ぐるりみち。

平成生まれのフリーライターのブログ。本・映画・マンガ・アニメの各種レビューに、旅行・グルメ・街歩き日記など。

爪がある自慢かよ!ネットを舞台に繰り広げられる『リア充対非リアの不毛な戦い』

「ネット上に『爪を切った』と書くときは、『爪がある自慢かよ』と怒りだす人に気をつけなければならない」

 

 この一文を読んで、「なんだか聞き覚えがあるような……?」と感じた人もいるかもしれません。こちら、ちょっと前に各種SNSで広く拡散され、話題になった記事で登場した言いまわしです。

 

 

 「トゥギャッチ」や「オモコロ」などのウェブメディアでおなじみ、小野ほりでい@onoholidayさんの記事ですね。ミカ先輩は黙っていればかわいいと思うんだ。黙っていれば。

 

 さて、先日から読み進めております、川上量生さん監修『角川インターネット講座4 ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代』。その第3章の筆者が、小野ほりでいさんでした。

 章タイトルは、「リア充対非リアの不毛な戦い」。ほとんど自称されることのない「リア充」に対して、自らを「非リア」と称する数多くの人たちの心性から、「リア充・非リア」の構造と問題を明らかにした内容です。先ほどの “繊細チンピラ” のトピックへさらに踏み込んだ文章とも言えるもので、読んでいて非常に面白かったです。

 残念ながら、エリコちゃんたちは登場しません。

 

個人の主観で定義される「リア充」と、意味のないカテゴライズ

 本文ではまず前提として、「リア充」と「非リア」を明確に区別し、定義することは困難であると説いている。

 それは、「充実しているか否か」という基準は個々人の主観によって決められるためであり、 “「自分より充実している(ように見える)」人間を「リア充」、そして「自分と自分より充実していない人間」を「非リア」と定義している状態” であるからだ。

 

数か月恋人がいないだけでモテないと嘆けば一度も恋人ができたことのない人間に羨まれ、恋人ができたことがないと嘆けば異性と会話したことすらない人間に贅沢だと恨まれ、「では誰だと嘆く資格があるのか」と掘り下げていけば人ならざるものに行き着くだろう。

 

 ゆえに、 “生きている以上はどんな人間であっても誰かにとっての「リア充」” である、と。俺は不幸だ。いや、それよりは俺の方が不幸だ。いやいや、どう考えても俺の方がもっと不幸だ。いやいやいや……と「意識低い論争」を繰り広げ続けていれば、最終的には “人外” にたどり着かざるを得なくなる。そうなのね、すべては妖怪のせいなのね。

 誰もが誰かにとっての「リア充」であるということは、常に誰もが、誰かからの批判を受ける可能性があるとも言える。「持たざる(と思い込んでいる)者」から、「持てる(と決めつけられている)者」への容赦ない攻撃。それが「リア充・非リア」の問題を構築する要素のひとつであり、付け加えれば、誰も幸せにならない、残念な構造でもある。

 

 それを筆者が端的に示すために引用しているのが、冒頭の文言だ。

「ネット上に『爪を切った』と書くときは、『爪がある自慢かよ』と怒りだす人に気をつけなければならない」

 

 「爪を切った」「喫茶店でコーヒーを飲んだ」「彼女と遊園地に行った」など、本人にとっては何でもない、日常の一幕でしかない行動を明らかにしただけで、それを「悪意」や「自慢」、何らかの「アピール」などの攻撃として受け取り、反撃してくる人は少なからず存在する。

 悪意や善意のあるなしとは関係なく、誰かが誰かの行動によって傷つくことは、決して珍しいものではない。しかし、傷つけられた人の中にはそれを理解できず、何らかの「理由」を求めようとしてしまう場合もある。

 その結果が「爪がある自慢かよ」という攻撃であり、持たざる「非リア」から「リア充」への攻撃にも同様の要素を認めることができる。この点について筆者は、次のようにまとめている。

 

 この文章をお読みのあなたもこれから様々な場面で、全ての人間が自分に配慮するように求める人を目撃することになるだろうが、そういう人は恐らく一度も誰かに配慮しようと思ったことすらないと考えて良い。

 なぜなら、一度でも全ての人間に配慮しようと試みたことがある人なら、それが不可能だと知っているはずだからである。

 

持たざる者が個性を求め、辿り着いた居場所としての「非リア」

 一方で、「わかりやすい人間」は好かれ、「わかりにくい人間」は嫌われるという前提を示した上で、「非リア」を「非リア」たらしめている要因について、本文中では次のように説明されている。

 

つまるところ「非リア」の人は「個性的でありたい」、もっと言えば「そう簡単に理解されるような人間にはなりたくない」という願いが「よく分からない人間は好かない」というコミュニティの性質と相反するため隅っこに追いやられているのである。

 

 自分が何者であるかを自分でも説明できず、個性を何より大切にすべきと考え、挙句の果てには「自分探し」を始めてしまうような人。彼らにとっては、「お前はこうだ」と決めつけられ、社会の一部としてカテゴライズされることはどこか恐怖を覚えるものだ、と。

 自分も心当たりがあるので耳が痛い部分ではあるものの、それゆえに「非リア」の心性としては納得できるように思う。

 理解されたいけれど、一言で片付けられたくない。自分にとって特別な何か、個性を欲したところで、具体的には何を求めているのか自分でもわからない。――そういった思春期のアイデンティティ形成に支障を来たしたことで、行き場を見失ってしまったような喪失感と停滞感。

 

 筆者は続けて、「非リア」と関係性の強いものとして「文化」の存在を持ってきているが、これまた順当で納得のいく言説であるように思えた。

 青春時代を友人と過ごすよりは、音楽や映画、本や漫画、あるいはインターネットといったカルチャーに費やしてきたことで、逆に “文化を生み出す側の人間になるチャンス” を持っているのではないか、と。

 

創作に関しては、日常生活の鬱屈、つまり「自分は恋人がいないし友達もいないし仕事も楽しくない」というような欲求不満、現実を変えたいという焦燥が大きなモチベーションとなり得るからだ。

 

 人間関係を必要以上に注視せず、自分の趣味と時間をもって自己完結できてしまう人は、ある意味では最強だ。孤独であることを他人のせいにせず、自ら好き好んで「暇」な時間を趣味に費やし続ければ、やがては何かを生み出すことがあってもおかしくない。

 鬱屈とした感情、自らは「非リア」であると叫ぶネットユーザーの発言が時として注目を集めがちなのも、そういった理由によるものなのだろう。ブログなんかを読んでいても、ネガティブな論調ながらとんでもない文章力を持っている人をたびたび見かけるし、ウェブサービスの創設者にはどこか影を抱えた人間が少なからずいるようにも見える。川上さんも序章で挙げていましたが、ザッカーバーグとか。

 

 文化と親しみ、インターネット上に逃げてきた「非リア」たちは、「自分たちは満たされていない」という同族意識を共有しながら、一種のコミュニティを形成した。

 いつも誰かとツルんでいる「リア充」に対するカウンターとして、「非リア」もまた、ネット上で結束することとなった。このことを指して筆者は、 “「非リア」というのは集団から一度溢れた者を寄せ集めて再び結束させるセーフティネットのような言葉” と書いているが、言い得て妙だと思う。

 

「非リア」はコミュニケーションに対するアンチテーゼの形をとったコミュニケーションツールであり、「リア充」はそのために作られた仮想の存在である。

 

 仮想敵としての「リア充」を冗談半分に口に出し、コミュニケーションのきっかけとするくらいならば悪くはない。とは言え、特定個人ではないはずの「リア充」に対象を設定し、攻め立てるような「繊細チンピラ」となってしまうのは問題であるように見える。

 その対策として、小野ほりでいさんは文中で「自意識」との付き合い方について言及しているので、興味のある方はぜひ手に取って読んでみてくださいな。

 

 

『角川インターネット講座4』感想記事(筆者敬称略)