「選ばない」を選んで、その日その日を暮らしている


 

 朝。いい感じの雨が降っていたので、出かけることを決めた。ならば朝食は多めにしようと、パンではなくご飯を食べた。何を着ていこうかとタンスを開けて、長袖のシャツを選んだ。黒い傘とビニール傘、どちらを持っていこうかと考え、前者を手に取った。

 いつもよりも早い時間帯の外出。混雑している急行列車ではなく、準急に乗った。移動中の暇つぶしには、学習アプリは開かずゲームアプリをタップした。途中、音楽でも聞こうと思い、テンションを上げるロックよりも穏やかなサウンドトラックを選曲した。軽くうつらうつらした。

 池袋、新宿、渋谷、上野、秋葉原──どこへ行こうかと一時停止し、秋葉原へと進路をとった。ひさしぶりの秋葉原。せっかくだからと立ち寄った総武線ホームのミルクスタンドで、飲むヨーグルトを買った。腰に手を当てて一気飲みした。うまい。駅近くの喫茶店に入り、いざお仕事だ。

 

 なんでもない1日。特別な出来事がない日常生活のなかでも、僕らはたくさんの「選択」を積み重ねて暮らしている。友人からは「優柔不断だ」「周りに流されやすい」と言われる僕でも、意外とこうして自分の行動を選んでいる。……当然といえば当然だけど、ちょっと驚き。

 その一方で、「選ぶ」という行為は割とダルい。日常の小さな選択──例えば飲食店でのメニュー決めですら、「どちらかを選ばなければいけない」という状況にストレスを感じる人はいるはず。「せっかくだから、俺はこの赤の扉を選ぶぜ!」なんて単純(?)な話ではないのだ。

 けれど、最後には何かを選ぶ。たとえ選ばずとも、「選ばない」という選択肢を「選んだ」という事実は残る。選ぼうが選ばまいが、その結果は何かしらの形で突きつけられる。……であるならば、いちいち悩んで考えこむのもアホらしいと思えてくるような……?

 

「なんとなく」で「選ぶ」のは簡単

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 ここ数年の自分についていえば、基本的には無思慮で無思考。ただただ「なるようになるべ」というゆるふわ精神(ダメ人間マインド、とも言う)で生きており、日常生活上の「選択肢」はいつも「なんとなく」で選んでいる。

 今朝はパンの気分。暇つぶしに本屋へ行く。時間があるから電車は使わず歩くことにしよう。いちいちあーだこーだと悩むのは時間の無駄だし、精神的にもよろしくない。変に悩みすぎるのは、ストレスのもと。

 それにあまり悩んでいると、友人からも「まーたこの優柔不断男は」と突っこまれかねない。最近は褒め言葉だと思うようにしているけれど。優柔不断男──優しく、柔らかく、断らない男──ほほう、かっこいいじゃないか。優柔・不断男と区切れば人名っぽくもあるし。何の話だ。

 

 その後の人生を左右する重大な「選択」なんて、普通に過ごしているぶんにはなかなか直面しない。荒野で野生動物に襲われ「戦うor逃げる」かの選択を迫られるとか、ゲームみたいに「右の道には罠があって死ぬ」とか、そんな理不尽はそうそうない。たぶん。きっと。

 日常生活は、小さな、でも膨大な「選択」の積み重ね。もちろん、小さな選択の集積が大きな結果をもたらすこともあるのだろうけれど、それを予想するのは難しい。

 “風が吹けば桶屋が儲かる” とか、 “蝶の羽ばたきが竜巻を引き起こす” とか。因果関係を考慮した「選択」によって、良い結果を得られることはあるかもしれない。しかし同様に、予測不能な事象に見舞われるとも限らず、「選択」=「望んだとおりの結果」になるとは言い切れない。

 千差万別の意思が介在する人間社会は複雑怪奇、諸説紛々にして繁文縟礼であるし、そもそも、この世は良くも悪くも運ゲーだ。それならば、日々の「選択」はゆるくあっていい。ダイスの出目によって結果が決められているわけでもなく、物事はなるようにしかならないのだ。

 

人生を左右する「選択」と、「ルール」に縛られて生きることの楽さ

 しかし一方で、ある意味では人生を左右しかねない、大きな「選択」もある。しかもそれは、ひとたび選べば継続的に取り組まざるをえない活動であり、途中で別の「選択」へ路線変更することはあまりない。──何かしらのきっかけでもないかぎりは。 

 その代表格が、広い意味での「仕事」の存在だ。一般的な会社員を基準に考えると、週5日の出勤は確定事項。「今日は本屋には寄らないでいいや」と同じ感覚で「仕事に行かない」という「選択」をすることは許されず、5日間のフル出勤は選ぶ余地のない「ルール」とも言える。

 もちろん、会社とそういう契約をしているのだから、当然っちゃ当然。体調不良や冠婚葬祭といった理由があれば「休む」選択肢も挙がってはくるものの、あくまでイレギュラー。「ルール」として規定された労働に、「選択」の余地はない。……え? 有給があるって? 知らない子ですね……。

 

 別にそれは悪いものではなく、意識を阻害する余計な「選択」がないぶん、むしろ効率的だと言える。「好きなときに出勤すればいいよ〜」という会社は楽かもしれないけれど、「休める」という選択肢が意識にあることで、ついつい休みすぎてしまうかもしれない。働きたくないでござる。

 僕自身、今はフリーランスの身ではあるけれど、「仕事」はやはり確定事項。冒頭にも書いたように、メシやら服やら行き先やらを「選択」しつつも、最終的には「いざお仕事」に落ち着く。明確なルールではないものの、「外に出たら働く」はいつの間にか習慣になっていた。

 なぜ「外に出たら」なのかといえば……まあ単純な話、家だと集中できないんですよね。マンガやゲームなどの誘惑、つまりは「余計な選択肢」があるために、活動の邪魔になっている格好。だから、条件付きの「ルール」にしているのです。──そういえば、先日読んだ本にも書いてあった。

 

 だから僕は、「こういうときは、こうしておこう」というルールを先に決めます。それで実際に、「これ、違うな」と思ったら、その都度見直してルールを変えます。
 なんとなく生きていると、いろいろ迷ってストレスが溜まりますし、衝動的・感覚的に判断をしてしまって絶対に損します。
 だから、自分でルールを決めて、それにちゃんと従うという生き方は、これから話を進めるにあたって大前提になります。

 

 「選択」という行為は、思いのほかストレスを伴うもの。「なんとなく」で生きている自分でもそう感じるのだから、あれやこれやと悩んでいたら、モヤモヤが募るばかりで大変だ。それならば、先に基準となる「ルール」を決めておくことで、それに従ったほうが楽ちんちん。

 ただしそれゆえに、前提となる「ルール」をどうするかは重要になってくる。つまり、「どういったルールを採用するか」を「選択」する行為。仕事であれば、「どのような企業に入社するか」の判断。入社したら、その会社の「ルール」に従って生きていくことになるのだから。

 ほかに選ぶ余地のない「ルール」を無期限で設けるという意味で、「仕事」はその後の自分の生活を左右する、大きな「選択」だと言える。日常の細々とした行為は「なんとなく」で選んでも、「ルール」を決める際の「選択」については慎重に考えたいところだ。

 

「選びっぱなし」を避けるための見直しと、「選ばない」の先にある「選択」

 ──とまあ、ここまでの内容をざっくりとまとめると、

  • 僕らの日常って、小さな「選択」の上で成り立っているよね!
  • でも毎回いつも「選ぶ」のに悩んでいたら、ストレスになるよね!
  • だから「ルール」を作ってしまえば楽になるよね!
  • その後の生活の基準=「ルール」となる、仕事選びは慎重にしたいよね!

 という、割と「何を今更」なサムシングを並び立てているわけですが。就職活動の重要性なんてわざわざ取り上げるまでもなくあっちゃこっちゃで書かれているし、自分のように「なんとなく」でなく、いろいろと基準を設けて常日頃から「選択」している人だって珍しくないでしょうし。

 ただ、他方でふと思ったのが、ひとたび選んだ何かしらの物事について「選びっぱなし」でいることで苦しくなってくる場合もあるのかな、ということ。言うまでもなく仕事がそうだろうし、「ルール」で縛られたコミュニティや人間関係にも当てはまりそう。

 

 その都度都度で「選択」するのは面倒だけれど、ずっと同じ「ルール」に縛られっぱなしというのも、それはそれで徐々にダルくなってくる。運良く自分に適した「ルール」と出会えればいいけれど、それもずっと続くかはわからない。自身だって、徐々に変化しているのだから。

 自分の場合、「会社」という大きな「ルール」に違和感を覚えたのが、23歳の誕生日を迎えようかという時期だった。新しい環境に馴染もうと、自身を「会社」の「ルール」に最適化させようとしていた、入社1年目の年末。病気で寝こんだことで、別の選択肢を考える余地ができてしまった。

 当時の自分はそんなにすぐ辞めるつもりもなかったのだけれど、一度でも意識してしまうと、「選択肢」の存在は無視できない。良くも悪くも「別の可能性」というものは魅力的に感じられるもので、それとは逆に、会社の「ルール」に対する疑念や違和感は大きくなるばかりだった。

 結局、肉体的に限界を感じつつあったことも手伝って、入社1年半というタイミングで退職。学生時代、ストレートで進学してきた自分にとってこの「選択」は、「何かを途中でやめる」という意味で初体験かつ象徴的な出来事になったように思う。最高にスッッッキリした。

 しかし同時に、その後の自分は、すっかり「選択」を避けるようになってしまった。転職活動は思うようにいかず、どの企業もブラック企業に見えてしまい、選ぶことができない。自分が選ばれる側という意識も抜け落ちて、「選ばない」ことが楽に感じられるようになっていた。

 

 端的にいって、ダメ人間以外の何者でもなかった自分。そうして「選ばない」ことをあーだこーだと、まさにこの記事のようにブログに書き綴っていたところ、なぜだか見知らぬ人に読んでもらえるようになり、共感までしてもらい……気づけば、仕事をもらえるようになっていた。

 すべては結果論に過ぎないとは思う。けれど、選ばない──もとい「選べない」ことについて、自分なりにモヤモヤする部分や感じたことを書き連ねた結果、今がある。

 そう考えると、何でもかんでも無理にはっきりと明文化させる必要もなく、あえて「選択」の狭間で悩み続けるのも一種の「選択」であり、それがいつの間にか自分にとっての「ルール」になっていたようにも思える。……ただの言葉遊びではあるけれど、まあそんな感じ。

 

 

 基本的には無思慮で無思考、己の意思でもって「選択」したことはほとんどなく、なし崩し的に「なんとなく」で生きている自分ではあるけれど。

 強いていえば、自分でもよくわかっていない自身の思考を「文字」という形で言語化し、こうしてどこかに書き連ねる行為それ自体が、いつだったかに「選択」したものだったのかもしれない。小中学生時代に大好きだった作文と、読書感想文。その小さな積み重ねが、今の曖昧模糊とした自分を形作っている、そんな気がする。

 

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