ぐるりみち。

平成生まれのフリーライターのブログ。本・映画・マンガ・アニメの各種レビューに、旅行・グルメ・街歩き日記など。

現代は「ボケ」と「寛容さ」が足りない『一億総ツッコミ時代』

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photo by Tim Green aka atoach

 

人の揚げ足をとって失敗を許さない。失敗した人を笑いものにして追い込み、自分のポジショニングを維持する。まるでサル山のサルたちの権力争いのような構造が、そのままの形で社会の中の人間関係の中に降りてきているのです。

 

 これはひどい。どこのインターネッツのお話ですか。けしからん。
 ……え?リアルでもそんな感じですって?あ、はい。すみません。

 

 マキタスポーツ*1こと、槙田雄司さんの『一億総ツッコミ時代』を読みました。僕は芸人にも詳しくなく、お笑いとはほぼ無縁の人間ですが、この本は楽しんで読むことができました。

 首肯できる部分が非常に多く、時に軽妙な言い回しに笑いながら読みました。“一般人のプチ松本人志化”とか、“涙腺プレイ”とか。

 

 日常的にインターネットに触れているウォッチャーの方はもちろん、コンテンツを発信している、ブロガーさんなどにもぜひオススメしたい内容です。

 

 

日本社会に蔓延する「ツッコミ」

 本書のタイトルは『一億総ツッコミ時代』となっていますが、はて、どういう意味だろう。ネット、主にTwitterの話かな?

 

 表紙の折込部分、Amazonの商品ページの「内容紹介」にも書かれている要約によれば、こういうことらしい。

ツイッターで気に入らない発言を罵倒し、ニコ生でつまんないネタにコメントし、嫌いな芸能人のブログを炎上させる。ネットで、会話で、飲み会で、目立つ言動にはツッコミの総攻撃。自分では何もしないけれど、他人や世の中の出来事には上から目線で批評、批難――。一般人がプチ評論家、プチマスコミと化した現代。それが「一億総ツッコミ時代」だ。

 

 なるほど。ブロガーでも生主でもクリエイターでも、何かしらのまとまった「コンテンツ」を発信したことのある人であれば、経験があるのではないかしら。

 感情的で意味をなさない罵詈雑言。何を批判しているか分からない一言コメント。謎の上から目線。などなど。そんなものが、ネットでは当たり前に蔓延っている。

 

 ウェブ上で他人へと向けられる罵倒や、ネガティブコメント。それらが問題視され、ブログ記事やニュースサイトで話題となることはしばしばありますが、本書『一億総ツッコミ時代』も、その流れを汲むものと言っていいでしょう。ただ、若干、視点が異なります。

 

 本書で取り上げられているのは、ウェブ上に限らず、日本社会全体に蔓延している「ツッコミ」について。

 オチを求め、些細なミスを笑いにし、安全地帯からあらゆる話題にコメントし、他者に対して優位であろうとする精神性と閉塞感。それらの問題について、著者自身にとっても身近な「お笑い」を例に挙げつつ、再考してみようという内容です。

 

 本の「はじめに」の部分でオススメしているのは、2つの方法。

1. 「ツッコミ志向」から「ボケ志向」へ

 ⇒自ら何かを行動に移して、他人の視線を木にせず前に進む

2. 「メタ」から「ベタ」へ

 ⇒鳥瞰的に物事を引いて見ず、どんどん行動に移して人生を楽しむ

 

 冷めた目であらゆるものを「評価」しようとするのではなく、体験にまつわる「面白さ」を至上とし、前向きな姿勢でいた方が楽しいんじゃない?という提案ですね。

 

誰もが評価されたくない、「ツッコミ高ボケ低社会」

 ツッコミは、誰でも使えるコミュニケーションツール。何かに対してツッコんでいれば、安全な場所から他人を攻撃して楽しむことができる。

 筆者は、社会に蔓延しているツッコミが「他罰的」なものであり、それによって世の中の「寛容さ」が薄れていると警鐘を鳴らしています。

 

マスコミの権力を疑うよりも、彼らが醸し出している空気に乗っかって、魔女狩り的なツッコミを行っている。この場合のツッコミは「叩き」を同義であり、見えないツッコミは数の論理で相手を追いつめていきます。

 

 マスコミだけでなく、このような流れはネット上でもよく見られるものですね。権威者の主張や、影響力のあるまとめサイトの情報を鵜呑みにして、「多数派」の方に便乗し、強い言葉でツッコむ構図。

 「マスゴミは信用ならない」と叫ぶ人たちが、一次情報がマスメディアであるニュースに賛同してあーだこーだ言っている光景は、さすがに最近は見られなくなったようにも思いますが。

 

 もちろん、誰も彼もが多数派の尻馬に乗っかって、ひたすらツッコミを入れ続けているわけでもありません。人々が、コンテンツや情報にどのように触れ、消費しているか。その消費者層を、筆者は3つの層に分類して説明しています。

 

 ざっくりまとめると、こんな感じ。

  • 受動層:情報源はテレビや新聞など、比較検討はしない
  • 求道層:高リテラシー、情報の精査が可能、特化型オタク、発信者側
  • 浮動層:良くも悪くも情報に踊らされている、流されて無理にツッコんでいる

 

 そして、現代日本に多いのは、圧倒的に“浮動層”であり、その中にも、“求道層寄りの浮動層”と、“受動層よりの浮動層”がいるのでは、という話です。僕は、“求道層になりたい浮動層”、といったところかしら。

 

中途半端な態度で大量に情報を受け取って、振り回される。そのくせ、他人からのツッコミに対しては身構えて、「いえ、わかっていますから」と態度を硬化させてしまう。

 

 うふふふ、耳が痛いっすねー。このブログにも、「それ、どうなん?」というツッコミ言及型の記事は多いので。ツッコむ割には、安全地帯からの問題提起、中立的な文体になりがちなため、“浮動層”っぽさは否めない。たまーに、愛のままにわがままに語ることもありますががががが。

 

 そして、そこには、何かの「属性」に属していたいという強迫観念があるのでは、と。

たくさん情報を取っていたい、周囲の人とコミュニケーションをたくさん取って承認され続けたいというのは、「パーテーション」で区切って細分化された空間から出たくないという願望の表れでもあります。

 

 この「パーテーション」、あるいは「属性」や「レッテル」といったものが、本書のキーワードのひとつであるように感じました。

 ニコニコ生放送では「www」と草を生やし、Twitterでは「なんだよあいつ」と毒を吐き、ブログでは「興味深い」と批評する。それぞれのサービスごとに定められた枠組みのコミュニケーションを行い、人格を使い分ける。そりゃあ、疲れまっせ。

 

 そんな「区分け」は、リアルでも当たり前。飲食店で他人と相席するような機会はなく、年齢ごとに“◯◯世代”とカテゴライズされ、果ては自らを「こういう人間です!」とプロフィールの型に押し込める。

 枠の中から出ようとせず、その定められた空間の中でもうまく立ち回るべく、何もかもを「メタ」な視点で語り、自身の主張や考えを積極的に発信することはない。

 

 常に他人の視線を気にして、「他人から見た、欠点のない自分」を、自ら演じているような。波風を立てないのは楽かもしれないけれど、見方を変えれば、非常に疲れる生き方でもあるように見えます。

 

「ツッコミ」から「ボケ」へ、「メタ」から「ベタ」へ

 そんな「ツッコミ志向」と、「メタ」な視点をひっくり返す考え方として、自分らしく「ボケ」ることと、あえて「ベタ」な行動に身を移すことを、筆者は勧めています。

 

 その一例として、「好き/嫌い」の表明。

 あらゆる物事に対して「良い/悪い」という評価をするのではなく、もっと「好き/嫌い」という感情を表現してみてはどうでしょうか。

 多くの人は、何かを「好き」あるいは「嫌い」と表明しているようで、あまりしていません。「嫌い」とは言わずに「ダメ」と言う。「良い/悪い」や「アリ/ナシ」もそう。最近では「これはひどい」なんていう便利な言い方もあります。

 

 自身の感情を積極的に表に出そうとせず、どこか第三者的に「評価」しているような人が多く見られるのでは、と。

 僕も好きなものは「好き」と書くようにしているつもりですが、否定的なものに関しては曖昧な表現に頼っている節は否めません。「これはひどい」もよく使う……というか、この記事の一番上でも使ってますしおすし。

 

 ただし、直球で「ベタ」な表現は、他者からすれば隙だらけ、ツッコミどころ満載でもあるとも、筆者は書いています。そりゃそうですよね。ネットで炎上している人を見ると、だいたいが自分の「気に入らない」感情をストレートに出しすぎたことによる帰結に見えますし。

 

 直接的な表現は燃えやすい。だから、どこかの誰かが「評価」しているような、曖昧な言い回しを選ぶ。ウェブ上で平和に過ごそうとするのであれば、それは正しい選択だと思います。

 けれど、ずっとそれではつまらない。疲れるだけじゃないか。自分から息苦しい環境に溶け込んでどうするんだ。失敗したっていいだろう。積極的に「ボケ」ていこう。筆者の主張はこのようなものだと、僕は読みました。

 

 その内容には共感できるし、納得できる。できるならそうでありたい、とも思うのですが、他方では、その「ツッコミ」の全てが悪いものだとも思えないんですよね。

 確かに、筆者の言う“浮動層”のツッコミには酷いものも多い。周囲で話題になっているからといって、無理に批判したり、知ったような顔で語ってみたり。「興味ないけど」という前書きから始めて、批判対象の意見は全スルーとか、ぶっちゃけ理解できません。

 

 ですが、たとえ曖昧な表現だとしても、その人の感情や主張が見て取れる「ツッコミ」は多くあります。特に、わざわざブログなんて長文メディアで書いている人の記事には、そのような内容が多い印象。ぼかした表現は、自衛策として認められるべきだと思います。

 

 とは言え、何事においても中庸であろうとすることに対する懸念もあります。筆者は「全勝優勝願望」と書いていますが、全てのリスクを回避しようと立ち回っていると、ひとつのミスで正常な判断が取れなくなる危険性があるのでは。

 

 そうならないためにも、一度、自身がどのような「ツッコミ」をしているかを見直してみても、いいのではないでしょうか。他者をむやみやたらに傷つけるような言動はないか。自分が詳しくない話題への無理な言及をしていないか。

 

 誰もが気軽に、あらゆる物事に対して「ツッコミ」を入れられる現代だからこそ、自分が何を思い、何を言おうとしているのかを把握すること、そして、それを見た他者がどう感じるかを考えることは、大切であると思います。

 

 僕らは、「ツッコミ」のプロでもなんでもないのだから。

 

 

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