【成人の日】大人になって知るのは「無力感」と「変わらない」こと


「成人の日」ということで、新成人の皆様、おめでとうございます。


──ようこそ、ろくでもない大人の世界へ。

 

貴方がたを待っているのは、これから数十年間の長きにわたって変わらないルーチンワークと社会的責任、そして納税地獄です。「大人」という肩書きの重みを知り、絶望し、世の中は楽ではないことをその身をもって知るがよい。ふーははは!

 

「おとな」って、なんですか?

──なーんて、偉そうなことが言えるわけもなく。

僕自身、成人を迎えてからもう何年も経過しているはずなのに、まったくもって自分が「おとな」だという実感がありませぬ。うふふ。

過去にも「 “おとな” ってなんぞ?」という話を書いたけれど、結局のところは社会的なカテゴライズの一種でしかないのだと思う今日このごろ。「◯◯県民」とか「会社員」とか。

もちろん、社会的な定義としての「おとな」──20歳になることで生じる義務や、飲酒・喫煙の権利──以外にも、各々が考える「おとな」の定義もあると思う。

けれど、それらは「ぼくのかんがえる “おとな” 像」でしかなく、誰もが認める普遍的な「おとな」というのは幻想でしかないのではないかしら。

「社会人」ってなんやねん! 「草食系男子」って何者や! ……などなど、なんとなく感覚的に知っていて使っている言葉だけど、明確な定義は不明のマジックワード。

「おとな」って、なんだろうね。

 

何者にでもなれるけど、何者にもなれない「おとな」

「おとな」になってからの数年間は、子供時代とは違った万能感や楽しさを味わうと同時に、自分ができないことを周囲から自覚させられ「無力感」に苛まれる機会も増えてくる。

多くの人は就職活動を経て企業に就職し、「社会人」という新たな肩書きを得ることになる。それまでのアルバイトでは目にする機会の少なかった金額を “自分の力” によって稼げるようになり、「正社員」という肩書きをもって周囲からも評価されやすくなる。

けれど、そんな全能感も慣れてくれば薄まってくるもので。逆に、自分が「できないこと」をはっきりとした形で明示されるようになり、無力感を覚えることも少なくない。

採用面接で語った「夢」の実現確率を知って、良くも悪くも「現実」を理解する。劇的な変化など望めるはずもなく、過去の経験や行動がそのまま地続きに襲いかかってくる。全く何も変わらない、ということはないけれど、急に何かが劇的に変わることはない。

 

なろうと思えば、何にでもなれる。基本的に制約はない。

 

しかし、そこには能力や経験、さらにはタイミングや運といった要素も必要となってくる。誰もが自分の「夢」を叶えられるはずもなく、その「夢」すら漠然としたものであることも少なくない。

自分の力と想いのままに、何者にでもなれる、おとな。
でもその裏には、きっと何者にもなれない「おとな」も併存している。

 

地続きの荒野を歩き続ける「自分」を自覚する

僕自身はまだ、自分のことを自立した「おとな」だとはこれっぽっちも考えていない。社会に出て自分の無力さを実感し、人として劣っているところを自覚し、自他問わず汚い部分も見えるようになってきた。

目に見える景色が変わった。それまでモラトリアムの中で生かされてきたこの身を自覚した。そういった視点の変化という意味では、「おとな」になったのかもしれない。

けれど、それは小さな頃に憧れた「おとな」とは程遠いし、今の自分が過去の自分と比べて変わったとも思えない。目に見えないだけで変わっているのかもしれないし、厨二病を発症していた当時のまま何も成長していないのかもしれない。

それでも、自分の立ち位置をそれとなくでも自覚することができたのなら、それは前進なんだろうと思う。いや、前に進んでいるつもりで後ろに下がっているだけなのかもしれないけれど。

そうやって見える世界が徐々に広がって、ある程度の段階に達したところで周囲の人間から評価、自分自身も「おとな」だと認められるようになるのだと思う。早い人は早いし、遅い人は遅い。 “20歳になったから” と言って、誰もがそうなるわけじゃない。

人によって経験も成熟度も違うのだから、無理に焦る必要もない。もちろん、日本社会で暮らしている以上は、社会的な立ち居振る舞いとして求められる責務はこなす必要はあるけれど。ただ、自分がそういう年齢であること、どのような場所にいるかということなどは把握しておいた方が良い。

 

変わるものと、変わらないもの。

 

それらを自分でしっかりと見極めて、変化を受け入れられるようになったとき、その瞬間の「自分」を認めてあげればいいんじゃないかな。慌てず騒がず、自分のペースで。

 

今週のお題「おとな」

 

関連記事