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2chの“祭り”は終わり、“血祭り”と炎上の世界へ『祭りと血祭り』

 川上量生さん監修角川インターネット講座4 ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代の章別感想、その第5章でございます。

 4章では荻上チキさんが、「不特定多数の人間の多種多彩な感情によって醸成される、私刑としての炎上」としてその構造を明らかにしていましたが、本章はまた別の筆者が、別の観点から「炎上」を分析・説明した内容となっております。

 『祭りと血祭り 炎上の社会学』と題された5章の筆者は、成蹊大学文学部現代社会学科教授の伊藤昌亮さん。著書に『フラッシュモブズ』などがあり、インターネットに端を発する集団的行動などを研究されているようです。

 

 そんな伊藤さんによる本章ですが、さすがは大学教授と言いましょうか。さまざまな分野の研究・論説が引用されており、知識欲の満たされる内容といった印象。

 しかし一方で、ここで説明されている「祭り」はもはや過去のものであり、現代のインターネットにおける「炎上」を説明するものではないようにも感じました。言い換えれば、00年代の2ちゃんねるにおける「祭り」を知らない人にとっては貴重な資料となるかもしれません。

 

「炎上」の“モチベーション”とは?

 本章前半部分では、まずインターネット上で巻き起こる「炎上」という現象を紐解いた言説として、いくつかの分野から既存の論説を引っ張ってきている。

 その“原点”として示されているのが、CMC研究の議論。ネット上では声や表情、社会的文脈といった「手がかり」をコミュニケーションの相手から得ることができないために、“感情的な行き違いによる激しいやりとり、すなわち「フレーミング」が発生しやすい”と説明している。

 

 他にも心理社会学的な観点や、マスコミュニケーション研究、行動経済学の見地からの既存の議論によって、「炎上」のメカニズムがそれとなく説明できることを示しているのが、導入部分。

 しかし、そこで筆者は、そもそもの「炎上」が起こる要因や、人々がなぜそれを起こすのかという“モチベーション”を説明するにまでは至っていないとして、本章の問題提起としている格好だ。

 

人々は何のために一斉に「バルス」と叫んだり、田代まさしを応援したり吉野家に殺到したりするのだろうか? アルバイト先の冷蔵庫に入った写真を投稿した学生を、あるいは生活保護受給者や在日韓国・朝鮮人を、人々はなぜあれほどまでに執拗に叩くのだろうか? そうした現象を理解するためにはそのメカニズムを説明するばかりでなく、そのモチベーションの部分、すなわち人々がなぜそんなことをするのか、する必要があるのかという点にまで踏み込んで考えてみる必要があるだろう。

 

構造機能主義による説明/「祭り」と「血祭り」の対比

 通常、広い意味での「炎上」の中でも、にぎやかな盛り上がりを伴う祝賀的なものが特に「祭り」と呼ばれ、一方で誹謗中傷によるバッシングを伴う攻撃的なものがより限定的な意味で「炎上」と呼ばれる。(中略)

 ここで前者を「祭り」と呼ぶとすれば、それとの対比から後者を「血祭り」と呼ぶこともできるのではないだろうか。なぜならそこでは常に誰かが一斉攻撃を受け、集中砲火を浴び、衆目の面前で血祭りに上げられることになるからだ。

 

 続いて筆者は、上記のように「炎上」「祭り」、さらには批判的な「血祭り」という表現を用いてそれらの関係性を示したうえで、その構造を分析するべく、デュルケム*1の構造機能主義的なアプローチを選択している。

 一口に言えば、人々によって為される、意図が不明瞭な行動を理解するため、それが社会においてどういった役割・機能を暗黙的に果たしているのかを明らかにしようとする手法。そこで登場するのが、宗教的祭儀としての「祭り」の視点だ。

 

 曰く、人間の生活は、経済的な活動が基本となる日常と、宗教的な意味合いを持つ祭り、2つの対照的な期間から成っているという。

 個人や家族といった最小集団しか意識しない「日常」に対して、後者の「祭り」の期間中、人々は熱狂し極度の興奮状態になる。普段は関わりのない不特定多数の集団と共通の儀礼行為を共有することによって、“集団的沸騰”がもたらされ、自分が「社会」に所属していることを再確認する、と。

 

 これは、いわゆる「聖俗二元論」*2を参照したものであり、厳密には、“聖なるもの”としての宗教システムと、“俗なるもの”としての日頃の個人の関心事を区別する説明を指すものだ。イコールではないが、柳田国男の「ハレとケ」*3の視点と限りなく近しいもの、と考えればわかりやすいかもしれない。

 そのうえで筆者は、この“集団的沸騰”としての「祭り」を、集団内における共通の活動によって「社会」の在り処を確かめるこの考え方を、ネット上の「炎上」現象になぞらえて説明している。

 

それら*4を「聖なるもの」としてあえて祭り上げるという遊びを共同で執り行うことを通じてわれわれは、そこから社会が創り出されるという実感を自らの手でつかみ取ろうとしているのではないだろうか。そして社会を社会として成り立たせうるものの核心、いわば社会性のありかをともに探り当て、確かめ合おうとしているのではないだろうか。いいかえれば「祭り」とは、われわれが自らの手で社会を創り出すための集合行為であるといえるだろう。

 

まつりのあと

 筆者の説明は、「ネットコミュニティとしての“社会”、あるいは匿名集団における“文化”を、その成員共通のものとして可視化する現象」=「炎上」として捉えれば、納得できるものであるように感じた。

 言い換えれば、「炎上」現象が起こることによって、インターネット上における特定の集団・社会が可視化される、というもの。特定の行為によって不特定の集団が「社会」として認識・再確認されるという意味では、この指摘は間違っていないように思う。

 

「祭り」は「炎上」の先行概念として、むしろより基幹的な位置にあるものと捉えることができるだろう。つまりネットカルチャーの成立とともにまず「祭り型炎上」の形態が一般化し、その後、その進展と普及とともに今度は「血祭り型炎上」の形態が一般化してむしろそちらが主流となるに至った。その結果、より包括的な概念としての「炎上」という呼称が後者に与えられることになったのではないだろうか。

 

 他方、そこで思ったのが、今や「血祭り型炎上」が当然過ぎて、「祭り型炎上」はもはや存在しない、過去に廃れた祭事なのではないか、ということ。

 初期の「田代祭」*5のあと、VIP全盛期を過ぎるくらいまでには、たびたび「祭り」と称した大きな動きがあったと記憶している。「もやし祭り」*6とか、「コイル祭り」*7とか。それらは筆者の言う「祭り型炎上」に当てはまると言って間違いない。

 ところが、今となってはそれらの「祭り」を「炎上」と呼称するには違和感しか覚えないし、「炎上」と言えば、不特定多数によるネガティブな誹謗中傷の発露のイメージが強すぎる。その過程で“特定祭り”のようなものはあれど、それはメインではないだろう。

 

ネット上の「祭」「祭り」とは、掲示板などで、特定の対象(個人や法人、団体)の話題で膨大な「書き込み」(発言、レス)が殺到することです。祭り状態になると、その話題を扱った掲示板2ちゃんねるのスレ(スレッド)などがもの凄いスピードで流れるようになり(加速/ksk)、大勢の参加者が集まって大騒ぎとなります。

 

 言うなれば「祭り」とは、主に2ちゃんねるコミュニティ圏内での現象に限られるのかもしれない。SNSが普及した現在は、特定のコミュニティ・サービスに限らず各所に波及するスピードが圧倒的に早く、“特定”のように一丸となって取り組むような活動もない。

 まつりのあとに残るのは、楽しかった時間の残滓と、燃えカスのみ。ぶっちゃけ、2ちゃんねるの「祭り」の大半はネタ的な悪ふざけであり、端から見れば迷惑以外の何物でもないものも多いのだけれど、今となっては懐かしい、とも。

 

 本章では続けて、「攻撃行動」としての「血祭り型炎上」について分析を加えている。この言説に関しては、本書をこの第5章まで読み進めてきて初めて納得できなかった部分なのだけれど、そこまで書いていると長くなりそうなので割愛。

 「祭り」についての説明はとてもおもしろく読めたのですが、「炎上」の性質と構造に関しては、4章の荻上チキさんの論説のほうがしっくりくるという読後感でした。ちょっと自分でもまだ整理しきれていないので、後々、読み返すつもりです。

 

 

『角川インターネット講座4』感想記事(筆者敬称略)