photo by Hammonton Photography
目の前には、見覚えのない景色が広がっている。
私はぷかあと水面を漂っている。海か湖かは分からない。そのどちらでもないのかもしれない。少なくとも視界に陸地のようなものは映っていない。水に色彩はない。無職半透明。不純物は一欠片たりとも浮かんでいない。冷たくも暖かくもない。まるで抵抗がないかのよう。肌触りもほとんど感じない。ぬめりともばしゃりともいわない。ただモノを「浮かべる」ためだけにそこにあるような。“水っぽいなにか”の上を漂う私。
見渡せば、私だけではない。老若男女、たくさんの人が真顔で漂っている。ぷかぷか、ゆらゆらと。誰も動かない。全身に全く力を入れている様子が見受けられず、各々がただ「浮かばされている」だけ。上空高くから見下ろせば、無数の漂流物が漂っているようにしか見えないだろう。
いや、動きはある。目だ。身体は完全にだらりと弛緩しきっているのに、虚ろな目だけがぎょろぎょろと動き回っていて気味が悪い。何を見ているのか、何も見ていないのか。その瞳は惰性だけで動いているように見える。時折、何かを考えるようにふと動きを止める。僅かにふらふらと上下左右に揺れる瞳の奥に、かろうじて知性を感じさせられる。が、やはり焦点は定まっていない。
ふと、音が聞こえてきた。音の発生源は、漂う彼ら彼女らの小さく開いた口から。ざわり、ざわりと周囲へ伝染する音の連鎖。どれも意味のある言葉・単語のようだが、何十、何百、何千もの声が広がり、重なり、聴き取ることはできない。拾った言葉も途端にこぼれ落ち、眼下に広がる液体へと溶けていく。耳元に残るのは、取り留めのない無為な雑音、ノイズだけ。
ざわり。ざわざわ。ざわ。ざざ。ざざざざざ。
ノイズと虚無の海に溺れ、気が狂いそうになる中。唐突に熱を感じた。暖かい。いや、熱い。水を伝わり、どこからか熱が送られてくる。火傷するほどではない。見過ごすこともできる。が、緩慢な動きで周囲に目を向け、熱源を探す。
人が燃えている。
文字通り、その身に炎を纏い、燃え上がっている。見開かれた目には、明確な強い感情が宿っている。憎悪。あるいは歓喜。身体を熱く焦がされながら情動をむき出しにし、大声で罵詈雑言を叫ぶ。声にならない声が響き渡り、空間に意志と動きがもたらされる。それまで目にした気怠げな人間とは一線を画するその様相に、はっきりと安心している自分がいた。“狂乱”としか表現できない彼と立ち昇る炎を見つめながら、自分もまた、笑っていた。
視線を巡らせれば、他の人も同様だった。腹を抱えて大笑いする人。罵声や野次を浴びせる人。冷笑と共に静観する人。ノイズと虚無が満ち満ちた空間の中に初めて、意味のある“感情”の嵐が吹き荒れていた。その収束点には、狂い叫びながら、燃え上がる人の姿。彼を中心として生まれ広がっていった感情の全てはまた、彼へと還っていった。
炎はますます燃え盛り、空をも焦がし、高く高く燃え上がる。感情の発露は広がり続け、熱狂の輪は外へ外へと拡大する。その輪が広まれば広まるほど、中心の熱は温度を増すようだった。
しかし、それがいつまでも続くわけもなく。気付けば、熱は去っていた。
瞬間。静寂に包まれる。ノイズが戻ってくる。狂乱の渦中にあった人々は、怠惰へと還っていた。
数瞬前の熱源には何もあらず、虚無の液体が静かに波打つのみ。遠くから、慟哭のようなくぐもった音が聞こえる。遥か彼方で漂う人間が発する音か、水を伝わる熱の残響か。いずれにせよ、どうでもいい。耳障りで、耳に入れるに値しない。無意味なもの。そんなものに意識を向ける必要などなく、自ら耳を向ける理由も意義も見当たらない。大切なのは、この場に響き渡るノイズのみ。ずっとこの身を任せていたい。“何の意味もない音”ではなく、“意味のある雑音”に。
見上げれば、頭上には白赤黒の星が瞬く空。
膨大な雑音で満たされたこの空間に、ザザッ、と。ノイズが走ったように見えた。