「美術は高尚なもの」というイメージがついたのは、いつのことだったろう。
子供のころは、絵を描くのが大好きだった。 “じゆうちょう” に向かって、握ったえんぴつを思うままに動かした。謎の生物を生み出し、棒人間をむちゃくちゃに動かせて、アホみたいなギャグ漫画を描いていた。
それを読んだ妹が爆笑してくれるのが嬉しくて、小学校高学年くらいまでは、自分の好きなように絵を描くのが習慣だった。中学に入学し、なんかよくわからない美術の授業に飽き飽きして、それもやめてしまったけれど。あのころのワクワク感は、今もなんとなく覚えている。
今の僕は、絵なんて全く描けないし、美術に関する知識もからっきし。技法やジャンルはもちろんのこと、有名画家とその作品すら結びつけられない。現在の自分が見る絵は、「なんかよくわからんすげえもの」でしかない。
けれど他方では、昔から今に至るまでずっと、美術館に行くのは好きだ。ちょっと気になった美術展を1人で見に行って、解説を読みつつ、その雰囲気をぶらぶらと楽しむ格好。何を知るでも得るでもなく、ただその空間を好むという、ちょっと変な観覧者かもしれない。
そんな、「なんかよくわからんすげえもの」に触れるのは好きだけど、全く何も理解していないスカタンな僕だけど。少し興味がわいたので、前々から気になっていた本、『西洋美術史入門』を読みました。
「美術史」ってなんぞ?
本書『西洋美術史入門』は、「美術史の最初の導入書」となることを目的として、東京造形大学教授の著者が書いた入門書となる。
なんでも、さまざまな学科の諸年次学生を対象とした、大学の講義を下地に書かれた1冊であるらしい。「え? びじゅつ? ぴかそ? ごっほ?」なんて、僕のように何も理解していないアンポンタンにもわかるよう一から簡潔に、幅広く説明した内容となっております。
曰く、「美術史」の最終目標とは、美術作品を介して「人間を知る」ことだという。
なぜそのような作品が、その時代にその地域で描かれたのか。
なぜそのような様式が、その時代にその地域で流行したのか。
今と比べると識字率が圧倒的に低く、「重要な言語の一種」ですらあった美術作品を調べることによって、当時の文化や思想、人々の生活や経済、時代背景など、文字どおりの「歴史」を知ることができる。
僕らがかつて学んだ歴史教科が、人名や出来事、単語、年代を覚えるだけでなく、本質的にはその「流れ」を理解するべきものだったように。単に「いつ、どこで、誰が」創った作品なのかを覚えるのが「美術史」ではない。
作品に関わるあらゆる要素を抜き出し、調査検討し、 “読み取る” 作業。それこそが「美術史」の範疇である、と。……学んだはずの歴史の知識が断片的にしか残っていない身としては、ちょっと耳が痛いっすね。
美術作品が持つ「機能」と「背景」
本書では、「美術史」の特性と効用を説明するために、数多くの作品が参照されている。僕のようなトーシロでも知っている作品のほか、まったく観たこともない作品も当然あるけれど、それぞれについて絵の “読み方” が解説されているので、とてもおもしろく読むことができた。
一例として、対抗宗教改革における「美術」の変化について書かれた部分。
カトリック教会は、偶像崇拝を禁止したプロテスタント側に対抗して、絵画がもつ力を最大限に利用しようとします。(中略)カトリック圏では、聖人などの聖像の描き方の統一をはかり、より“正統的”で、より“わかりやすく”、そして“感情移入しやすい”ものであることを旨としました。
ここで挙げられている作品が、カラヴァッジョ*1の〈ロレートの聖母〉*2だ。
この作品を観る農民は、まるで自分たちの仲間の一人のような農民の姿に自分を投影し、あたかも自分の目の前に聖母が現れたかのように感動したに違いありません。この“感情移入の力”こそ、画家カラヴァッジョの偉大なる革新だったのです。
そもそも、美術作品に関して「これは◯◯という手法で描かれている」とか、「色合いやら構図やらにこういう特徴がある」とか言われても、門外漢からすれば「ふ、ふーん……?」くらいのもので、ぶっちゃけよくわからんのですよ。
しかし、例えばここで挙げられているような「機能」や「背景」といったものを聞けば、「なるほど!」と思わされる人も多いのではないかと。宗教云々は世界史の範疇だし、「こういう意味がある!」と言われれば、過去の作品との違いを比較して納得することもできる。
それになにより、ここで言う “感情移入の力” というのは、僕らも普段から親しんでいるものだ。小説で、漫画で、映画で、人が感動し、時には涙させられたり、夢中になったりするのは、そこに自身の感情を没入させているからにほかならない。
自分の知らない知識、分からない言葉で解説されても、興味を抱かないかぎりは「お、おう……」と頷いて終わりだけれど、このような説明ならば、僕らにもよくわかる。絵画も等しく「コンテンツ」なのだと、論理的に理解することができる。
本書では、このような解説が時代・歴史・社会的背景も含めてわかりやすく記されているので、専門的な知識がなくてもすいすい読み進めることができる。
取り扱う題材が「西洋美術」ということもあり、高校で習った「世界史」の範疇が大半を占めるため、ある種の復習にもなるかも。というかむしろ、「どうして世界史の授業で文化史は分けて教えてたんですかー!」と、当時の先生に突っ込みたくなるくらいには勉強になる。
……多分、時間割の関係上、そうせざるを得なかったんでしょう、うん。
ただ観るだけじゃもったいない
本書の最後で、著者はこのように書いている。
美術は確かに伝達記号としての役目こそ終えましたが、作品を前に、なぜその作品が描かれたのか、描かれた当時はどのような社会だったか、なぜ人々はその作品を美しいと思ったのか――考え、味わうことで、その作品を観る人の想像力を伸ばしたり、楽しみ方を増やしたりするような、あらたな――そしてかなり重要な――機能を与えられたのだと考えることはできないでしょうか。
この「作品の機能」については、僕は美術作品に限らないんじゃないかと思う。
インターネットの発達によって、家にいながらにして、あらゆるデジタルコンテンツに触れられるようになった現代。小説や漫画、映画などはもちろん、過去の芸術作品もそうだ。美術館に行かずとも、その全体像や概要に関しては、調べて簡単に知ることができてしまう。
それらに限らず、個人制作による動画や音楽、イラストなど、今は多種多様な作品であふれかえっており、「コンテンツ過多」とも言える時代だ。日々、新しい作品が大量にアップロードされ、ただ消費されていく。流れ流され、気付けば忘れてしまった作品は数知れないんじゃないだろうか。
常に新しい “新鮮さ” を得られるのは刺激が多く、魅力的なものだ。けれど、たまには自分の特に大好きな作品についてだけでも、その背景や作者の思惑を考え、知り、味わう機会を持ってもいいんじゃないかしら。
その辺の作品ひとつをとっても、そこには作者の思いがあり、それに触れた人たち、それぞれが抱いた「感情」や「意味」がある。ずっと同じものに触れていては飽きてしまうけれど、ある作品について、その「意味」を考えようとする行為は決して無意味ではなく、意義のあるものだと思う。