『学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで』を読んで、思わず涙ぐんだ


 最後のページをめくった瞬間、ラスト4行を読むために、この本を手に取ったのだと理解した。普段、映画やアニメやサウンドノベルでボロ泣きすることはあれど、小説やライトノベルで泣くことは滅多にない。そんな自分が、本書を読み終えた途端、なんとなくポロッと泣けてしまったのだ。

 脚本家・岡田麿里さんの自伝である本書。手に取ったきっかけは、「なんとなく」だった。岡田さんといえば、タイトルの『あの花』『ここさけ』をはじめ、数々の人気作品に携わっている脚本家さん。その背景にはどのような経験があるのか、なんとなく気になったので。

 そして、興味本位で読んでみた結果がこれだ。

 序盤こそ、不登校だった思春期のいろいろな意味でキツい経験に面食らった。しかし、1冊のちょうど半分を読み切ったあたりで急展開。物語さながらの伏線回収に衝撃を受けながら、トントン拍子で最後まで一気に読み切ってしまった。で、最終的には泣いた。

 会ったこともない他人の人生に感情移入し、「喜怒哀楽」の言葉のどれにも当てはまらないほどの情動にかられて悶えたうえでの、読後感。それこそ “脚本:岡田麿里” の作品を完走したあとのようでもあったけれど、同時に「物語」では得られない感慨もあった。

 間違いなく人を選ぶ本であることは間違いないし、万人に勧めようとも思わない。でもきっと、本書がハマる人は決して少なくない。どうしようもない閉塞感にある思春期の学生とか、先行きの見えない現状の仕事に焦燥感を覚えている社会人とか、スランプに陥っているクリエイターとか。

 そのような人にこの本が届けばいいと、心から思う。

 

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意外と多く見ていた、“脚本:岡田麿里”の作品

 岡田麿里さんといえば、本書のタイトルにもある『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ。』といった代表作を持つ脚本家さん。『花咲くいろは』『とらドラ!』『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった、多くのアニメのシリーズ構成も担当している。

 僕は人並みにアニメを嗜む程度の “にわか” ではあるものの、そんな自分でも岡田さんの名前は知っていた。ここ数年、オリジナルの新作アニメで脚本を担当する場合は、ほかのスタッフさんや声優さんと並んで名前が前面に推されていた印象もあり、「売れっ子」と言って間違いないのではないかと思う。

 

 名前を知ってはいるものの、何も岡田さんの「ファン」というわけではございません。ただ、「自分が好き好んで見る作品には高確率で “脚本:岡田麿里” の表記がある」という実感もあり、意識している脚本家さんの1人であったことは事実。名前が目に入ると、とりあえずその作品をチェックする程度には。

 そのうえで、実際に岡田さんが関わっている作品を見る際には……まず、冷静になって深呼吸。作品に触れることで己の心が抉られる場合を想定し、見る前にはちょっとした覚悟が必要なのだ。

 ごく普通の「アニメ的」な作品ではあるのだけれど、ふとした瞬間に「リアルな生々しさ」をぶっこんでくる。だからこそ、身構えずにはいられない。恐る恐る……だけれども、わくわくしながら見始める。それが、 “脚本:岡田麿里” のアニメ作品(主にオリジナル)に対して僕が抱いている印象だった。

 

 作品全体で見ると、特段に「リアル」だとは感じられない。けれど、劇中の個々のエピソードにおいて、最大瞬間風速的に「生々しさ」を感じることがある。それは、ちょっとした隠し味のように作品の魅力を底上げしてくれる一方で、同時に毒のようなものでもある。

 “生々しい” エピソードとはすなわち、自身の実体験を彷彿とさせるようなもの。あるいは、類似の経験をしたことがあるか、実体験ではないけれどあってもおかしくないもの。それは時として、自身の精神性にまで言及されているように感じられ、悶絶させられずにはいられないのだ。

 そのような、なんとなく「知ってる」「覚えのある」「知らんが妙に惹かれる」「くやしい……! でも、共感しちゃう!」という物語が岡田さんの脚本では語られる確率が高く、自分もそれを期待している節がある。──って書くと、こりゃもう「ファン」みたいな気もする。というか、ファンだよ、これ。

 

「不登校」という日常

 さて、そんな岡田さんの自伝である本書は、映画『心が叫びたがってるんだ。』の先行上映会でのエピソードから始まる。

 機材トラブルによる映像停止、走りまわるスタッフ、お客さんたちへの申し訳なさ、すれ違うたびに謝られることへの居心地の悪さ──。そのさなかで自覚した、 “あの頃から何も変わっちゃいない”“いつまでもあの頃に引き摺られている” 自分の姿。「埼玉県秩父出身」だとずっと言えず、登校拒否児童として過ごした少女時代の記憶。

 

「岡田は人間失格じゃなくて、人間失敗だよね」

 

 いつか誰かに言われたという一言で終わるプロローグのあと、100ページ以上を費やして紐解かれるのは、岡田さんが秩父から『外の世界』に出て行くまでの半生だ。

 スクールカーストと、自身の “キャラクター設定” を演じ続けることに疲弊し、不登校になった中学時代。 “たった二年半” の不登校を経て、なんとか進学した先でも学校に行けなくなり、読書とゲームとレンタルビデオ漬けになった高校時代。ラブコメアニメのような華々しい青春模様などはなく、陰鬱と過ごしていた登校拒否の日々が描かれている。

 それは思春期の自意識との戦いであり、程度に個人差はあれど、おそらく大多数の人間が経験する過程であるようにも見える。僕自身に不登校の経験はないが、中学時代は肥大化した自意識を飼い慣らすことができず、やはり複数の “キャラ設定” の狭間で苦悩していた時期があったので。

 クラスでは波風を立てず、隅っこにいるだんまりキャラ。部活や塾では逆にハイテンションで、おちゃらけいじられ愛されキャラ。それでなんとかバランスを保てていたからよかったものの、些細なきっかけでその均衡が崩れることは何度かあり、そのたびに手痛い失敗をしていた覚えがある。

 思春期の痛々しい経験は、それこそネット上で探せばいくらでも「黒歴史」として転がっている。しかし、そこに「不登校」が加わるとなると、意外と当人の話は聞いたことがない。そういった意味で、本書は貴重な体験談としても読むことができるように感じた*1

 

 私は、皆が望むような対応をしないと「いつもの私」ではなくなる。でも、皆が望むような私は紛い物。すでに、私の中のキャラクター設定は崩壊しかけていたのだと思う。

 設定が意図せずぶれてしまえば物語との食い合わせが悪くなり、その齟齬をうめようとすればするほど展開は大きく脱線していく。実際、穏やかで明るいキャラを偽り続けることで、逆に私がもともと持っていた、頑固、臆病、気が強い、マイナス思考などの性質がより強く頭をもたげるようになった。

 かといって、それが本来の自分の姿かと言われるとそれも迷った。今回のキャラ設定は、齟齬があるくせに一部では定着してしまって、端だけがくっついて離れずぶらんぶらんと揺れている状態。ずるずる変化していった現状の私を、なんと名づければいいかわからなくなった。

 

 狭く残酷な学校の教室の世界では、ちょっとしたことで絶望的な状況に立たされ、一瞬で生活が崩壊する。本書の前半で描かれるのは、その “崩壊” までの過程と、ひたすら自意識と向き合い、自身を傷つけ続ける思春期の少女の日常だ。……そんなの、読んでいて苦しくならないはずがない。

 しかし、それでも引きこまれてしまうのは、やはり岡田さんの筆力・構成力によるもの……なのだろうか。

 ともすれば、周囲に毒をまき散らし、人によっては苦しくなるほど共感させられかねない内容なのに、語り口は思いのほか淡々としており、エッジが効いていて、クスッと笑える場面すらある。鬱屈とした重苦しさはあれど、絶望に浸るまではいかず、自然と先を読みたくなる魅力があるのだ。

 

 そして、その鬱屈さは、残り100ページを切ったあたりで反転する。

 

 もちろん、何もすぐに将来の夢を見出し、また脚本家・シナリオライターとして成功したわけでもない。仕事面でも生活面でも、安定するまでには数々の試行錯誤と挑戦があったことが読み取れる。

 それでも、周囲を山で囲まれた秩父の街の、小さな家の狭い部屋の情景ばかりが浮かんでいた前半と比べて、後半は明らかに雰囲気が違う。前向きであろうとする気持ちの変化が見て取れて、心なしか文章に色がついたようにも感じられ、思わずほっとしてしまったのだった。

 

『外の世界』と、徹底された「自分語り」によって伝わるもの

 「自伝」という紹介文に違わず、本書は徹頭徹尾「自分語り」に終始している。不登校の少年少女に向けられた言葉はなく、また脚本家やクリエイターを目指す若者に対する助言や激励もなく、ただ淡々と “岡田麿里” としての経験を書き連ねているだけ。

 にもかかわらず本書は、そういった層にこそ響くような内容になっていると感じた。

 でなければ、冒頭にも書いたように胸打たれて涙ぐむことはなかっただろうし、こうして長々と感想を書こうという気も起きなかったはず。岡田さんご自身がどのような思いで本書を書き上げたのかはわかりませんが、似通った精神性を持つ人に対して、ダイレクトに届くようなメッセージが込められている──。そのように感じられた。

 

 キーワードは、『外の世界』。前半部分からたびたび言及されていた表現であり、後半では、その経験を物語として再構成した『外の世界』というタイトルのシナリオが、象徴的な存在として登場する。

 少女時代の岡田さんにとって、『外の世界』とは秩父の外であり、自身のように不登校でない “普通” の人たちを指すものであり、決して手の届くことのない異世界だったはず。後半で紐解かれるのは、『外の世界』に足を踏み出した岡田さんが見た、どちらにも属さない人たちとの出会いだ。

 その一方で、これもまた岡田さん特有の話ではないように感じた。誰しもが大なり小なり抱えている他者との「ギャップ」──その境界線の外側にあるものを、『外の世界』と称することができるのではないか。そのように考えると、この感覚に共感できる人も多いんじゃないかと思う。

 思春期の自意識だったり、逃れようのない性差だったり、「世間」「社会」「常識」「普通」といった言葉だったり。周囲に適応できない、浮いてしまう、なんだかわからないけれど息苦しさを感じる──それらギャップは、どれもが『外の世界』との差異によって生まれるもの。

 そのうえで、ギャップをいかにして解消するか、あるいは折り合いをつけて付き合っていくかは、もちろん人によって異なる。ならば、そのヒントとして、この「自伝」が参考になるケースもあるのではないか。そして、似通った感覚を強く抱いたことのある人にこそ、本書をおすすめできるのではないかと感じられた。こういう考え方もあるんだよ、と。

 

 アニメ業界には、『外の世界』も『中の世界』もない。

 多くの制作会社と現場があり、個々の世界がぽんぽんとあちこちに点在している。ロードムービーのように渡り歩き、それぞれの渦に飛びこむ。

 この世界では私はうまくやれない。でも、この世界では楽に息して行ける。この世界では私は問題児だが、この世界では頼れる存在として見てもらえている気がする。

 そして。一緒に作品を作り続けることで、相手が本当はどんな人かを知ることができる。

 

 また、この『外の世界』の考え方が前提としてあると考えると、岡田さんの脚本に合点がいく部分もあって興味深い。と同時に、特定の作品につながりそうなエピソードも散見されるため、そういった視点からも本書は読むことができる。「高校の不登校時代にはやくざ映画を好んで見ていた」とか。

 そして、脚本家・シナリオライターとしての経験談や考え方は、そのままひとつの「クリエイター論」としても読める。僕自身、本書を読んで、自分がどういった部分で岡田さんの脚本に共感し、魅力を感じていたのかが明確になったので*2

 それだけではない。今の自分が仕事や趣味として取り組んでいることで、何を成したいのか──その軸となる部分を、自分が抱いていたイメージとは別の形で言語化してもらえたという実感すらあった。だからこそ、後半は集中して一気に読んでしまったし、最後にはポロッときたのだと思う。

 多分、きっと、いや間違いなく、何度も読み返すことになる1冊。

 

吐き出すことで、その瞬間に名前がついてくれたならと、どこかで願って。

 

 

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*1:「体験談」としては貴重かもしれない一方で、「不登校」の子供自体は現在も万人単位でおり、ありふれた存在であるとも言える(参考:第1節 教育|平成27年版子ども・若者白書(全体版) - 内閣府)。

*2:具体的には、アニメの脚本について書かれていたこのあたり → “自分としては、リアルな女子を書きたいというつもりはまったくなかった。ただ、ほんの少しだけ現実っぽい手触りをいれたい。あくまで「っぽい」がいい。その塩梅によって、架空の少女に一気に血が通うと思っていた”