インターネットに漂う〈独り言〉に耳を傾けよう


 インターネットという広大な海を旅していると、いろいろな船と出会って話をしたり、お互いにチラ見しつつもスルーしたり、すれ違いざまに呪詛を吐かれたり、とんでもない遠距離から砲撃を受けたりと、非常にスリリングな船旅を送ることができる。

 旅人の乗る船はさまざまだ。特に近年人気の船舶と言えば、「Twitter」と呼ばれる小型船だろうか。小回りがきいてすばしっこく、オープンデッキに出るだけで他の船舶と交流がとれるため、行き先を同じくする仲間を探しやすい。互いにフォローし、時には莫大な船団として航行することもあり、戦闘となった際には──「数」による物量戦を仕掛けてくる、厄介な相手ともなる。

 僕が好んで運用しているのは、「ブログ」と呼ばれる中型船だ。規模が大きくなればTwitter船団にも負けない物量と航行力を誇りうるが、いまだ改修の中途であり、なんとも不安定な存在のまま旅を続けている。時にはTwitter船舶に乗り換えて情報を集めたり、交流を図ったり、器用貧乏にちょこまかとしている格好。

 そんなネットの海で船旅を続けていると、ふとした時に聞こえてくる〈声〉や、耳にするのは難しいが空間の大半を常に伝わっている〈音〉があることに気付くようになる。普通に他の旅人と言葉を交わすのとは異なり、意識することでその存在を知ることになる、声なき声。

 そんな、インターネットに漂う〈声〉について考えてみた。

 

見知らぬ誰かの〈独り言〉に耳を傾ける

 Twitterにせよブログにせよ、個人で運用されているそれらのメディアが発する〈声〉は、基本的には不特定多数に向けられた〈独り言〉のようなものだ。

 「腹減った」「今日はこんなことがあった」「このアニメ超おもしろい」「あいつふざけんじゃねえよ」「ちくわ大明神」「びろんびろーんwww」などなど。ブログなどの媒体では、あるテーマについてまとまった内容が語られることもあるが、それも不特定の相手へ向けられた、あるいは誰に向けるでもなく発せられた〈独り言〉であることに変わりはない。……誰だ今の。

 そのような〈独り言〉は多くの場合、意識して聴こうとしなければ耳にすることすらできない。Twitterでは(リツイートやリスト機能はあるけれど)その人をフォローしなければ発言を見ることはできないし、ブログも読者にならなければその文章が目に入る機会は少ない。

 そしてその内容も、決して特定の「私」に向けられたものではない。そういう意味で、ネット上に溢れかえる〈声〉の大半は、〈独り言〉であると言えるだろう。

 

 そんなネットの海を航海する僕らの多くは、自ら進んで、自分の望む〈声〉を探し出そうとする。ただ海を渡るだけならば、聞こえてくるのは意味を成さない波の音や風の音だったり、動物の発する鳴き声だったりするが、意識して「聴こう」とすることで、それらは意味を持つ〈ことば〉となる。

 今、このブログを読んでくださっている方も、言わばこのブログの発する音に「耳を傾けて」下さったわけで、ありがたい限りでございます。

 ここで大切なのは、繰り返すように、ネット上で耳にする声の多くはそのような〈独り言〉であって、意識しなければ聴き取ることのできない〈雑音〉でしかない。そこに意味を求めようとするのは、自分の意思によるものであって、誰かに強制されたわけではない、という点だ。

 

〈雑音〉の解釈、聴き方は千差万別

 誰かの発した〈独り言〉が、また別の誰かの耳に入るとき、それは聴き手の解釈によって、全く別の意味を成すものとなる。これは、ネットに限った話ではないけれど。

 例えば昨年末、人工知能学会誌の表紙が問題となったことがあった(人工知能学会の表紙は女性蔑視? - Togetterまとめ)。

 「新しい表紙、良い感じだね!」という〈独り言〉に対して、様々な解釈が飛び交い騒然となった。「女性蔑視だ」「学会誌の表紙として非常識」「ただの理想の女性像じゃないの?」「ジェンダーに関する話題に鈍感すぎる」などの声が上がり、発行元の人工知能学会は謝罪し、デザインの意図を説明する事態にまで至った(「人工知能学会の表紙は女性蔑視だ!」に思うこと - ぐるりみち。)。

 どうしてこの話題がそこまで発展したのかと言えば、最初に「意味」を持たせて、「おかしい!」と叫んだ人の声が広く拡散されたことにあると思う。そしてその〈声〉が気になり、見に行ってみた多くの人たちが各々の解釈を話し始めたため、芋づる式にそれが大きくなっていった。数ある小さな波のひとつが、他の波を飲み込み大きくなり、海流となって、やがては渦潮として他を引きこむように。

 

 問題となるのは、その無数の波、無数の解釈という〈声〉の中で、それを自らへ向けられた問題として語り、周囲を批判するような流れまで生まれたことだ。数ある解釈の中で「これが正しい!」「特定層を馬鹿にしている!」と思い込んで、それを否定する周囲の人間にまで批判の声を叩きつけ始めてしまった。

 意識しなければただの〈雑音〉に過ぎないものに対して、独自の意味を持たせ、それが絶対であると信じこんでしまう。その推測が異なっているとも言い切れないため、一概には言い切れないけれど、明らかな視野狭窄であり、他の〈声〉が聞こえなくなっている状態であるとも言える。

 「そのように解釈できることが問題だ」と言われてしまえば、確かに一理あるとも思える。ただし、ひとつの「可能性」に過ぎない〈声〉を盲目的に信じてしまって、それゆえに異論を唱える人に対して攻撃性を発揮し始めてしまっては、元も子もない。

 

特定層が集まることで相乗的に高まる「声」

 このような〈声〉が大きくなる構造には、前述のような反論に応えていくことで……という流れの他に、もうひとつある。自分と同質の〈声〉を発する仲間の存在だ。

 先ほどの人工知能学会誌の件でも、その構造が見られた。問題について、同じ観点から言及した人たちがリプライを送り合い、同調し、その考えの「正しさ」を確認しあう様子が、ところどころで散見された。

 意識を同じくする仲間の間でのやり取り、海で例えるなら、イルカ同士の交流。イルカは特定周波数のパルス波を発することで、周囲の状況や仲間の様子を確認し、固有の鳴き声である「ホイッスル」によって、危険や指示などの情報を伝え合っているという。

 

 同質の仲間で集まり、やり取りをすることは、安心や協調の確認に繋がる。けれど、それだけに集中していては、他の〈声〉が聞こえなくなってしまう懸念がある。特定の周波数を持つ仲間と交流を繰り返すことで、まるで自分たちが「多数派」あるいは「正義」なのではないかと誤認してしまう。

 そうなると、その集まりは一種の閉じられたコミュニティとなり、外界の〈声〉を遮断する壁をも形成し始める可能性がある。そうなってしまえば、もはや誰が何を言おうが関係ない。批判は耳に入らず、自分たちの中での〈声〉だけが相乗的に高まり続ける。自己簡潔しているのに、周囲への攻撃性は保ち続けるため、もうどうしようもない。

 

聞こえる「声」の大半はノイジー・マイノリティ

 人工知能学会誌の問題に耳を澄ませてみると、「女性蔑視だ!」と「考えすぎじゃね?」の声が2大勢力として聞こえてくるように感じるが、実際のところは分からない。

 問題が多方面に解釈できるという点もあるけれど、ウェブ上の、しかもTwitterに端を発する一部でしか語られていないため、どんな意見が多いか、どれが正しいかなんてことは、個人の主観でしか考えられない。

 ぶっちゃけ、大多数の人にはとっては「どうでもいい」ことなのではないかとさえ思う。言及している人の中にも「実際はどうでもいいけど」という人もいるだろうし、そもそも突っ込んですらいない人にとっては、それこそどうでもいい話題なのでは。

 

 物言わぬ多数派、「サイレント・マジョリティ」という言葉があるが、ネット上で聞き取れる〈声〉の多くはその逆、「ノイジー・マイノリティ」なんじゃないかと思う。

 広大なネットの海では、個人が観測できる範囲はほんっとうに狭い一部分でしかない。Twitterのタイムラインでみんなが賛成しているからそれが多数派だとは限らないし、ホッテントリに上がっている記事が大多数に評価されているものとも限らない。

 

 先ほどのイルカを例のように、耳に入ってくる意味のある言葉は、特定の集団の中で共有されているひとつの〈声〉に過ぎない。海上において、他に意味を持って聞き取れる〈音〉は少ない。イルカの他に聞こえるとしたら、別の動物の鳴き声か、移動する音、そのくらいのものだろう。

 しかし、海上で耳にする〈音〉の大多数は、波音や風の音など、嫌になるほど耳に入ってくるために意味を求めようとしない〈雑音〉だ。それはつまり、誰かが発してはいるが、自分が「聴こう」と意識しなければ意味不明の〈独り言〉。それが、ネットの海におけるサイレント・マジョリティ。

 ゆえにネットで発言するのであれば、自分が「少数派」であるという前提を持っておいても、あながち間違いではないと思う。なぜなら、ネットにおける「多数派」はそもそも発言をしていないか、発言していても、それら全てを意味あるものとしてカテゴライズし、数えることは不可能だからだ。

 

 だからこそ、自分はマイノリティであると意識した上で、様々な〈声〉に耳を傾けようとする方が、視野狭窄に陥る危険性を減らすことができるし、ただぶらぶらするよりは有意義な航海ができると思う。

 イルカ同士でつるむだけではなく、たまには別種の〈声〉も聴いてみようと意識する心構え。……出会ってみたらサメでした!なんてことも往々にしてありますが。海ヤバイ。

 また、耳を澄ましてエゴサーチしてみたら、ボロクソに叩かれました!凹んだ!ということもありがちなので、聴き取る〈声〉の選別と、聞こえてしまった〈声〉の対処法なんかを意識する必要も出てくる。その辺については、また別の機会に考えられましたら。

 

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