僕は「これだから、最近の若者は~~」という批判が好きではない。それが自分を対象にしたものではないとしても、聞いていて気持ちの良いものではないし、どうしても、それが安易で意味のない主張に聞こえてしまうからだ。
具体的な調査や研究に基づいて、「このようなデータがあるため、ゆとり教育にはこんな弊害がある」などと、論理的な言説が展開されているのなら分かる。けれど、素人目に見ても、テレビや雑誌の示す「◯◯世代」批判は、とにかくセンセーショナルな見出しと主張が重視され、全く妥当性を有していないように思える。
僕自身、子供の頃から「ゆとり」と呼ばれ、時にはテレビや新聞でバカにされながら育ってきた世代だ。そのため、僕にとって「世代論」といえば、特定の層の人間を分かりやすい範疇で適当にカテゴライズし、「それっぽい」批判や賛美をするだけの胡散臭い言説、という印象しかなかった。
そんななか、前々からTwitterでツイートを読ませていただいていた後藤和智さんの著書、『「あいつらは自分たちとは違う」という病』がたまたま目に入り、関心を持ったので、読んでみることに。本記事は、それを読んでの感想になります。
目次
- 好き勝手に論じられる「子供」「若者」
- 「あいつらは自分たちとは違う」
- 世代の鎖
- 消費社会とメディアの鎖
- ポストモダンと劣化言説の鎖
- アイデンティティの鎖
- 「新しい世代」と呼ばれたいですか?
- 若者論に「社会」を取り戻す
本書は、評論家である後藤和智*1(@kazugoto)さんが「若者論」について広く論じた内容となっている。まえがきでも本書の構成について述べられているが、ざっくりまとめると次のような感じ。
第1、2章は、若者論の「現在」についての解説。現代の代表的な若者論を取り上げ、若年層がどのように捉えられているか。そして、その若者論がどような幻想に基づいているかを説明した内容。
第3~6章は、若者論の幻想について、年代とキーワードに分けてその原因を探った内容。戦後、1950年代の「太陽族」に始まり、60年代~00年代まで、「学生運動」「日本人論」「ニューアカ」「サブカルチャー」「日本型ポストモダン」「ロスジェネ」といったものをキーワードに、それぞれの年代の若者論について解説している。
第7、8章は、「若者論の失われた40年」の「総括」となっている。多くの世代にとって「自己啓発」となってしまった若者論が「社会」を失い、それを取り戻すために必要な考え方について述べている。
私は、社会学や歴史学について専門的な教育を受けたわけではない、一介の若者論オタクに過ぎません。しかし、若年層をめぐる議論の多くが、自らの専門分野に引きこもって自家中毒を起こしている今、外部の若者論オタクとして、互いに干渉し合わないで生存し続けている若者論の奇妙な世界の「歴史」を作っていく必要があるのだと思います。
(まえがき より)
「若者論」の歴史
近現代史や現代思想、社会運動などにさほど興味のなかった僕にとって、本書の内容は非常に学びの多いものだった。特に、第3~6章。60年代以降の若者論を追いかけつつ、当時の若者と関係の深い出来事が、簡潔ながら分かりやすく説明されていて、彼らが何を考え、社会に要請し、行動に移すこととなったのか、把握することができた。
しかしその一方で、読んでいて「苦しい」と感じたのもその辺り。内容そのものはそこまで難しいわけではなく、僕のような門外漢でも安易に理解のできるものだった。が、その中で現れる「上の世代」や「メディア」の自分勝手さ、若者に全てを押し付けようとする行為に、憤りを感じてしまった。
僕自身の本の読み方として、「まずはその内容に疑問を持たず、主張を受け入れつつ読む」ようにしているのだが、どうやら無駄に共感して読んでしまっていたらしい。再読するとそうでもないけれど。いつの世も大人世代からバッシングを受け、自分たちのアイデンティティに悩む若年層を見て、心苦しさを感じずにはいられなかったようだ。
このように書くと、本書が若者視点の切り口で書かれているように思われるかもしないが、決してそんなことはないと思う。むしろ、特にこの第3~6章に関しては、まるで「歴史」の授業を受けているかのような文体で、淡々と語られている印象を受けた。
自己啓発と、外部から規定されるアイデンティティ
そんな「歴史」的な話に関しては、経験も知識もない僕には、想像以外で語る術はない。しかし、00年代以降、自分が身を以て経験してきた「若者論」に関する言説ならば、いろいろと思うところはあるし、考えもある。その中でも特に、第6章で語られる、「アイデンティティ」について。
メディア上における若者論客の振る舞いによって、若年層の「本質」(アイデンティティ)がトップダウンで規定され、あるときにはバッシングの対象となり、あるときには「希望」が語られる。つまり、現代的な知識人のあり方とは、専門的な論理や知見ではなく、アイデンティティを売るものとなっているわけです。若年層と異なったものを大人世代のアイデンティティとして提示することにより、若年層バッシングを推し進めていく。
これは、僕にとっても心当たりのある話だ。僕らの世代を一括りに語ろうとするときには、必ずと言っていいほどに「ゆとり」という枕言葉がついてきて、その「特徴」が挙げられることとなる。きちんとした教育を受けていない若者と、大人である自分たち世代は「違う」という内容を示すことによって、大人世代の「正しさ」を確認するというもの。
若者世代からすれば、「根拠もなしになに言ってんだおっさん」ということになるのだけれど、もはやそれが一般化してしまい、僕らの間に諦観が生まれて久しくなる。大学時代、就活やセミナーの場でいろいろと言われて、「どうせゆとりだしww」と思考停止していた人は少なくない。
その一方で、筆者は次のようにも書いている。
現代の若い世代による世代論は、ロスジェネによる「被害者」「被抑圧者」というアイデンティティの獲得を経由し、一種の自己啓発となったのです。そしてそこには、従前行われてきたバッシングを是とする、もしくはそこで語られている「欠落」をアイデンティティとしてポジティブに捉え直し、その中で「生き抜く」ことへの圧力が強化されているのです。そこにはかつて世代論にあった上の世代への反抗とか、あるいは多様な若年層を分析的に捉えるという視座はまったくなく、一部の「意識の高い」若年層のための「癒やし」として提供されているのです。
ここで語られている「若い世代」として、具体的には、安藤美冬*2さん、伊藤春香*3さん、イケダハヤト*4さんなどの名前が挙げられている。「新しい生き方」を提案し、自分たちは「不幸」ではないと主張する人たちだ。
例えば、「ノマド」の問題点については、既に多くの人から指摘されているが、そういった「新しさ」や自分たちを「幸福」だとする言説は、その場しのぎの肯定になっている様が否めない。自分たちを取り巻く経済事情、社会不安、労働問題を全て棚上げにして、「なんとかなるさ」ととりあえず肯定している形。それで救われる人や、「なんとかなる」人もいるにはいるのだろうが、根本的解決にはなっていない。
これらを合わせてみると、上の世代は、「異常」な若者と自分たち大人の違いを示すことで、自らのアイデンティティを再確認し、若者世代は、上からの否定を前提として、自分たちを肯定してくれる言説をアイデンティティとして受け入れる、そんな構図ができあがっているようだ。
問題なのは、ここで示される「アイデンティティ」が、上の世代にせよ、若者にせよ、どちらも外部からもたらされるものだということだ。しかも、そのアイデンティティは調査・研究によって示されるような論理的なものではなく、あくまで主観的なものに過ぎない。そんな不確かなものを信じてしまうのは、ちょっと恐ろしいように感じる。
そうならないために、著者は、「メディアや言論に『代弁』してもらわない」ことを提案している。
メディアで活躍するような偉い人が自分の立場を肯定してくれたら嬉しいという感情は自然なものです。しかし、本当にそれでいいのかという考えは一回持ったほうがいいでしょう。世代や文化集団のアイデンティティがそれを支えるメディアやカリスマの振る舞いによって規定されてしまう世界というのは、ともすれば「宗教」的な閉鎖性を持ってしまう危険性を多分に孕んでいます。そこからカルト的な盲信になって、ひたすら他人を攻撃するようなことが起こってしまうと、視野はむしろ狭くなる一方です。
Twitterなどを見ていると、この懸念は既に実体化してしまっているように思う。一部のインフルエンサーや、まとめサイトのもたらす情報を絶対と信じて、自分の経験や考えを全く当てにしない人たち。ネット上で暴言をまき散らすような人は、この手の思考停止に陥ってしまっている可能性が高いのではないだろうか。
そうならないためには、自分の信じる言説を、まずは一歩引いて疑ってみること。僕の考えとしては、最初から全てを疑ってかかる必要まではないと思う。まずは情報を受け止めた上で、咀嚼し、吟味する。そして、他の情報や自分の経験と照らし合わせた上で、疑問や違和感を覚えたならば、自分の頭で考える。それでいいと思う。
通して本書を読んでみて、非常に気付きや学びの多い内容であったことは間違いない。また、若者論を論ずるに当たって、引用されている書籍もかなりの数になっており、巻末には、10ページに及ぶブックガイドも収録されている。
「現代の若年層の置かれた状況を改めて捉え直す」「1980年代以降の思想状況を捉え直す」「科学的な思考法を身につける」ための本が合わせて数十冊、紹介されており、考えを広げる参考となりそうだ。