わかりやすい文章・伝わりやすい文章、何が大切?


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 「わかりやすい文章を書きたい!」

 

 仕事にせよ趣味にせよ、日常的に「文章」を書いていて、このように考えたことのある人は少なくないのではないかしら。

 自分の主張は当然のこと、客観的なものも含めてあらゆる「情報」を他者へと伝えるためには、何よりもまず「わかりやすさ」が必要になってくる。そこで、「わかりやすい文章の書き方」と銘打った本やウェブ上の記事を読みあさる。そうすることで自分の文章力も向上するのだと、そう信じて。

 

 しかし、「わかりやすさ」とは何を指すのだろう。

 

 パッと思い浮かぶのは、やたらと難解な表現を使わないこと、テーマを絞り順接的かつ論理的に文章を構成すること──などなど。

 でもそのように考えると、義務教育課程で「国語」を学んでいれば、誰でも “わかりやすい文章” を書けるのではないか、とも思ってしまう。

 主語や述語をはじめとした文章構成。一般的な慣用句の知識。たとえ大学で論文を執筆したことがなかろうと、少なからず「作文」の訓練を積んできた人であれば、 “わかりやすい” 文章を書くのは容易なんじゃ……?

 もちろんそれは、各々の考える「わかりやすさ」の程度にもよるでしょう。しかし話を聞いていると、それよりも「わかりやすさ」と「伝わりやすさ」を混同してしまっているような印象をたびたび受けるのです。

 

 「わかりやすい」とは、「伝わりやすい」とは、いったい何だろう。

 

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「わかりやすさ」と「伝わりやすさ」

 そもそも、「わかりやすい文章」とはどのようなものを指すのだろう。「簡潔明瞭」「平易な文章」のこととしてざっくりと捉えれば、ぶっちゃけ「小学生の作文」ほどにわかりやすい文章はないようにも思う。

日曜日は天気がよかったので、家族といっしょに車で海へ遊びに行きました。みんなで泳いだりスイカ割りをしたりして、楽しかったです。

 シンプルにして最強。単純な「出来事」を情報として共有するのであれば、これ以上に “わかりやすい” 文章は存在しないのではないのではないはず。主語が省略されてはいるものの、5W1Hもしっかりとカバーしているので。

上記文章の5W1H
  • いつ【When】……日曜日
  • どこで【Where】……海
  • だれが【Who】……家族(と話者)
  • なにを【What】……泳ぐ・スイカ割り
  • なぜ【Why】……天気がよかった
  • どのように【How】……車で

 こうして見ると、「わかる」とは、ある情報について「誰が読んでも理解することのできる必要最小限の情報伝達」と言い換えられそうだ。事物に関しては平易な言葉で、感情に関してはシンプルな言葉でもって表現し、矛盾や違和感をのないようにつないだ形。

 一方、この文章をより「伝わる」ような表現でもって再構成しようとすれば、いくつかの方法があるんじゃないかと思う。例えば──。

より「伝わる」文章にするには?
  • 固有名詞を使う:「海」→「サザンビーチちがさき」
  • 情報の具体化:「家族」→「お父さんとお母さんとタマ姉ちゃんとタロ(犬)」
  • 行動の説明:「スイカ割り」→「タオルで目隠しをされた状態で不可視のスイカと対峙した僕。タマ姉ちゃんの『5m前方に進んだ後に右へ40度転身!からの上段足刀蹴り!』という指示に従い左足を勢いよく繰り出した結果、そこにいたらしいお父さんの股間にクリーンヒット。踵に嫌な感触が伝わると同時に、お父さんの大事な何かが確かに割れた」
  • 感情の描写:「楽しかった」→「父親のマイサンを蹴り潰すという貴重な体験は最高に気分の高揚する出来事であり、僕はこの一日を一生涯忘れることはないだろう。超!エキサイティン!!」

 こんな感じ。

 要するに、淡白だった「情報」に具体性を伴わせるべく、内容を追加したり、要素を細分化したり、表現を変えたりすること。出来事としての表面的な情報だけでなく、感情や描写を付け加えることで、その場にいない人にも「伝わる」ような形にアレンジする格好。

 「わかる」と「伝わる」、それぞれ本来の辞書の意味とは少し異なるものの、本記事においては、

「わかる」と「伝わる」を言い換える
  • 「わかる」=読み手が必要最小限の端的な情報を共有する
  • 「伝わる」=読み手がその情景や内容を脳裏で描けるほどに具体性の伴った情報として理解する

 ──といった形で考えてみようと思います。

 

「伝える」と「伝わる」の違い

 しかし、ここでひとつ問題が出てくる。「具体性の伴った情報」を伝えるためにはいくつかの方法があると書いたけれど、何でもかんでも詳細に書けばいいというものでもない。

 なぜなら、人によって知識量や語彙力には違いがあり、ある人には「伝わった」文章が、また別の人に等しく「伝わる」とは限らないため。加えて、知識・語彙に限らず、その文体の合う合わないだってあるだろうし。

 たとえば、さっき例示した文章。

 “上段足刀蹴り” と聞いてその動きを思い浮かべられるかどうかは疑問だし、 “超!エキサイティン!!” がどこぞのCMの文句だと読んだ全員が知っているなんてこともないはず。 “お父さんの大事な何か” がわからなくてもおかしくないし、「この文章、寒いわー」と読み飛ばした人だっているでしょう。

 僕だって、「車」の部分を “AMG 190シリーズ” とかの車種名にすれば「え? 車? 電車?」となりかねない一方で、「わかる」人にとってはお父さんの好みや年齢まで推理できる一因となるかもしれない。

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 なので、「よりわかりやすく、伝わりやすい文章を書くぞ!」と隅から隅まで具体的にしたところで、それが相手に「伝わる」とは限らない。固有名詞ばかりにすれば知識のない人には意味不明だし、スラングの多用も同様。ふんだんにレトリックを使い過ぎてわけわかめ、なんてことがあっても不思議じゃない。

 他方では、「情報を付け加えた結果、誤読や誤認につながる」なんてケースもあり得る。というかそれ以前に、誤読・誤認はあって当然だ。素直に「楽しかった」ことを深読みして皮肉と受け取られるだとか、男女関係は常に恋愛と結びつけて語られがちだとか、そういう話。

 そのように考えると、自分が伝えようとしたところで伝わらないものはあるし、逆に、自分の意図や認識とは全く関係のないところまで勝手に推測されて伝わってしまうことも当たり前にある。

 伝えたい相手が特定のひとりだけならばともかく、不特定多数に読んでもらう文章の場合、そういったすれ違いはあって当然だ。どれだけ自分が「伝わりやすい文章を書けた!」と感じても、読者のひとりひとりにまったく別の形で伝わり、さまざまな評価やツッコミが入っても不思議ではない。

 だって、「コミュニケーション」ってそういうものでしょう?

コミュニケーションは、自分が伝えたいと意識したことが相手に伝わるわけではない。逆に言えば、伝えたいことなんてなくても、何かが伝わってしまうことが前提になっているんです。

吉田尚記著『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』

 

批判は「伝わる文章」を考えるチャンス

 身近なところだとブログ、他には著名な文筆家さんのツイートでも、「自分の意図したように読んでもらえず、見当違いの批判をしてくる読者はクソだ」という意見を目にすることがある。曰く「読解力がない」「知識がない」「教養がない」──などなど。

 実際問題として、ろくに中身も読まずに批判しているようなケースも少なからずあるように思う。一部分だけを切り取って、過大解釈でもって好き勝手にツッコんでくるような人たち。そんな理不尽なツッコミを読めば、思わず物申したくなる気持ちもよくわかります。

 ただ、それを全部相手のせいにするのも、個人的にはもったいないんじゃないかと思っていて。……誹謗中傷は論外にしても。

 「その言い分はおかしい」「そんな表現を使うのは違う」「途中で話がすり替わっている」といった指摘を「意味のない批判」と切り捨てるのは簡単だ。でもそれらは、言うなれば「読み手の解釈を経て “伝わった” 部分」であって、同時に「自分の意図が “伝わらなかった” 部分」でもあるんじゃないかと。

 つまり、批判に限ったものではないけれど、「相手の反応を斟酌することによって、『何が “伝わり” 、何が “伝わらなかった” か』を分析することができるのでは?」と思うのです。

 ある文章に対して寄せられた数々のコメントは、それぞれが言わば「読み手に何が “伝わった” か」を示すもの。筆者が何かしらの意図でもって書いた文章が、外部にどういった形でもたらされたかを可視化したもの。もしその筆者が「伝わりやすさ」を意識しているのであれば、賛成だろうと批判だろうと、決して無視できるものではないんじゃないかしら。

 バカだのアホだのという悪口はともかく、はてなブックマークのコメント欄なんかは特に、「何が伝わったか」が顕著に現れる場所だと思っている。100字という限られた空白のなかに、各々が「私はこれを読んでこう思った」を書き記す場所。

 Twitterもそうだけど、文字数制限のあるサービスを日常的に使っている人って、こうした「伝え方」を常に試行錯誤している印象があるんですよね。端的にまとめなければいけないからこそ、単語や表現を選んで書かざるをえない。だから、「伝わる」ように考える。

 

 もしかするとそれは、悪意や野次馬根性から書き込んだものかもしれない。けれど、あらゆるコメントは、「文章」という媒体を経て何が「伝わった」かを少なからず示すものであることは間違いない。そして、それを生かすか殺すかは筆者次第。

 個人的には、目に見える結果がせっかくあるのに、それを無視するのはもったいないように思います。限られた読者向けに運営しているメディアならまだしも、「わかりやすい文章を書きたい!」「より多くの人に読んでほしい!」と日頃から考えているのであれば、常日頃から「伝え方」について試行錯誤していきたい。

 お互いに褒め合うだけのユルいやり取り。
 別視点や問題点を指摘してくれる書き込み。
 口は悪いけれどなぜか納得させられるツッコミ。

 自分の文章に対して投げ返されたそれらのコメント群は、たとえそれがどんな暴投であっても、等しく「コミュニケーション」のきっかけとなるものであることに変わりはない。

 そこでキャッチせずにスルーするか。
 絶対に落とすことのない玉転がしを続けるか。
 飛んできた豪速球や見当違いの球を無理に捕りに行くか。

 大切なのは、自分が求める「コミュニケーション」の性質と、そこから何を得ようとするかという視点。

 書いて公開した文章が、自分本位の自己満足に過ぎないというのなら、それでもいい。けれど、もしも誰かに伝えたいメッセージをあって、それが自然と「伝わる」ような文章を書こうというのなら。──決して、相手の存在を無視してはいけないと思います。

 

 

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