就職活動中、それこそ耳にタコができるほどに聞いた言葉、「コミュニケーション能力」。話す人によって定義が違う場合も多く、僕は「(良くも悪くも)その企業の歯車となって働くための能力」などと脳内変換していたけれど、いまだに何のことか分からない。
そんな「コミュ力」を持たない人間は「コミュ障」と貶められ、コミュニティに適応できないとつまみ出される。自分の居場所を作るには、求められる「キャラクター」を演じなければいけない。
家庭に学校、職場にネット、それぞれの場所で違った「キャラ」を演じ分ける僕らは、いったいいくつの仮面を持っているのだろう。そりゃあ疲れますよ。でも、人付き合いは、社会的に生きる以上は必要不可欠なもの。楽しくもあるが、疲れる。
ネット上でもたびたび話題に挙がる「承認欲求」ですが、それを専門家の視点から詳細に解説したのが、本書『承認をめぐる病』。著者は精神科医の斎藤環さん。月初からちびちびと読み始め、先ほどようやっと読み終わったので、感想をまとめました。
目次
私が求めるものは「承認」よりも「関係」であり、「コミュニケーション」よりも「ダイアローグ(対話)」である。さしあたりそれらは、構造的必然を越えるための理想でしかないが、この現在を“病み抜ける”ための道標として念頭に置きつつお読みいただければ幸いである。
(「はじめに」より)
さて、本書の目次は、以下のような内容。主に前半が「承認」の問題を取り扱った内容で、後半は著者なりの “反精神医学” を記したものであり、専門的な内容となっています。
- 若者文化と思春期
- 終わりある物語と終わりなき承認
- 若者の気分とうつ病をめぐって
- 「良い子」の挫折とひきこもり
- サブカルチャー/ネットとのつきあい方
- 子どもから親への家庭内暴力
- 秋葉原事件──三年後の考察
- 震災と「嘘つき」
- 「精神媒介者」であるために
- Snap diagnosis 事始め
- 現代型うつ病は病気か
- すべてが「うつ」になる──「操作主義」のボトルネック
- 悪い卵とシステム、あるいは解離性憤怒
- 「アイデンティティ」から「キャラ」へ
- ミメーシスと身体性
- フランクルは誰に「イエス」と言ったのか
- 早期介入プランへの控えめな懸念
本記事では前半部分の、そのまた一部に焦点を当てて、内容と感想をざっくりとまとめました。すべてまとめようとするとべらぼうな文量になりそうですし、専門的な内容を間違った解釈で書いてしまう恐れもありますので……。
とは言え、本書の内容が 専門的だとは言っても、とんでもなく難しい内容というわけでもありません。まったく門外漢の自分でも、Google先生の力を借りながらであれば、それとなーく理解しながら読み進めることができましたゆえ。
「キャラ」によるコミュニケーション
人間関係において、特に僕ら若い世代の間で重要視されるのが、「キャラクター」だ。
いじられキャラ、毒舌キャラ、おたくキャラ、天然キャラ、などなど数多くの「キャラ」が存在するが、必ずしもそれが本人の性格と一致するわけではない。「キャラ」は本質とは無関係な役割であり、ある人間関係やグループ内において、その個人の立ち位置を示す座標を意味する。
その上で、「キャラ」文化の最大のメリットとして、著者は「コミュニケーションの円滑化」を挙げている。
「キャラ」というコードによって、もともとの性格がどうだろうと、一様にキャラという枠組みに引き寄せてしまう、という効用がある。また、そこでやりとりされるツッコミやいじりを通して「キャラの相互確認」を行うことを、著者は「毛づくろい的コミュニケーション」と呼んでいる。
この「キャラ」の力は絶大で、その場の大多数がそれを無意識に望み、演じてしまっている以上は、その流れに組みこまれざるを得ない。新しい環境で早々にキャラを確立できればいいが、失敗すれば自分の立ち位置を見失い、気付けば弾き出されていた、なんてこともあり得る。
恐ろしいのが、そのキャラを演じ間違えてしまったときだ。少しでもそのキャラから逸脱した行動をとれば、「は? 何やってんの? 空気読めよ」「お前がそんな奴だったとは思わなかった」などと批判されかねない。いやいやいや、貴方が私の何を知っているんですか、と。
そのようなことを考えると、著者の言う「毛づくろい的コミュニケーション」の言い得て妙っぷりに笑えてくる。たびたび行われる、中身のない、テンプレの掛け合い。それは、ある意味では「安心する」やり取りなのかもしれないけれど、それだけを繰り返していては、関係の発展などあり得ない。
けれど一方で、そんな「キャラ」が自然のものとして、定着する瞬間がくる場合もあると思う。長く付き合っていれば、キャラではない、相手の本質的な部分も見えてくるのでは。また、演じ続けていたキャラが、どこか心地の良いものとして認められるようになる人だっている。
本来の自分が「キャラ」に定着するのか、「キャラ」が本来の自分に定着するのか、といった差はあるかもしれないが、「キャラ」によるコミュニケーションが行き着く理想は、そこにあるんじゃないだろうか。ただし、まだ思春期すら迎えておらず、自我の確立に至っていない子供たちは別だ。
承認欲求とコミュニケーション偏重主義
現代の子供たちにとっては、「キャラとして承認されること」が最も重要であり、そうしなければ、教室空間内の自分の居場所を喪失するという事態に陥ってしまう。
他方では、成人した若い世代ですら、「食うため」ではなく「承認欲求」のために働く傾向にあるという。まさにその世代の僕だけど、否定はできない。全肯定もしませんが。
そこに見受けられるのは、有名なマズローの「欲求段階説」の逆転現象だと、著者は書いている。他の「承認欲求」に関する記事でも、よく見かける図ですね。
- 生理的欲求:生命維持のための食事、睡眠、排泄等
- 安全の欲求:経済的な健康や安定、事故に遭わないこと
- 所属と愛の欲求:つながりや所属
- 承認の欲求:他者からの尊敬、高い地位、名声、注目、自己尊重感
- 自己実現の欲求:自分らしく生きること
現代日本では、「衣食住よりも(キャラとしての)承認」を求める力が強く、その「承認」も、 “間主観的” な「コミュ力」に一元化されつつある、という。
承認の根拠を全面的に他者とのコミュニケーションに依存し、対人評価の基準も「コミュ力」に一元化されつつある現状を、著者はコミュニケーション偏重主義と称している。
冒頭にも書きましたが、コミュ力コミュ力コミュ力コミュ力コミュ力コミュ力──と嫌になるほど言われ続けてきた就活時代を鑑みるに、現在が、「コミュニケーション」こそが最重要視されている社会であることは、間違いないんじゃないかと。
だって、社会に出るための、就職するための入り口としての、「就職活動」の場でそれだけコミュニケーションを語るということは、つまり、そういうこと以外の何物でもないでしょう。
それがなければ生きていけない、大人としては失格だ、と解釈して、引きこもったり、自ら命を絶ったりする人がいても不思議じゃない。それを「弱者」だの「負け組」だのと捨てるのはどうなんさ。
僕が思うに、本当のところコミュニケーションなんかは二の次で、世の大人が話す「コミュニケーション能力」の本質は、「適応力」のことなんじゃないだろうか。
周囲から浮かないよう、置いていかれないよう、仲間はずれにされないように、世の中の大きな流れに乗って、その環境に自分を最適化して、キャラを演じて、うまく立ちまわって生きなさい、というもの。
一言で言えば、「社会にとっての『良い子』でありなさい」と。「うだうだ文句言うんじゃない、それが社会で生きることだ」と言われてしまえば、僕には何も言い返せませんが。……でもでも、その生き方のどこに「自分」はいるのだろう。
承認欲求エヴァンゲリオン
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』より
著者によれば、「承認をめぐる病理」は、次の3つに帰結するという。「承認への葛藤」「承認への過剰反応」「承認への無関心」だ。そしておもしろいのが、この3パターンが、そのまま『新世紀エヴァンゲリオン*1』の登場人物の特徴に当てはまるというのだ*2。
承認をめぐって葛藤し続け行動を抑制しがちなシンジ*3は「ひきこもり」であり、社交性が高く承認を勝ち取るための行動化にためらいのないアスカ*4は「境界性人格障害」、承認されることに関心がなく命令のままに行動するレイ*5は「アスペルガー症候群」だという。
これら「承認の病」を回避する方法としては、次の3つが挙げられている。
- 他者からの承認とは別に、自分を承認するための基準を持つこと
- “他者から”の承認以上に、“他者への”承認を優先すること
- 「承認の大切さ」を受け入れつつも、ほどほどに付き合うこと
さらに、これらは、多くの「成長の物語」における「落としどころ」として設定されているというのも興味深い。本書で挙げられている例だと、『おおかみこどもの雨と雪*6』は①と③の要素を持ち、『100万回生きたねこ*7』は②の解決策を持つ、というものだ。
以上は、第2章「終わりある物語と終わりなき承認」の内容になる。エヴァンゲリオンの「境界例」性を説明しつつ、「相互承認」の構造をヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」から解説するなど、非常に刺激的だ。エヴァ好きの人ならば、「ほうほう……ほうほうほう!」と興味深く読めること請け合いの章とも言える。
「良い子」の挫折、「依存」の問題、ネットでの承認
ここまでが、おおよそ第3章までの内容だ。全章に渡って要点をまとめるのは難しいので、これより後に続く話題を、簡単にご紹介。
4章では、親にとっての「良い子」であり続けることの危険性を説明している。「良い子」とアダルトチルドレンの共通性を挙げ、親の「条件付きの承認」による子供の葛藤と、自己愛の失調という問題点を解説した内容だ。
5章では、「メディア悪玉論はほぼ例外なく印象論である」という主張に始まり、ネットいじめやネット依存、フィルタリングなどの諸問題と、その解決策を提示している。
6章は、子供による、親への家庭内暴力の現状と対処法。誰もが暴力的に振る舞う可能性を強く帯びる「場」の作用についての言説もあり、読んでいて得心のいく内容だった。
7章は、秋葉原事件の再考。メディアでの報道で断片的な知識は持っており、その特殊性ゆえの事件という印象が強かったが、動機の精神分析は非常に興味深く、「家族」について考えさせられるものだった。
8章は、震災に直面して問題となった、デマや誹謗中傷に対する批判。嘘をつく理由としての、外在的要因はほとんど考えたことがなかったので、目から鱗の内容だった。これを当てはめると、嫌韓や原発に関する諸問題を取り巻くものも、なんとなく理解できる。
──以上、かい摘んだものではありますが、『承認をめぐる病』を読んだ感想でした。あとがきを見たら、寄稿や専門誌の論文を集めた内容だったらしく、「道理で難しいわけだ…」と納得。かなーり集中して読んだ印象です。
とは言っても、前述のように、極端に難度が高い、専門的な内容というわけでもなく。調べつつ読めば、ほとんど問題ないと思います。断片的でも哲学系の知識がある人なら、おそらくすいすい読めるはず。
「承認欲求」に関する話題は定期的に上がってくる印象がありますが、それを語るにあたっても、本書は非常に参考になるかと。目次のように、カバーしている範囲はかなり広いので、いろいろな面で刺激的な一冊になり得る本だと思います。