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口に出して語られる「リア充」は無意味な言葉『リア充/非リア充の構造』

 ついに最終章となりました、川上量生さん監修角川インターネット講座4 ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代の章別感想記事でございます。

 さて、第7章の筆者は、仲正昌樹さん。政治思想史、社会思想史、社会哲学を取り扱う哲学者。金沢大学の法学類で教鞭を執っているそうな。

 章テーマは『リア充/非リア充の構造』。3章で小野ほりでいさんが論じたテーマと重複しておりますが、その言葉の意味とカテゴライズの考え方についてまとめていた3章と比べて、本章では哲学的な視点とコミュニティ論から“構造”を紐解く内容という印象です。

 

ネット住民でない人間が語る「リア充」に意味はない

 今や市民権を得たと言っても過言ではない言葉、「リア充」。その起源は00年代の2ちゃんねる・大学生活版だとされているが、2011年には女子中高生ケータイ流行語大賞に選ばれるなど、ネットスラングからギャル語にまで波及している。

 00年代後半には、当時大学生だった自分の周囲でも使われていた覚えのある「リア充」だが、その意味は「恋人がいて充実した生活を送っている勝ち組の人間」くらいのもの。一方では、その対極に位置する「非リア」も自虐的な視点から乱用されており、インターネット的な文脈はすでに削ぎ落とされていたと記憶している。あくまで流行り言葉でしかなく、それ以上の何物でもない。

 本章ではこの言葉について、まず前提を明らかにするべく問題提起されており、“「リアルな生活」の空間と、「ネット上の生活」の空間がはっきり分かれている”という条件の必要性を指摘している。

 

つまり、かなりの時間をネットで費やしているおかげで、〝ネット上だけで認知している他者〟が結構いる、あるいは、自分自身がそういう匿名の人格になっている、というような人にとってのみ、「リア充/非リア充」の区別は意味を成すのである。ネットをあまり使わない人、頻繁に使っていても〝ネット上の仮想人格〟の動向に興味などない人、そうしたことに興味をもつほどネットにはまっていない人にとっては、「リア充/非リア充」は無意味な言葉である。

 

 つまり、先ほど書いた「ギャル語としてのリア充」はもちろんのこと、交友関係がある相手に向けて発し発せられる、からかい言葉としての「リア充」の使われ方のいずれもが、はっきりと“無意味な言葉”であると断言されている。

 考えてみれば、これは至極当然の指摘であるようにも思える。筆者も補足的に述べているように、“リアル空間で認識されることは、全て〝リアル〟”なものであり、そこにネット的な“非リアル”の視点は存在しない。互いによく知る間柄で面と向かって話される「リア充or非リア」は、「恋人持ちor独り身」であることを示す言い換え表現でしかなく、そのなかに元来的な「ネットorリアル」を指す文脈は認められない。ゆえにネット住民でない、“リアル”のみを生きる人間が語る「リア充」とは、その言葉の本来の用法を借りた“パロディ”に過ぎない、と筆者は書いている。

 

「非リア」という文脈が共有されることで生まれるコミュニティ

 では、そういったリアルと分断されたインターネット空間において、「リア充/非リア充」といった区別はどのように決定され、機能しているのだろうか。そこにはネットならではの匿名コミュニティの存在があり、その根底を流れる“文脈”としてこの考え方があると、筆者は書いている。

 

ネット上で長い時間を過ごしている人たちの間では、一定の暗黙の相互理解に基づく共同性意識がうまれやすい。それは、自分たちは、ネットの外の生活ではあまり恵まれていないけれど、ネットの中でそういう恵まれない人間(=非リア充)同士の〝コミュニティ〟を作っていて、そこではそれなりに楽しくやっているという相互理解である。その〝コミュニティ〟は、メンバー間で匿名性が保たれ、各人のリアルな生活に関する情報をもち込まないことによって成り立っている。

 

 時に自然発生的に、時に意図的に作られたそのコミュニティ内では、仮想敵として「リア充」を叩くことが恒常化しており、それによって自分たちが「非リア充」であることを再確認し、連帯している。

 見方によっては、ある意味で“意識高い系”の対極に位置する、足の引っ張り合いにしか見えないと感じる人もいるかもしれない。しかし、相手の名前も顔も“リアル”も知らない匿名集団の中にあって、共通する“文脈”でもって連帯している空間は思いのほか居心地がいいものだ。筆者はそんな匿名コミュニティがうまく機能するためのカギとして、ハワード・ラインゴールドの「共有される文脈の幻想(illusions of shared context)」という言葉を引用し説明している。

 しかし“幻想(illusions)”の言葉が指し示すように、その連帯は不変のものではない。前提がコンプレックスに基づく集団であり、しかも明確なルールや慣習ではない“文脈”のみで成り立っているコミュニティであるがために、いざこざは少なくない。誰かから「リア充」の雰囲気がポロッと漏れたと感じられれば当然、その者は批判の対象となり排斥される。そして自分たちは「非リア充」であることを再認識しつつ、コミュニティはまた緩やかに続いていく。

 

非リア充≒オタクのヴァーチャル・コミュニティと「身体性」

 ここまでの言説を鑑みるに、ネット上にある「非リア充」の匿名コミュニティは彼らの一時的な居場所となりうる一方、それ自体は何も生み出さない、閉鎖的かつ排他的な集団であると読めなくもない。実際のところ、一面的にはそれも事実なのだろう。

 本章の後半部分、筆者はヒューバート・ドレイファスが論じた「脱身体化(disembodiment)の視点を取り上げているが、これもまた匿名コミュニティが抱える問題の提起となっている。

 

「公衆」を構成する人々は、メディアが次々と提供する話題に飛びつくが、特定の問題に自ら主体的にコミットすることは避けようとする。傷つきたくないからである。コミットしないので、飽きたらすぐに他の話題に移ろうとする。そうした彼らの振る舞いは「身体性」を欠いている。この世界で「身体」をもって生きていれば、不可避的にいろいろなことで傷つく。自らの「身体」の傷つきやすさとどう折り合いを付けるか学習しながら、人はアイデンティティを獲得するわけである。しかし、すぐに匿名性に逃げ込む「公衆」は、その機会を自ら放棄している。

 

 この「身体性」を欠いた公衆とは、リアルの生活に前向きな意義を見出せず、個人的な趣味に没頭している非リア充≒オタクのヴァーチャル・コミュニティにも当てはまる。

 しかもそれにとどまらず、身体性の欠如は一般的なネットユーザー全体にも広がっているというのが筆者の見解だ。友人とのやり取りにおいても、LINEやメールを介して会話する時間が増え、面と向かって話す機会は減りつつあるように見える。ネットでの緩いつながりが促進された結果、リアルでは身近な関係性に閉じこもりがちになってしまったのではないか、と。

 

 この視点に関しては、明確に異論を唱えたい。 特に少数派たる「非リア充」の人たちにとっては、むしろその「身体性」の拡張にインターネットの存在が一役買っているように思える。

 ネットを介することで同好の士と交流する機会は格段に増えたし、大きな公式イベントから小規模なオフ会まで、“ネットからリアルへ”つながる選択肢も広がった。名前ありきで特定のコミュニティに属する必要のあった過去のオフ会と比べ、現在は各種サービスの中から自分に適した集まりを探し、簡単に参加することができる。それに何より、本文でも言及されていた『電車男』によってネット文化とオタク層への理解が広まったことで、ウェブ上で隠れるように消費されていたコンテンツ自体が「身体性」を獲得したとも言えるのではないだろうか。

 

 何はともあれ、章テーマに立ち返ると、今となってはもう「リア充/非リア充」の原型的な意味は失われてしまったのかもしれない。はじめから本名を用いてネットで活動をする人も増え、ネットとリアルは限りなく同一化しつつあるという一面もある。

 それでもなお、根底に流れる“ネット的”な文脈はそこにあり続けているし、新住民からも一部では尊重されているようにも見える。SNSが隆盛を迎え、個人でもネットをビジネス利用するのが珍しくなくなった今、改めて「ネット文化」を捉え直すタイミングがきているのかもしれない。

 

 

『角川インターネット講座4』感想記事(筆者敬称略)