見知らぬ土地の、近くて遠い日常の、遠くて近い非日常


f:id:ornith:20150528195823j:plain
松山城@愛媛

  大学時代に読んだ小説、森絵都著『ラン』のなかで、「むっつり熱血派」という表現を目にして妙に腑に落ちたような記憶がある。なるほど、僕は「むっつり」だったのか、と。

 ちょうどその頃、親しい友人に「お前って『なんちゃって熱血漢』だよな」と言われて、「……うーむ?」とモヤモヤしていたところに、ストン、と。すんなり自然に入ってきた感じ。

 

 「熱血」かどうかは別にして、特定の物事・対象について周囲の目もはばからず、「\( 'ω')/ウオオオオオアアアーーーーッ!!!」とアツくなれる人は端から見ていても楽しそうだし、すごいなーと思う。

 特に日常的にネットなんか使っていると、どこか斜に構えた人は多いし、逆に「おれ! アツい人間だから!!」なんて自称している人はなんか胡散臭いし。

 「アツくなる」ことは、夢中になること。文字通り “夢” の “中” にあるがのごとく振る舞っていれば、周囲は目に入らないんじゃなかろうか。「あ、俺、いま夢見てるわー」と自覚することはあっても、それを周囲に知らしめる術などあるはずもなし。

 

 でも、どんなに斜に構えている人間でも、自分も含めて「はいはいワロスワロス」と冷めた目線で眺めている(つもりになっている)だけの人間でも、何かしら、「\( 'ω')/ウオオオオオアアアーーーーッ!!!」とアツくなれる瞬間はあるんじゃないかと思う。そんな、自分の話。

 

 気付いたのは5年前、2010年の2月20日金曜日。大学2年生の春休み。──どうしてそんなに細かく覚えているかと言えば、しっかりと当時の自分が記録していたことによる。mixi日記と、サークルの機関誌に。ブログにも「黒歴史」として掲載済み。

 

 某県某町── “桜の花の落ちるスピード” でおなじみの映画*1の聖地──を訪れたときに、目に入った参道へふらっと足を向け、石段に導かれるまま、そのままぐんぐんと山を登っていったのがきっかけ。標高200メートルもない山だったけれど、今となって考えてみると、よくもまあ見知らぬ土地にそびえ立つ山を、周囲に人影も見当たらない道を、ズンタカポーンと歩き登っていく気になったもんだなー、と。

 

f:id:ornith:20150209221225j:plain

 駅から歩いてすぐに、山に入る参道を発見。そこを進むと、石段に辿り着いた。神社などにある整備された平らなものではなく、昔から変わらずにあるような、ボコボコした石段だ。──かなり長い。木々に隠されていてよく見えないが、かなりの段数がありそうだ。普段の自分なら登る気を無くしかねないが、この時はむしろ、わくわくしてならなかった。幼い頃に遊んでいた裏山とは訳が違うが、何か冒険心をくすぐられるような感じ。山を見上げながらにやにやしている自分は、さぞ怪しく見えたことだろう。ふっ、ふふふ、うふふふふ。

 

 当時の写真(山道への入口)と、文章。我ながら何かに取り憑かれていたとしか読めない文だけど、今もその辺の神社で急勾配な石段を見るとニヤけるのを止められないので、きっと僕はそういう人間なのだろう。キモい。

 かと言って「登山」が好きかと言えば、そんなこともなく。そもそも、予め装備を整えて、ある程度以上の標高を誇る「山」を登った記憶もない。旅先で見つけたハイキングコースの入り口にそのまま突入し、結果的に山頂まで登り切ってしまった経験はたびたびあるけれど。

 

f:id:ornith:20150528195824j:plain
神山町@徳島

 

 考えるに、自分にとって「旅」の中で最もお手軽かつハッキリと「非日常」を感じるための手段が、 “旅先の山を登る” ことなんだろうと思う。

 もちろん、住み慣れた街から遠く離れた土地にいるだけで、既にそれは「非日常」でもある。けれど、それが日本国内である以上は、どこか見たことのあるような、 “知らないけれど、知っている” 景色にも映ってしまう。駅前のアーケード。どこにでもあるコンビニ。長く伸びる国道。寒村へと向かう山道。訪れたことはないけれど、よく知る風景。

 

f:id:ornith:20150528195821j:plain
寸又峡@静岡

 

 そんな「日常っぽい非日常」の中にあって、最も簡単に「非日常」を感じる手段が、山登り。「山なんて、それこそどこへ行っても同じじゃないか」と考えられなくもないけれど、そうでもない。 “作られた街並み” と、 “自然とそうなった山” では、空気がどこか違う……って、めっちゃ感覚的な話でんがな。

 どちらかと言えば、「予測可能or予測不可能」の差によるものかもしれない。名の知れた観光地、人気のスポット、ググって引っかかったお店に最短距離で向かうんじゃなくて、せっかく遠くまで来たんだから、行き当たりばったりにふらふらした方が楽しいし、間違いなく記憶に残る。「なんか山(石段)があるから登ってみよう」みたいなノリ。よく言うじゃん。 “Because it's there” *2って。

 

f:id:ornith:20150528195826j:plain
金刀比羅宮@香川

 

 あるいは、旅先での「出会い」を求めて。出会い厨ひゃっほい。──とは言っても、相手は人間じゃなくて、神様ですが。

 経験上、高いところにはだいたい「社」がある。有名な寺社仏閣は言うに及ばず。そこに住むのが何者であるかはさまざまだろうけれど、多くの場合は土地神様なのではないかしら。どこのどいつとも知れぬよそ者が下界でふらふらしているのもアレですし、まずはご挨拶に伺うのも悪くはないんじゃないかと。ドーモ。トチ=ガミサン。ケイローです。

 

f:id:ornith:20150528195822j:plain
伏見稲荷大社@京都

 

 とは言っても、特定の信仰を持っているわけでもなく。でも、「日常」にあっては全く意識しようともしない、できない存在を、折に触れて意識してみようという試みは、決して悪いものでもないんじゃないかと思う。

 それは別に霊的な存在に限ったものではなく、広い意味での「非日常」。遠き地にあって自身の内面と向かい合うも良し。たまたま出会った人と交流するも良し。生い茂る緑や流れる川といった自然に癒されるも良し。そういった「非日常」と出会わせてくれる、出会いやすくなる環境が、なんとなーく高いところにあるんじゃないかと思う。

 

f:id:ornith:20150528200408j:plain
雨乞の滝@徳島

 

 随分とまとまりのない文章になりましたが、そんなこんなで今日もまた、僕は旅先で山を登るのです。単なる “石段フェチ” である可能性も否定はできないけれど、石段がなくたって登るもんね! 石段の有る無しで、わくわく度は微妙に上下するけれど。

 そう、ゆえに尾道は、僕にとっての聖地なのです。何度行っても飽きない。街の大半が斜面にあって、しかも入り組んだ細い道と階段がそこら中にあるとか最高か。新宿駅発の夜行バスに飛び乗れば、早朝の駅前で降りてそのまま登れるのも素晴らしい。もちろん、静かにね。

 

f:id:ornith:20150528222030j:plain
尾道@広島

 

 

関連記事