ラクガキ バラマキ オシナガキ


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 「貴方は自由だ。如何ようにでも言葉を紡ぎ給え」と彼は言う。目の前には空白の四角形。手元には一振りのペン。私はそれを以てあらゆる主張を声高に叫ぶこともできるし、他者に向かって振り下ろし武器として事を為すこともできる。“ペンは剣よりも強し”とは言うが、実際のところは使い方次第でしかない。さて、私はどれほどの力量を以ってペンを使うことができるのだろう。

 だが考えるまでもなく、名も無き一個人が大声で何かを主張したところで、聞く耳を持つ人なぞいるはずもない。9割方、雑踏のノイズとして聞き流されて終わりだろう。もしくは、どうでもいい野次馬に囃し立てられるだけ。そんなのはごめんだ。無意味な言説に無意味を積み重ねるなぞ、全く何の価値もない。そう、力無き個人の発言なんて、自身がどれだけ含蓄深く意義ある主張を発信していると考えていようが、他者から吟味されないことには意味を成さないのだ。雑音として右から左。悪文として上から下。認識されなければ、何も始まらない。

 そこで私は、ただ淡々と「私」を書き記すことにした。本日は晴天なり。日当り良好。往く道にて出会いあり。しばし歓談して過ごす。自身を記録するべくペンを持ち、「日記」として真っ白な四角形を塗り潰す。野次馬氏が出張に訪れる気も失せるくらいに個人的な事柄を綴り上げ、「私」のために「私」を記す。その内容は便所の落書きに劣るとも勝らない貧相具合ではあるが、それも積み重なれば意味を持つ。曖昧模糊な人の記憶に頼らずとも、過去の一瞬を断片的に蘇らせる自分専用の再生機。それに意義を見出すのは、私だけで良い。

 しかし、一見すれば作業の如く単調な行為を繰り返していると、新たな試みを持とうとも考えるもの。声だけは大きい政治屋のように街頭で己を発露する気は毛頭ないが、日々自身が思い、感じ、考えている諸々を他者と共有できるのなら、これ以上に嬉しいことはない。幼い頃、別の四角形――立方体の小さな空間にて小さな紙片をやり取りしたような、恥ずかしくも楽しい、遠い日の思い出。他者との交流は一対一に始まり、徐々に広がっていく形が望ましい。

 聞けばとある路地裏の壁面を使って、各々が自由に多種多様な「記録」を連ねている場所があるらしい。皆が一様にペンを持ちつつも、個人の裁量に委ねられた表現で以て四角形を塗り潰す。絵を用いるも良し、二言三言の短文を残すも良し、長々と己を表現するも良し、特定他者を批判するも良し。共通した空間と、共有された規範さえ守れれば、誰もが中立に参加することが可能。そこでは各々が独立しているようで、不思議と近しい価値観を共有しているように見えた。

 そこには「自由」があった。己が思考を顕示の欲が尽きるまで垂れ流し書き綴る。際立つ自己主張はせぬが他者の思考へ我先にと切り込み持論を投げる。心地良い交流を求めてどこか奥ゆかしい文面を提示し交換する。ただただ定期的に訪れ俯瞰し何もせずに去ってゆく。そこでは何をしても良いし、何をしなくても良い。

 そこには「確執」があった。自由ゆえに水面下に漂う暗黙の了解がある。我々はかくあるべしと独自のルールを押し付ける。別個のコミュニティを排斥し斬り伏せ自分たちが優れていると盲目的に信奉する。そこでは圧倒的な個性を主張しても良いし、集団に溶け込みそのアイデンティティと同化しても良い。

 開かれた場所へと趣き「私」を公開しただけで、かくも世界は変わるのかと驚いた。他者の存在が可視化され、多種多彩な価値観を持つ十人十色の思想が弓矢の如く飛来する。それは時として自身の芯を貫き鈍痛をもたらすが、時として自身の思想と交わり合い別種の芯を生み出しうるカンフル剤とも成り得るものだ。

 「私」という存在を肯定あるいは否定する他者の存在は刺激的であり、既に自らの内に巣食う思想を根本的に書き換える可能性をはらんだ劇薬でもある。サプリメントのように簡易的な栄養の補填となれば良いが、過度な摂取は毒にもなる。他者の思想を吸収し、寄り添い、「世間」という名の不特定多数に媚び諂おうとすれば、自己の価値観は限りなく希薄になり、忘我混沌の淵に沈むことになるだろう。

 己が思想を切り取り可視化するペンと、それを外部へ公開し他者と共有する壁面の四角形。それらが教え、もたらしてくれる価値や刺激は並々ならぬものではあるが、実のところは道具でしかない。使用し書き連ねるも自分あっての物種であり、方方に書き殴られた思想も誰かのものだ。そこには紛れも無く「人」の存在があるが、特定個人のその思想をすべて可視化することはできない。

 目に見えるものは価値あるもの、聴衆の注視を集めるものは素晴らしきもの。ひとつの真理ではあるが、本当に大切なものは得てして語られないものでもある。何を描き、何を描かないか。この手にあるペンを使うということは、そういった「選択」を常に検討し積み重ねていくことでもある。ペンを持つ者の力量とは、そこに集約されるのではないだろうか。

 

 その答えを知るはずの彼は、もうここには居ない。

 

 

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