想定外の批判を「読者の読解力不足のせい」にしていいの?


 文字によるコミュニケーションは難しい。そんな話を、過去に何度かブログで取り上げてきました。相手の表情や目の動き、声の抑揚や身振り手振りがわかる対面のコミュニケーションとは異なって、 “文字” オンリーのやり取りは意外と難易度が高い。

 自分はブログを書き始めて2年ほどのひよっこですが、「ことば」の難しさを痛感する日々でござる。

 「趣味」として好き勝手に文章を書き連ねていると、思いつきで書いた記事が思わぬ反響を集め、戸惑うようなこともしばしば。その中には耳が痛くも的確な批判・助言がある一方で、どう見ても揚げ足取りにしか見えないツッコミがあったり、時には誹謗中傷の類もあったり。

 

 そんなときには思わずムッとして、「俺が言いたいのはそういうことじゃねーよ!」とか、「いやいや、そこは本筋とは関係ないっしょ?」と反射的に反論したくもなる。

 けれど、自分がこれまでに書いてきた500以上の記事とそれぞれに対する反響を読み返していると、自分の文章も明らかに未熟で脇が甘く、ツッコミどころが満載なんですよね。

 

 特定の情報を継続的に「メディア」として発信しているでもなし。ブログを主軸として生計を立てる「プロブロガー」を目指しているでもなし。「個人の日記」としての要素の強い「ブログ」を書いている分には、洗練された文章力なんて不要だとも一面的には思います。

 でもだからと言って、自分の書いた文章が “伝わらなかった” ことに対して「読者の読解力がないせいだ」としてしまうのは、なんか違うんじゃないかなー、とも思うんですよ。そりゃあ中には、ただ悪口を言いたいだけの人もぶっ飛んだ思考の持ち主もいるでしょうが、コミュニケーション不全の原因を全部相手に丸投げするのはどうなんだろう。

 文字コミュニケーションは万能じゃない。プロがどれだけ試行錯誤したって伝わらないものはあるし、それは決して全てが読者の読解力に起因するものでもない。そんな話。

 

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書き手から読み手に「文章」が伝わるまで

 言いたいことはほとんど冒頭で書いてしまった感じではありますが、もうちょい掘り下げてみませう。そもそも「文字」を媒介としたコミュニケーションには「書き手」と「読み手」の2つの視点があり、それぞれが問題を内包しているように見える。

 

 まず、書き手が自分の考えを明確に「文章」として書き起こせるかどうかという問題。頭の中の思考、あるいは既に完成された思索を言語化し、より伝わりやすい普遍的な表現でもって文字の形に落とし込み、論理の伴ったひとまとまりの「文章」として完成させるのが大前提となる。

 次に、文章を目にした読み手にその内容が「伝わる」かどうかという問題。最後まで読み飛ばさずに読んでもらえるか。文中の語彙表現が正しく認識・理解されるか。そこに込められた主張や意図を汲んでもらえるか。 ――そして内容を斟酌した上で、共感をもたらすことができるかどうか。

 

 「文章」とは本来、自分の頭の中にある考えを他者へと伝えるための、意思・情報伝達手段だ。視覚化された「文字」を媒介して、特定の情報や個人の思考といったものを、他人へと伝えるための道具。でもそれは、冒頭にも書いたように万能ではないと思うのです。

 “一を聞いて十を知る” という有名な故事がありますが、極論、文字情報で伝わるのなんて、 “十を読んで一を知る” 程度なんじゃないかと感じることもある。何百、何千文字かをかけてやっと大筋の主張が伝わる程度で、細かい感情や意図といったものはスルーされて当然だ、と。

 

 そも出発点からして、書き手の思考を余すことなく言語化するなんて不可能だ。だからこそさまざまな語彙や表現を学び、言葉を尽くして伝えようとする。けれど、それも相手が知らなければ意味がないし、こねくり回し過ぎて主題が疎かになってしまうケースも少なくない。

 読み手は読み手で、各々が十人十色の違う価値観を持っており、知識量によって読み方が異なり、その解釈や賛否もバラバラになるのが当然だ。

 書き手の主張を、書き手の意図したとおりに受け取ることのできる人の割合がそもそも少ないだろうし、文章を飛び越えて書き手の頭の中の「思考」にまで至れる人なんて、奇跡的な確率なんじゃないかと思うことすらある。エスパーか。

 

 もちろん、「そんなことはない、技術としての文章力を鍛え上げれば、誰にでも伝わる文章は書くことができる」という主張もあるでしょうし、実際に “伝わる” 人の割合はある程度まで増やせるとも思います。

 ただ、僕個人の考えとしては、「文字コミュニケーションは難しく、基本的には伝わらない」といったスタンスでブログを書いておりまする。

 

コミュニケーションは「伝わる」ものである

 一方で最近思うようになったのが、対面だろうと文字だろうと、他者との「コミュニケーション」において “十を伝える” ことは不可能なんじゃないかという問い。

 いや、気付くのがおせーよと言われればその通りなんだけど、はっきりと言語化して自覚したのは最近、と言いますか。いくつかの本に共通して同じ言い回しがあるのを見つけて、それで納得がいった形。

 

アナウンサーの仕事をよく「伝える仕事」だって言う人がいますけれども、伝えるというのは、なるべく伝わるよう演出することにすぎないんです。ある事柄を「これを理解しなさい」と言って完璧に伝えられるかといえば、そんなことは絶対にできない。

吉田尚記『なぜ、この人と話をすると楽になるのか』

コミュニケーションは、自分が伝えたいと意識したことが相手に伝わるわけではない。逆に言えば、伝えたいことなんてなくても、何かが伝わってしまうことが前提になっているんです。

同上

文章とは、表現とは、それほどデリケートなものだということ。「巧い文章」が「美味い文章」とはけっして限らない。どれほどわかりやすく素直な文章であっても、書き手の真意が書き手の意図したように読み手に伝わるとは限らない。いや、むしろ「伝わらない」という前提に立って「伝えよう」とする努力こそが、文章のさまざまなテクニックを生み出したのだとさえいえるくらいだ。ぼくたちはあらゆるメッセージを、自分が受け容れたいようにしか受け容れない傾向がある。

山崎浩一『危険な文章講座』

 

 コミュニケーションの本質は「伝える」ではなく「伝わる」。

 どんなに言葉を尽くそうと、わかりやすい表現を使おうと、熱意を持って “伝え” ようとしても、それが誤差なく理解されることなんてありはしない。相手の受け取り方次第で、いかようにも “伝わっ” てしまうのだから、と。

 

 話すべき内容があって、「伝えたい」という熱い思いがあれば、それは相手に伝わるものなのです。「これだけは伝えたい」という、内心からほとばしり出る情熱があれば、たとえ説明は拙くても、それは相手に伝わるのだと思います。

 ただそのとき、相手への想像力、相手への思いやりを忘れさえしなければ。

池上彰『相手に「伝わる」話し方 ぼくはこんなことを考えながら話してきた』

「伝える」ことばかり考えると、結局、相手のことを考えず、自分の意志を押し通すエゴになってしまう

小西利行『伝わっているか?』

 

 そしてこの「伝わる」という考え方の肝が、徹底的に相手目線に立っているという点。きっかけは自分の「伝えたい」から始まったとしても、見ている視線のその先には常に誰かの存在があり、その相手に対して少しでも「伝わる」ような施策を検討する格好だ。

 数多く存在する文章論やコミュニケーション論の言説は、ひっくるめてしまえば、すべてこの「伝わる」ための技術を論じた内容なんじゃないかと思えるくらい。その手法は多岐に渡れど、根っこにあるのは相手目線の「伝わる」ための考え方。それはきっと、文章だろうが対面だろうが大きくは変わらないものなのだと思います。

 

 

 なればこそ、振りかかった想定外の批判に対して、反射的に「読者の読解力がないのが悪い」と断じてしまうのは些か軽率というか、見方によっては傲慢であるようにも見える。自分の文章の甘さを顧みず、無思考に切り捨てているような。それなら、スルーした方がまだ良さそう。

 たしかに、なかには一部表現を過大解釈したり、テンプレ的な誹謗をぶち撒けてくる輩もいるかもしれない。けれど、そこで反射的に「おめーの頭が悪いんだよww」と対応してしまえば、悪口に対して悪口で返しているのと何ら変わりないように思えます。なんて言うか、お互いに雑。

 

 せっかく「ブログ」なんていう長文媒体で意見を発信しているのだから、うまく “伝わっていない” と感じたのなら、そこで反論なり補足なりを書けばいいのです。たとえ相手が読んでくれるかは怪しいとしても、自身の意見・文章を顧みる良い契機にはなるはず。

 見方を変えれば、「他者からの批判」は「自身の文章(思考)とのズレ」であり、それを見直し矯正していくことによって、自分の文章力の向上、ひいては “伝わる” 読者層の増加につながるのではないかしら。

 そこまでの労力が割けないのなら、わざわざ「読者の読解力がぷんすか!」なんて書かずにスルーすれば済む話。見えるところで毒づくくらいなら、何も言わずに「あー、伝わらなかったかー」で流せばいいのです。

 

「読解力」を鍛えつつ、哲学・文化・科学・社会など各種分野の基礎単語を学ぶのにおすすめ。

 

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