まずネット文化を理解するための前提として、現在のネットには先にこの大陸に移住してきた「ネット原住民」とあとから入植してきた「ネット新住民」とがいて、彼らの間に大きな文化の違いが存在することを知っておかなくてはならない。なぜならネット上での軋轢のほとんどは、この古くからいるネット原住民と、それに対して勢力を拡大しつつある新住民の文化的衝突であるとみなせるからだ。
(川上量生『角川インターネット講座(4) ネットが生んだ文化誰もが表現者の時代』より)
最近、川上量生*1さん監修の『角川インターネット講座』の第4巻をちょっとずつ読み進めている。「ネットが生んだ文化(カルチャー)」と題された本書は、「文化」の側面からインターネットを再考した内容だ。
その導入で川上さんが前提として指摘しているのが、上記の引用。黎明期からネットに親しんできた「原住民」と、ここ数年の間に利用を始めた「新住民」。両者の間に「文化」の断絶があり、それがネット上で巻き起こる軋轢の主たる要因になっているのではないか、と。
この「原住民と新住民の文化の違い」って、ブログやSNSといったネットコミュニケーションの場における考え方・価値観の違いにも現れているんじゃないか……と、ふと思いまして。その点について、考えたことをまとめました。
「批判」と「誹謗中傷」の境界線
どこの誰が見ているかわからない、その相手がどんな思想信条を持っているかわからない仮想空間においては、どうしたって「変なツッコミ」は振りかかるものだと思う。
筋の通った反論や、意図を理解した*2うえでの賛同はむしろ珍しい。その大半は反射的な悪口や揚げ足取り、あるいは「参考になる」といった、読んでいるのかどうかも怪しい定型文。罵詈雑言なんて日常茶飯事。ここは酷いインターネッツですね。
そこで自分の意に添わない意見やツッコミを見ると胃がムカムカしてきて頭に血が上り、思わず「そうじゃねーよ!」と反論したくもなる。あるいは「そうかそうか君はそういう読み方をしたのかそうかそうか(半ギレ)」と勝手に納得し、波立つ心を静めようとする。そんなふうに消耗していた時期が、僕にもありました。
心に余裕がなくなると、どうしても楽なほうへ楽なほうへと流れてしまうのは人の性。そんなとき、僕らは安易にレッテルを貼ってしまいがち。「誹謗中傷」とか、「罵詈雑言」とか、「アンチ」とか。
でも一方で、相手のそれが「反対意見」だというだけで、その内容を鑑みずに「誹謗中傷だ!」と決めつけてしまうのは早計だとも思うのです。というかそもそも、「誹謗中傷」って四字熟語じゃないんですってね*3。「誹謗」と「中傷」では、含有する意味合いが異なる模様。
パッと見は悪口であるように見えても、それは自分の意見が否定されたことによる過剰反応である、というケースは決して少なくないはず。第三者が見れば、「え? 別にどこも『悪口』には見えないけど?」と ( ゚д゚)ポカーン 状態。一歩引いて読む意識が足りない。
たとえ言葉は強くとも、その内容は筋が通っている場合も往々にしてある。否定されたからと言って反射的に相手を全否定するのは、「オタクきめえ!」「○○人は悪!」「今年の新社会人は消せるボールペン型だ!」*4といった根拠のないレッテル貼りと何ら変わりないのではないかしら。キモくて悪かったですね!
留意したいのは「悪口」とか「批判」とかいう前に、相手の発言に至る動機を察すること。ただ単に傷つけたいのか、サンドバッグを求めているだけなのか、記事の不備を指摘したいのか、単に自分語りがしたいだけなのか。その辺見極めないと事故る結果になる。
(誹謗中傷って何だっけ? - 無要の葉(※ページ削除済))
だいたいこんな感じ。実際問題として、野次馬的に悪意ある「ツッコミ」をしてくるユーザーの存在も否定できない──というか、それが大多数なのかもしれない。
けれど、数十・数百文字のコメントを考えて打ち込んで送信ボタンを押す、という一連の作業をわざわざするからには、ただの「誹謗」に終わらない何か、彼らにも思うところがあるんじゃないかとも思うんですよね……*5。
「文章」によるコミュニケーションは伝わりにくい
同時に意識しておきたいのが、「文章」という情報伝達手段の特性。対面での会話とは異なり、情報量が少なく感情が伝わりづらい「文章」においては、論理的に説明することで、言葉尻から受ける印象がどうしても強くなってしまうと思うのです。
一部の人が「はてなブックマーク(あるいはTwitter)、こわい……」と感じるのは、その特性に加えて、「100字」という文字数制限が一因としてあるのではないかと。
限られた尺で説明しようとすれば、「論理」優先で「感情」を削ったコメントになってしまうこともあるはず。結果、「なんでこの人たちいつも怒ってるの:;(∩´﹏`∩);:」と外から受け取られても無理はありません。
要するに、文章によるコミュニケーションに慣れていない人は、どうしても「わかりやすい」方向へと流れてしまいがちであるように見える。それが、原住民と新住民との断絶のひとつ。
特に後者は、広い意味での反対意見を「誹謗中傷」と決めつけてしまったり、「!」や顔文字、フォントを装飾していない文章を「無感情」で得体の知れないものとして忌避していたりしやすい印象があります。そんなことないよ〜? めっちゃエモーショナルなゆるふわ男子だよ〜☆
もちろんだからと言って、「批判」はすべて無条件に受け入れるべき、とは思いません。正直なところ、個々のコメントの是非を逐一考えるのは難しい。それに、反対意見に対してそんないちいち反応していたら、疲れてしまいます(真摯だなー、と個人的には好感度が上がりますが)。
ただ、スルーするでもなく、内容を斟酌するでもなく、ただ「自分の意見が否定されたから」という理由から、「誹謗中傷」や「罵詈雑言」という括りで被害者感情を主張するのはなんか違うんじゃないかしら……と、そのようにも思いました。
「荒らし」が教えてくれたこと
一方で、ネット歴の長い「先住民」の人たちがみんな「文章によるコミュニケーションに長けている」かと言えば、必ずしもそうとは言い切れません。常にROM専*6だった人もいるでしょうし、「やっぱり話すほうがやりやすいわ〜」なんて人も少なくないと思う。
けれど、先の「『批判』と『誹謗中傷』の境界線」の基準は、「先住民」のほうがしっかりと持っているようなイメージがあります。理由としては、昔からネットを利用している人ほど、「そもそも意思疎通のできない相手がいることを経験的に知っている」ことが挙げられるのではないかしら。
最近はあまり耳にしなくなったけれど、ちょっと前までのインターネットでは、だいたいどこに行っても「荒らし」*7の存在があったように思う。一口に「荒らし」と言ってもさまざまですが、「あああああ」や「シネシネシネシネシネシネ」といった投稿を掲示板に繰り返す典型的なものとか。
ネットの黎明期〜普及期にかけて「ネット民」となっていた人たちって、この手の「話が通じない人」への対処や、防御力に優れている印象があるんですよね。言い換えれば、 “慣れている” 。ネットには、そんなどうしようもない人がいると昔から知っており、どうにもならないと諦めている。
僕自身、過去にYahoo!ジオシティーズや楽天ホームページで個人サイトを運営していたので、そこで日々「荒らし」と戦……キャッキャウフフしておりました。当時は血気盛んな中学生。必死に論破しようとしていた時期もありましたねー(遠い目)。
誰もがそうだ、とは言わないけれど、長年のネット生活で「話が通じない人」に悩まされた、彼らと殴り合った経験のある人は、意味ある「批判」と無意味な「誹謗中傷」を感覚的に区別していて、罵詈雑言に対する防御力*8も高いような気がします。往年のはてなユーザーなんて、まさにそんな感じなのでは?
自分もどちらかと言えばそちら側の人間であり、そのような「交流ですらない交流」を知っているので、むしろ論理的な「批判」はとんでもなくありがたいものに見えてくるんですよね。
「すげえ! この人、ちゃんと内容を読んで考えたことをコメントしてくれてる! 日本語通じてるよ! やったー!」的な。
広大なネットの海で、どこの誰とも知れない相手に何かが “伝わった” というのは、それだけで感動モノ。たとえそれが歯に衣着せぬ、自分にとって耳の痛い批判だとしても。──ブログを続けていて、本当にそう思います。
感情を伝えるためには、言葉を尽くさなくてはならない
でも悪く言えば、自分含めそういった「先住民」たちは、ウェブ上でのコミュニケーションを一度は「諦めてしまった人間」と言い換えることもできなくもない。
「感情」はどう足掻いても伝わらない。だからこそ、「言葉」を尽くして伝える努力をしなければならない。そして、長年の試行錯誤に疲弊しきって、斜に構えたツッコミしかできなくなってしまった無残な化け物。ただでさえ、ネットの言説は刺激が強いので。
とはいえ、同時にどこか期待もしていると思うんですよね。荒らしに心を乱され、真逆の主張を持つ相手と掲示板で互いに罵り合ってきたけれど、一瞬だけでもどこぞの他人と “通じ合った” り “伝わった” りした経験もその中にはあったはず。それが楽しいから今も辞められないし、そこに住んでいる。
ぶっちゃけ、僕なんざ「ネット原住民」の人たちからすればまだペーペーの存在ですが、「ウェブ上で言葉が通じる、交流ができるのはすごいこと」という意識はずっとどこかにあったのだと思います。複数人による対面コミュニケーションが苦手な、文章本位の人間としては、反応があるだけで超嬉しい。
長々と書いてきましたが、一口に言えば、「見知らぬ他人からの『批判』や『反論』を受け取ることをありがたいと感じるか、余計なお世話と思うか」という差なのかもしれない。もちろん、それらに向き合うかどうかは各々の選択になるし、フォロワーが万単位にもなれば、すべてに反応するのは無理でしょう。
ただ、せっかくこうして「インターネット」なんておもしろいものを使って、そこでわざわざ「ブログ」とかいう自分の城(※ただしハリボテ)を作って文章を書き連ねているのだから、そこでもらえる反応を誹謗中傷として切り捨てるのはもったいないのではないかしら*9。僕は、そう思います。