるだけ。周囲にも自分にも期待せず、ただただ、自然の一部として生きていくのみ。

 それは、仏道に入り、苦楽から解き放たれて悟りを得ることを前提とすれば、正しい道なんでしょう。けれど、俗世の社会で生きる僕らにとっては、そんな生活に「生」を感じるようには思えない。……俗に染まりきった僕だから、こう考えてしまうのかな?

 

 ひとつの視点として、方法論としてならば、非常に為になるものだとは感じました。結局のところ、自分は自分の視点でしか物事を見ることはできず、「客観的に見ると」なんて言葉は本来、使えないもの。

 けれど、そこで「自分」を遠くへぶっ飛ばすことを試み、できるだけ「中立」的な視点を考えようとするモノの見方、他者とのコミュニケーションに疲れた時の受け流し方、諦め方としては、多くの人にとって有意義な思考法だと思います。このように考えられる人が、いったいどれだけいるんだろうと考えて、軽く絶望した。無理だべ。

 

 そんな僕らが「自己肯定感」を得ようとするのなら、本書はひとつの視点をもたらす手助けとなるはずです。自分を知り、認め、肯定するには、「念(きづき)」を得る必要がある。そのための方法論も、軽妙ながら優しい語り口で論じられております。

 新書としては結構なボリュームのある作品(303ページ)ですが、仏教の経典や哲学書からの引用も多く、良いテンポで読むことができ、気づきの多い内容でした。よかったらどうぞ。

 

 

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