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「個性的な文章」ってなんだろう?作文は「通念化」との戦いだ

 「個性的な文章」ってなんだろう?

 

 周囲の人とは違う「自分ならではの表現」への憧れ。それは、創作に携わる多くの人が抱いたことのある感情なんじゃないかと思う。特に「文章」に限って見れば、誰も彼もがTwitterやブログで文章を書いている昨今、「個性的な文体」への渇望は高まりつつある……のかもしれない。

 しかし一方で、話題になった個々のツイートが「個性的」かどうかを考えてみると、必ずしもそうではないようにも見える。それどころか、むしろテンプレート的な表現のほうが拡散されやすい傾向にあるのではないだろうか。実際、日頃からタイムラインに流れてくるツイートを見ると、流行りのネットスラングや構文など、広く知られた「型」をアレンジした呟きが少なくない*1。140字という文字数制限のあるTwitterでは、そういった「型」ありきの投稿のほうが共感を集めやすいのかもしれない。

 

 では、「短文」に対して「長文」の場合はどうだろう。

 

 ネット上における長文コンテンツといえば、まず「ブログ」が思い浮かぶ。近頃は副業を目的とした個人ブログが増えつつあり、他方では企業が運営するオウンドメディアも話題になっている。いずれにせよ「大勢に読まれること」を前提としており、デザイン面でもコンテンツ力でも優れたサイトは数多い。

 とは言っても、今もなおブログの大多数は「個人の日記」である……とも思う。

 日々の出来事や考えたこと、本や映画の感想を自由気ままに書き連ねた、文字どおりの「日記」。書かれているのは本当に個人的なことばかりであり、ゆえにほかの人には書けない内容である──と考えれば、そこには「個性」が宿っていると言えるのではないだろうか。文体が「個性的」であるかどうかはともかく。

 ただし副業目的で運営しているブログに関しては、この枠には当てはまらないようにも見える。アフィリエイトを主軸としているサイトの場合、検索流入を増やし、クリック率・成約率を上げるには「個性」が邪魔になるという考えがあるのか、テンプレートをなぞった構成になっている記事が多い。結果、表面的な情報に触れるばかりで毒にも薬にもならない、似たり寄ったりの記事が量産されている気もする……けれど、それは置いといて。

 ともかく、文章における「個性」は長文に見られやすいと言えそうだ。もちろん個性的な短文もなくはないけれど、その場合の方向性としては「詩歌」のジャンルに属するものになってくるはず。より専門的な知識・技術が必要とされるため、ここでは触れません。

 

 では、個人の日記ブログがそうしているように、「個人的な体験を自由に書く」ことによって、「個性的な文章」は書けるようになるのだろうか。

 

 もともと言語感覚に秀でた人、習慣として執筆活動を続けている人などは、書くことで自然とその人固有の「文体」が形づくられていくこともあるかもしれない。ただ、それも意識的な試行錯誤なくしては難しいように感じる。他者を真似し漫然と書き続けるだけでは、「個性」は生まれない。

 たとえば、以下のような文章があるとする。これを読んで、はたして「個性的」と感じるだろうか。

 

【①】今日訪れたのは新宿のラーメン店○○。定番メニューだという醤油ラーメンはまさに「王道」と言える味わいで、安心して食べることができた。濃厚な醤油ダレのスープはコクがあり、同時に独特な風味も感じられてとてもおいしい。

 

 しばしばネット上で散見される、食レポっぽく書いてみた。「個性」と呼べるようなものは、おそらくほとんど感じられないのではないかと思う。一個人のシンプルな感想であり、食べログの膨大な口コミのなかに埋もれていそうなイメージ。

 では、細部を調整しつつ、文末表現を変えてみたらどうだろう。

 

【②】今日は新宿のラーメン店○○に行ってきたぜ! 定番メニューの醤油ラーメンはこれぞ王道! 変な味を感じることもなく、安心して食べられた。濃厚な醤油ダレのスープにはコクがあって、風味も独特でおいしかったよー!

 

 なんとなくAmebaブログあたりで見かけそうな、「日記」的な雰囲気を感じる。身近な友人に話しかけるような文体になっており、それを指して「個性」と呼ぶこともできそうだ。

 しかしそれ以前に、上の2つの文章には問題がある。①の文章を読んでいて、引っかかる部分はなかっただろうか。──そもそも「王道」とは何か。具体的にどのような味を指して「コクがある」と称しているのか。「独特な風味」とは、どういった素材の何を表しているのか──などなど。

 これは「個性」というより、「表現」の問題ではある。けれど、このような言いまわしを無思考に使い続けていては、文章に「個性」など生まれるはずもない。たしかに「コク」や「風味」や「喉越し」といったそれっぽい単語を並べれば「食レポ」っぽくはなるが、そこには何も具体的な情報がない。「おいしい」と感じたのなら、その「おいしさ」を自分なりに言語化する必要がある。

 

 菫の花を見ると、「可憐だ」と私たちは感ずる。それはそういう感じ方の通念があるからである。しかしほんとうは私は、菫の黒ずんだような紫色の花を見たとき、何か不吉な不安な気持ちをいだくのである。しかし、その一瞬後には、私は常識に負けて、その花を可憐なのだ、と思い込んでしまう。文章に書くときに、可憐だと書きたい衝動を感ずる。たいていの人は、この通念化の衝動に負けてしまって、菫というとすぐ「可憐な」という形容詞をつけてしまう。このときの一瞬間の印象を正確につかまえることが、文章の表現の勝負の決定するところだ、と私は思っている。その一瞬間に私を動かした小さな紫色の花の不吉な感じを、通念に踏みつけられる前に救い上げて自分のものにしなければならないのである。

本多勝一著『日本語の作文技術(新板)』P.258より

 

 作文、あるいは「表現」するということは、こういった「通念化」との戦いでもあるのかもしれない。以前に誰かが語った言葉、どこかで耳にした表現、手垢のついた紋切り型の言いまわし。それらは「通念」として常に僕らのなかに存在し、今か今かと使われるのを待っている。

 でも同時に、「通念」は思考をショートカットするツールとして役立つ存在でもある。言葉にならない感情を “とりあえずは一応の” 言葉として形にしてくれる知識であり、なんとなく締まりの悪い文章を整えてくれることも多い。

 しかし時として、共通認識としての「通念」は邪魔になる。通念化の衝動は、せっかく思い浮かんだ「自分の言葉」をかき消し、すっかり馴染みきった「いつもの表現」に上書きしてしまうのだ。

 ラーメンを口にした瞬間に感じた味、香り、食感を自分なりに言語化しようとしても、途端に「おいしい」「香り豊か」「もちもち」などの使い古された表現が脳裏に浮かぶように。それを具体的に説明することで一応は体裁を整えられるが、それは本当に自分の素直な感想なのか、そして自身ならではの「個性」が感じられる表現であると言えるかどうか──と考えると、正直なところ、怪しいように思う*2

 ただ、先ほどの例文がまったくの無個性かと言えば、実はそうとも言い切れない。②の日記のような文体にしなくとも、元となる①の文章のある一点──「安心して食べることができた」という部分だけは、この感想文における「個性」と呼んでもいいんじゃないかと思う。

 「おいしい」か「まずい」かの2択にしか(基本的には)ならない味の感想ではなく、具体性に乏しい「王道」「コク」「風味」といった表現でもなく。食べ物を口にして「安心した」と評する感覚は、その人から自然と零れ出た感情と言えるのではないかしら。

 とはいえ、当然これだけではピンとこないので、何をもって「安心した」と感じたのかを掘り下げなければならない。そのためには、ラーメンをすすって感じられた味を改めて分析し、「安心」をもたらした要素を自身の内から見出し、それを言語化して表現にまとめる作業が必要になってくる。

 

──大事なことは、表現したいと思うものは何でも、じっくりと、十分な注意をはらって見つめ、まだだれからも見られず、言われもしなかった一面を、そこから見つけだすことである。どんなものにも、未開拓の部分は必ずあるものだ。なぜならわれわれは、周囲のものを眺める場合に、自分たち以前にだれかが考えたことを思いだしながらでなければ、自分たちの目を使わないように習慣づけられているからである。どんなに些細なもののなかにも、未知の部分が少しはあるものだ。それを見つけ出そうではないか。燃えている炎や、野原のなかの一本の木を描くにしても、その炎や木が、われわれの目には、もはや他のいかなる炎、いかなる木とも似ても似つかなくないものに見えてくるまで、じっとその前に立っていようではないか。

 こんなふうにして人は、独創性を身につけるのである。

モーパッサン著『ピエールとジャン』より

 

 「観察」こそが「通念化」を打破する鍵となり、ひいては独創性──「個性」に結びつく。

 そう、醤油ラーメンの器が運ばれてくるやいなやカメラを構え、麺リフトの写真を撮っている場合ではないのだ。鼻腔の奥まで香りを吸い込み、舌をフル活用してスープを堪能し、すすった麺の食感とそれに伴ってこみ上げる感情を汲み取り、五感をフル活用してラーメンを味わう。

 そしてそのうえで、自分の内へ内へと潜り、自身と繰り返し対話を重ね、最適な表現を探し出す。──「食レポを書く」とは、きっとそういうことなのだ(※たぶん違います)

 

 

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*1:その “アレンジ” を指して「個性」と呼ぶこともできますし、たまたま自分のTLにそういったツイートばかり流れてきている──という可能性も否めませんが。

*2:それゆえ、食レポは実はかなり難易度の高い分野なんじゃないかと思うんですよね……。文章を主軸に魅力を伝えることは難しく、料理の写真やおいしそうに食べる自撮りなど、視覚に訴えかける記事のほうが読まれる傾向にありそう。