ぐるりみち。

日々日々、めぐって、遠まわり。

生きづらさやコミュ障は「生きる速度」の違いで説明できる?

f:id:ornith:20150702164204p:plain
「秒速5センチメートル」予告編 HD版 (5 Centimeters per Second) - YouTube

 2006年に映画『秒速5センチメートル』*1の特報を観たときの衝撃は、今でも忘れられない。わずか35秒の動画をiPodに入れて持ち歩き、何度も何度も観返した思い出。美麗な映像、切ないピアノの音色、そして、印象的なキャッチコピー。

 

どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか。

 

 本作で描かれた「速さ」とは、遠く離れてしまった想い人との文通による時差や、物理的な距離感や心情の変化を示すものだったと思う。そこでは「恋愛」としての要素が色濃くなっているものの、人と人との認識や思いの差は時として、こうした「速度」の違いという形で現出するのではないかしら。

 他方では、「ナンバーワンよりオンリーワン」とか「多様性が尊重される時代」とか、広い意味での「個性」を重視するべきものとして語るような論調も、ここ十数年でしばしば聞かれるようになったもの。

 実際、個人の意思や主張が尊ばれ聞き入られる「自由」な時代だとも言われてはいるけれど、それが額面上だけのものであるという指摘も当然のようにある。さらに言えば、そうした「自由」によって逆に息苦しさを感じているような人も決して少なくはない。

 「個人」を大切にすべきだという話はよくわかる。けれど、それだけ「個」が重要視される現代においては、個人間での認識の格差も各々が意識する必要がある。そして、そのような「格差」を端的に表す言葉として、「生きる速度」という表現で考えることはできないだろうか。

 

スポンサーリンク
 

 

「生活リズム」の個人差と、仲間内の相互認識

 「速度」と言っても、歩くスピードとか、物理的にキレッキレな所作をしているかどうかとか、そういった目に見える「速さ」の話ではなく。――いや、一面的にはそれらも含まれるとは思いますが。

 身近な例で言えば、生活リズム。朝型・夜型といった大別の他にも、起床時間と就寝時間、睡眠の質、朝食は抜くとか、昼寝や晩酌の習慣のあるなしとか、人によって多種多彩な生活の「ペース」がある。

 現代社会の慣習として企業によって決められた「定時」はあるが、中には夜勤や休日出勤、不定時出勤のフリーターや個人事業主などの存在もあり、働き方はさまざまだ。一人の人間にしたって何年もずっと同じ習慣を続けるとも限らず、それこそ千差万別と言ってもいいくらいには個人差があるのではないかしら。

 

 このような点に関して、親しい間柄の友人グループではお互いに理解があるケースが多く、大きな衝突はあまり起こっていないように思う。何かの際に集まるにしても、「あいつは水曜休みだから〜」「彼の会社は7月は繁忙期だっけ」「彼女は夜遅くなるといけないから〜」といった形で、うまいこと調整できているイメージが強い。

 友人グループに限らず、会社とかサークルとか町内会のような、日常生活と紐付けられたコミュニティは個人間の「生活リズム」が意外にしっかりと鑑みられ、うまく関係性が継続しているように考えられる。あまりに身近である以上、“合わせざるを得ない”という事情もあるかもしれませんが。

 それよりも悲しいのは、そもそも呼ばれなかった場合ですね、はい。同窓会……Facebook……全員集合……うっ、頭が……。これはこれで、自分自身の存在や現状が認知されていないという悲しき格差だろうか。「速度」以前の問題。「あれ? お前、歩いてたの?」的な。な、ないてねーし!

 

「コミュニケーション」の速度〜足あと、既読無視、ビジネスメール

 他に、目に見える「速度」として可視化されている例のひとつに、インターネット上におけるコミュニケーションのギャップが挙げられる。

 古くは電子掲示板でのレスポンス速度、ちょっと前ならmixiの足あと機能、最近ならLINEの既読無視問題、あるいは、今なお話題になるビジネスメールの返信のタイミング。一口に言えば、「返事はいつまでにするのが当然!」だという認識の差の話だ。

 そうした認識、言い換えれば「文化」の違いは、各々が所属するグループによって考え方や習慣が違うことも珍しくはないので、「すぐに返さないなんてありえない!」とたびたび問題になっているように思える。当人にとっては「当たり前」の習慣が実際は一部界隈の文化に過ぎないというケースは、ネット上で特によく見られるものだ。

 

 Twitterでユーザー各々が目にするタイムラインはそれぞれにまったく異なるし、特定のサービスで炎上したからといって、それが全ネットに波及する“祭り”となるような例は近年ほとんどなくなった。

 メディアで語られる「ネットで話題!」だってそもそも日本語圏内での話でしかないし、逆に「米国で話題!」という翻訳記事の情報源となっている英語記事を読みに行ったら、たかだか数万人にしか読まれていないなんてことも往々にしてある。

 そのように考えると、ある人がネットで「かくあるべし!」と考えている「常識」なんてものは少数派であるどころか、極論、その人だけにとっての「当たり前」でしかないという場合もありえる。「おまそう」ってやつですね。

 

f:id:ornith:20150703154901p:plain
お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではなとは - ニコニコ大百科

 

 要するに、運営側で明確な「使い方」の決められていないサービスについて「いつまでに返信しなくてはいけない」というのは個人の感覚でしかなく、それまでに返事がないからといって憤慨するのはおかしいように思う。

 特にネットを介してコミュニケーションを行う場合は相手の顔が見えないからこそ、自分と相手の利用頻度や考え方の違い――「速度」の差異があることを当然として意識しなければ、円滑にやりとりを続けることは難しい。そこで自分の「速度」に相手を合わせようとするのなら、「いつまでに返事してくれよな!」と一言添えるのがそれこそ“マナー”なんじゃなかろうか。

 

 ただ、ビジネスメールの場合は即時性が必要になることも多いでしょうし、ググったら出てきた「ビジネスメール実態調査2014」の結果を参照しても、1日に1回メールをチェックするのは当然であり、24時間以内返信が世間的には大多数であるようです*2

 とはいえ、24時間以内に返事が来なかったからといって、「やっぱさっきの話はなしで。」と読み方によっては逆ギレしているようにも受け取れるメールが届いたときはさすがに引きましたが。いやいや……そんな即断が必要な内容でもなかろうに、そうならそうと書くか、まず連絡にメールなんて使わんでくださいよ……。

 

無意味に急かしたててみたり 大切な時間奪われたり
無意味に攻撃してみたり 理不尽な攻撃を受けたり

一体何事なんだろうね?*3

 

「生き方」の速度と、「気の合う人」の基準

 朝型人間がいれば夜型人間がいて、面と向かっての会話が好きな人がいれば文字によるコミュニケーションが好きな人もいて。とくりゃあ、大器晩成、栴檀は双葉より芳し、十で神童十五で才子二十過ぎればただの人――と、人生それ自体だってその時々で「速度」は異なろうもの。

 周囲の子と同じように受験勉強ができなかったとか、就職活動でどうあがいても良い結果が出なかったしやる気もなかったとか。そういった「当たり前にできなかったこと」もその人の能力や努力の欠如というよりは、世間一般とされる「速度」と合わなかったことによるのかもしれない。

 

 年齢や環境や精神状態によって、その人の「速度」はきっと常に揺れ動いているものなんだと思う。第一、誰もが常に等速で進んでいるわけもなく、睡眠や休日、イベント事などで一時停止したり、動きやすいように速度調整しているのが自然なんじゃないかしら。

 だからこそ、その道中で知識を得たり、貴重な経験を持ったり、人間関係を構築したりすることでそれらが新たな「燃料」となって、次の段階へとギアチェンジできるようになる。大人になってから今まで興味のなかった趣味や活動に取り組むようになるのは、そういった速度調整を経て、見える景色が変化した結果なのではないかと。

 

 そりゃあ、自分とは合わない形に無理やり速度を合わせようとすればギアは噛み合わず、エンストを起こしてしまっても不思議ではない。中にはそこでうまいこと合わせて、どんどん加速していける人も少なからずいるのだろうけれど――それも人により、でしょう。

 なので、合わない、追いつけない、もうダメぽと感じたなら、無理に合わせず自分の「速度」を意識して楽な形に調整することで、“事故”を防ぐようにするのが得策なんじゃないかと個人的には思います。ウサギじゃなくて、カメでもいいんです。気分が乗るようになれば、自然とこころもぴょんぴょんするようになるんです。たぶん。

 

f:id:ornith:20140829175114p:plain
『ご注文はうさぎですか?』のコメントログから感じる季節感 - ぐるりみち。

 

 人間関係も同じく。自分と相手の「速度」のすり合わせを人間関係を円滑に進める基準とするならば、意識的に相手と同じ速さで歩くことのできる人は、誰からでも好かれやすいのではないかと。

 一方では、頑として自分の歩みを変えない人は他の人と衝突しやすいけれど、まったくの同速で歩いている人と出会えれば生涯のパートナーたりえる関係性を構築できる。言うに及ばず、お互いに歩み寄って調整し合わせる気があれば、長く付き合いを続けることができるでしょう。

 

 自分の速度を相手に合わせて調整するのは誰にでもできる操作ではなく、ギアチェンジが苦手な人だっていて当然。いろいろな人と出会い、すれ違い、時には共に歩むべく速度を合わせようとする努力は必要だと思う一方で、“気の合う人”とだけ関わりたいのであれば同じ速さで歩いている人を探せばいい。

 とは言っても、常時トップギアで最先端を駆け抜けている人に追い縋るべく、まだ高速走行にも慣れていないのにセカンドギアでアクセルをべた踏みしたところで追いつけないし、周囲からは「うるせえ!」とツッコまれかねない。“意識高い系”ならぬ、“回転数多い系”、みたいな。

 何はともあれ、自分の価値観やリズムを「生きる速度」として認識し、周囲との差異を把握・調整しながら、ほどほどに駆け抜けていくのが「人生」的な何かなのでしょう(ドヤ顔感)。かるーい言葉遊びのようなものではありますが、こんな例えはどうかしら? ということで。お粗末さまでした。

 

 

関連記事