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すべての文章は自然と「嘘」になってしまう?文章の《物語化》問題について

 「文章力」という言葉がある。なんとなく当たり前に使っている言葉ではあるけれど、一口に「文章力」と言っても、実は複数の要素に分けられるんじゃないかしら。

 自分の考えを言語化する「作文力」。それをわかりやすい言葉・伝わりやすい表現に差し替える「語彙力」や「表現力」。論理の展開、文脈などを整理し、読みやすいよう再構成する「編集力」。

 そのような「文章力」を磨き、より魅力的な文章を書きたい! と思う人は、少なくないんじゃないかと思う。実際、書店に行けば、その手のハウツー本はたくさん見つかりますしね。

 ところがどっこい。言葉を操り、文章を時におもしろく、時に伝わりやすく編集することによって、ひとつの問題が現れてくる。それが、過剰な表現による事実との解離──文章の《物語化》と呼ばれるものです。

 これは、先日読んだ『危険な文章講座』の文中で触れられていたもの。なかなかに興味深い内容だったので、今回は文章表現が引き起こす《物語化》について考えてみます。

 

 

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無意識にわき上がる《物語化欲》と、文章の「嘘」

 まず、文章の《物語化》とはどのようなものなのか。『危険な文章講座』では、筆者が幼いころの記憶をもとに当時のことを文章化しようと試みたところ、「あれ? これ、ほとんど嘘っぱちじゃね?」と思い至った経験から語られています。

 具体的には、「子供の頃に見たドラマのワンシーンが印象的に残っているのだけれど、その先の話が全く思い出せない! どうしてあのシーンで途切れているのだろう?」という疑問から始まっている。それを解明するべく、記憶を掘り返していくという流れです。

 

 筆者の自己分析によれば、 “「テレビは1日2時間以内」「夜10時以降は視聴禁止」という家庭の規則を破り、そのシーンを見ていたところ、父親の怒声が浴びせかけられた” ために、そのワンシーンだけが鮮烈に記憶に残っているのではないか──との話。

 しかし実際に文章としてまとめてみると……どうにも怪しい。 “この記憶が本当に正しいのか否かの自信が、せいぜい60%程度しかない” とも感じられたのだそう。

 ドラマの内容は間違っていないはず。けれど、それに付随する当時の自分の環境や家族の記憶といったものが、「本当にそのとおりの出来事なのか」という自信がない。記憶に蘇る数々のエピソードから、無意識に「おもしろい」ものを抽出してしまっているのではないだろうか。

 つまり、これは「嘘」の記憶なのでは……?

 

ぼくたちの記憶というものは、常にわかりやすく、美しく、所有者に都合よく《物語化》されたくてウズウズしているものだ。人間の記憶というのは、ほうっておけば、自らの世界を自らに都合のいい定型の《物語》に押し込もうとする運動を起こす。どうやらそのようにできている。そして厄介なことに、ぼくたちの思考や感情も、実は記憶という嘘つき大家さんの店子なのだ。

 

全ての文章は「創作」である?

 僕自身、この話にはものすっごーく覚えがあります。──というか、自分の経験やエピソードをブログで書いたことがある人のなかには、心当たりがある方もいるのでは?

 弊ブログからわかりやすい例を出すとすれば、この記事が特にそれっぽい。

 

 

 営業職として働いていた頃の「一般的な1日」を、日記のような体裁でまとめた内容。事実に則して書いてはいるけれど、これは紛れもない「創作」です。

 全体としては当時の平均的なスケジュールに沿いつつも、仕事中に発生する出来事を違和感のないように混ぜこぜにした感じ。こんなスムーズに進むことは稀ですしね。

 実際、ブックマークコメントでも「ごめんなさい、それキツい仕事じゃないです」と突っ込まれていますが……そりゃあ、ごもっともな感想だと思います。だって、一番キツい部分をあえて記述していないのだから。

 さらにエピソードを付け加えようとすれば、クレームはもっと山ほどあるし、朝晩の所内はもっと殺伐としているし、強制参加の勉強会やイベントはあるし、休日を返上して対処に当たらされることだって当たり前。

 そもそも、この記事は「創作」を前提として書いたものです。でも同時に、「過去の出来事を最適化し、文章に落としこんでいる」という意味では、まさしく先ほどの《物語化》された文章の一例であると言えると思う。

 

「書く」ことによって記憶や思考が整合化されるプロセスは、記憶が無意識に《物語化》を求めるプロセスによく似ている。

 

 「文章」の話ではありませんが、就職活動で耳にする「先輩社員の経験談」や「1日のスケジュール」が当てにならないのも、この《物語化》によるものなのではないかしら。

 人事担当も先輩社員も、決して「嘘」をついているつもりはない。自社の話をわかりやすく、より魅力的に伝えようとした結果、「事実ではあるけれど、余計な部分を削ぎ落とした」説明になっているんじゃないかと思う。でも、その “余計な部分” が問題だったりするのよね……。

 

《物語化》を指摘する外部の存在と、《表現》のウソホント

 このように、文章や言葉を用いるときに「ご都合主義」とも呼べる「嘘」をつきたくなってしまう、無意識についてしまうのはなぜなのか。その理由として、『危険な文章講座』では、次のような欲求の存在を挙げています。

 

  • より整合性や完成度を高めたいという欲求
  • より面白くしたいという欲求
  • よりわかりやすくしたいという欲求
  • そして、それらの背後に潜在する自己承認の欲求
 これらをひっくるめて《物語化欲》と呼んでもいいかもしれない。

 

 問題は、最後の「自己承認の欲求」

 僕自身、必要以上に自分を正当化するような物言いや文章表現をしてしまいがちなので、ブックマークコメントなどで突っ込まれて反省することもあります*1

 そう考えると、外部から《物語化》を指摘してくれる人の存在はありがたい。自分で自分の「嘘っぽさ」を客観視するのは難しいので、無思考で無責任だと批判されがちなウェブ上の安易な “ツッコミ” だって有用だ。無関心な《物語》にまでツッコむのはともかく。

 そして、この『危険な文章講座』において《物語化》を指摘している章は、以下のような文でまとめられていました。

 

「個性とは不完全な現実認識能力から生じている」 という意味の文章(神林長平『我語りて世界あり』)を前に引用したけれど、個人の認識能力が不完全だからこそ、そこから多様な「噓」と「本当」が生まれてくる。そして、だからこそ《表現》を一握りのエリートやプロフェッショナルに任せてしまうのではなく、より多くの人たちがそれぞれの不完全な現実を表現し、それらを交換しあい、「より豊かなリアリティを持つ噓=文化」に育てあげていく必要がある。本当の「本当」も、そんな地平に初めて発見できるのだと思う。

 

 この本が書かれた90年代後半は、まだ今ほどはインターネットが普及していなかった時代。

 ネットが当たり前になり、誰もがソーシャルメディアを介して気軽にやり取りができるようになった現代においては、 “より多くの人たちがそれぞれの不完全な現実を表現し、それらを交換し” あうことも容易になったのではないでしょうか。事実、こうしてブログを書いているわけだし。

 それによって、「ネタとしての嘘はどこまで許されるか」という問題も持ち上がってはいるけれど。面白ければそれでいいのか。どのラインまではネタとして認められるのか。フィクションとノンフィクションの境界──などなど。

 さらに《物語化》があまりに重視された結果、そこに「嘘」が見出された瞬間、手のひらを返すように批判が集中するようなケースも今年に入って散見されています。ゴーストライター騒動、STAP細胞問題など。これらは「文章」と言うよりは、どちらかと言えば報道・メディア寄りの話題ではありますが。

 

 《物語化》してしまうことは避けられない。だからこそ文章に限らず、広い意味で日頃から自分を《表現》しているような人は、その内容を自分なりに顧みる必要があると思う。

 ブログなどの長文だけでなく、Twitterでの発言も同様。自分自身を気軽に、端的に表現できるツールであればあるほど、無意識の《物語化欲》が介在しやすいはず。それを意識することは、炎上を避けることにもつながるんじゃないかな。

 

「書く」という行為を、あまり信じすぎちゃいけない。それは裏を返せば、「書く」という行為、ひいては「言葉」というものが持つ力とその怖さを、より正しく理解することでもあるかもしれない。

 

 

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*1:そもそもブログはそういう場所だとか、究極的には自分以外の誰も認めてくれないのだから、自分を正当化したっていいじゃん! とか、思わなくはないけれど。