ぐるりみち。

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ネットの三大原則「知らない」「伝わらない」「関わらない」

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 インターネットは、こわいばしょ。

 

わたしと、あなたは、他人同士

 出会い系サイトの問題が叫ばれていた頃、「ネット」に対して持っている世間のイメージは、そんな感じだったんじゃないかと思う。

 知らない人の集まるオフ会は怖い。女性一人で行くなんてもってのほか。2ちゃんねるは、ヤバいやつらの集まる場所。Welcome to underground...*1

 

 僕が中学生の頃は、ネットのネタについて話す人はまだ少数派だったイメージがあるけれど、今や多数派ですもんね。スマホでまとめサイトのアプリを見て、LINEやTwitterで友達とコミュニケート。べっ、別に羨ましくなんてないんだからねっ(棒

 ネットが大衆化したことによるものなのか、低年齢層が増えたことによるものなのか、はたまたその両方か。誰もが当たり前に利用するようになったことで、個人の炎上や、ユーザー同士の抗争(という名の罵り合い)が可視化されやすくなったように思う。

 

 昔から荒らしは存在したし、アホみたいな口喧嘩はそこら中で行われていたけれど、その多くはすぐに流れてしまうものであって、今ほど際立っていたようには感じない。わざわざ記録をとる人も少なく、今でいうまとめサイトやキュレーションメディアのような仕組みもなかったし。

 ところが今は、個人の発言が瞬く間に拡散し、なんでもかんでもまとめて記録されてしまう時代。大炎上する“バカッター”案件は減ったにしても、探そうと思えば、あちこちで日常的にボヤが起こっている模様。Togetterを見ていると、火種がいっぱい。冬は暖かそうですね。

 

 所詮は個人の発言だし、ネットは気軽に使ったっていいじゃない、という主張も分かる。というか、本来はそうあるべきなんだろう。そこにいるユーザーの誰もが、分別のついている人ならば。

 けれど、そうは問屋がおろさない。変なのに絡まれることだってあるし、思わずぽろっと問題発言をしてしまうこともあるだろう。だって、にんげんだもの。腹の虫の居所が悪い日だってありましょうね。

 

 それを避けるために意識しておくことは、突き詰めればただひとつだと思う。

 わたしと、あなたは、他人同士。

 

 たとえ、Twitterで「おはあり〜☆」とか「フォロー返しありがと〜☆」なんて仲良くやっていても、俺はてめーのことを知らねえし、てめーも俺のことを知らねえ。

 ネット上でお互いにやり取りを積み重ねたからと言って、相手のことを「知っている」と思い込んでしまうのは危険過ぎる。自分にとってはどうでもいい発言が、思いがけず相手の逆鱗に触れることだってあるかもしれない。てめーは俺を怒らせた*2。オラオラは勘弁。

 

 そうならないためには、相手を「知っている」ものとして振る舞うよりは、「なーんもしーらんぺっ!」くらいの感覚でいた方が、トラブルには発展しにくいんじゃないかと。

 まとめればそれだけで済む話だけど、ここではもうちょい発展させてみようと思います。大前提として「知らない」こと。思っている以上に「伝わらない」こと。そして、こりゃもうあかんと思ったら「関わらない」こと。

 

僕も貴方も互いを「知らない」

 当たり前っちゃ当たり前のことだけど、お互いを「知らない」という意識。

 

 もう1年以上もTwitterで互いにフォローし合っている仲だとしても、タイムライン上に現れている人格だったり、性格だったり、趣味嗜好といったものは、その人を構成するほんの一部分でしかない。

 ネットに限った話でなく、そもそも他人である相手のことを全て知るなんて不可能に等しい。文字コミュニケーションが主体となるネットならば尚更で、「普段からこういうこと書いているから、この人はこういう人間だ」と知ったつもりになってしまうのは、単なるレッテル貼りでしかない。

 

 しかも、そこで現れている人格が本物である保証はない。そりゃそうじゃ。意識しているか、無意識であるかに関係なく、ネット上で仮想人格を演じている人は少なくないと思う。

 普段の「キャラ」的なものに限らず、発言ひとつをとっても、「絶対リアルじゃこんなこと話さないだろ……」なんて書き込みは珍しくないはず。僕は嫌だよ!「びろんびろーんwww」とか「デュフフwwヌルコポォwww」なんておっさんがリアルで話してたらドン引きだよ!あ、でも僕話してるわ。

 

 それに……ネカマ*3やネナベだって、いてもおかしくはない。実際、友達がやってたし。ねーちゃんの“それっぽい”写メを使って、男どもを毎晩毎晩フィッシュしまくってたし。グランダー武蔵*4も真っ青だよ。フィーッシュ!!

 

本当に言いたいことは「伝わらない」

 自分視点だけでなく、同様に、相手も自分のことを「知らない」という意識も大切なんじゃないかと思う。自分が相手に持っている印象が個人の主観でしかないように、相手が自分に持っている印象も、同じく。

 「分かってくれるだろう」と相手に期待して、発言をぼかしてしまうのはあまり好ましくない。ネタかガチか分からない、といった些細な疑問で済めばいいけれど、「何言ってんだこいつ」と戸惑われたり、何かタブーに触れてガチギレされたりしても、文句は言えない。

 

 文字によるコミュニケーションだけで、相手に自分の伝えたいことを伝えるのは難しい。僕らが思っている以上に、言いたいことは「伝わらない」。

 単純に見える文字コミュニケーションが意外と複雑なのは、その書き手が込める意図と、受け手が感じる印象に齟齬が発生するからだ。そこには、大別すれば2種類の「意味」が存在していると思う。無機質な〈情報〉と、主観に基づく〈感情〉だ。

 

 〈情報〉は、「誰が、どこで、どうした」といった単純明快なもの。受け手によって感じる印象の差も少なく、単純ゆえの無機質さをはらんでいる。

 〈感情〉は、書き手の主観が込められたもの。「私(私達)はこう思った(考えた)」という意見であり、その賛否は受け手に委ねられる。

 

 書き手が主題としているのは、〈情報〉なのか〈感情〉なのか。そして、その受け取り方、もたらされる印象も、人によって異なってくる。

 なので、書き手の意図通りに「伝える」ことは想像以上に難しい。世の中には、因果関係をスルーして鼻血や病気を他のモノに結びつけたり、特定国の民衆は大半が暴力的だと信じていたりする人もいるらしいのです。不思議なことに。

 だからこそ、ネットは「伝わらない」という前提をもつ必要がある。そして、円滑なコミュニケーションを続けるためには、物事を「伝える」力と、正しく「汲み取る」能力が求められんじゃないかしら。詳しくは、ちょっと前の記事に書いています。

 

最悪の場合、「関わらない」という選択肢

 そんな面倒なネットでも、「知らない」他人と交流するのはやっぱり楽しい。どこぞの無職のおっさんらしいけど、いつもおもしろおかしいことを言っている彼からリプライが来ると嬉しくなっちゃうの。恋ですね。

 思うように「伝わらない」ことがあったり、意見の対立で長文をぶつけ合うようなことがあったりしても、その中で伝えようと試行錯誤していく過程を経ることで、伸びる能力もあるんじゃないかと。……文章力とか、忍耐力とか?

 とは言え、どうしても言葉の通じない相手や、罵詈雑言ばかりぶつけてくるような、どうしようもない人はどこにでもいるもので。そんな場合は、「関わらない」という選択肢も当然、考慮するべきでしょう。

 

 前者の場合は、できる限り努力してみる、というのも良いと思う。相手が頑なで、どう言っても伝わらない…でも誤解のまま終わるのは嫌だ……なんてとき。かえって、自分がガンコちゃんになっているパターンも無きにしもあらずなので、いろんな視点を考えてみるのも楽しいのでは。

 後者の場合は、ちゃちゃっと“にげる”コマンドを選んでしまってもいいんじゃないかしら。学校や職場と異なり、無理に関わる必要もないので、ダメだこりゃと感じたらすたこらさっさで。ブロック・ミュート機能を使えば、“しかし、まわりこまれてしまった!”なんてこともないでしょう。

 

 あえて関わり続ける、という選択肢も悪くはない。関わる相手を自らの意思で「選べる」空間においては、自分の好きな人だけが集まる心地の良いコミュニティが作られがち。それはそれで良いのだけれど、どんどん閉鎖的になっていく可能性を多分に含んでいるなので。

 要はアレっすよ。同じ連中とばかりつるんでいると、似たような話題が繰り返されるようになって、マンネリ化するんじゃないか、という。情報も関係性も均質化していく傾向にあるため、ネットならではの多様性が担保されない。

 そうならないために、気に入らない人、意見の噛み合わない相手をあえてフォローしておく、という選択をとるのも、個人的にはありだと思う。やり取りを続けるうちに妥協点が見つかったり、「あれ?意外といいヤツじゃん……」ってなるかもしれないし。恋が始まりそう。

 

リアルもネットも変わらない

 「インターネット」の話として、他人との関わり方を考えてみたけれど、どれもこれもネットに限った話ではないんですよね。

 リアルでだって、「余すところなく知っている」人なんていないし、意図しない方向に言葉が伝わっちゃうことはあるし、ちょっと苦手と感じて避けてしまうような人だって、いても全くおかしくない。「◯◯くんのことはなんでも知ってるよ……」なんて人がいたら怖い。ってかヤバい。

 

 ただ、リアルとネットの差を挙げるとすれば、昔から言われているように、「相手の顔が見えない」こと。

 これまたよく言われることだけど、会ったこともない他人に汚い言葉を反射的にぶつけてしまえるのは、“繋がりやすい”ネットの特性と、文字コミュニケーションの気軽さが一因としてあると思う。画面の向こうにいるのは、生身の人間だと分かっているはずなのに。

 

 そう考えると、かえって、それがひとつの基準ともなる。その人が、信用に値する人物であるかどうか、という。

 Twitterのツイートを100個くらい遡れば、なんとなくその人の人柄が見えてくるんじゃないかと。酷い暴言を連発していたら、悪印象を抱かれても文句は言えない。最近だと、見境なく著名人に自著の宣伝のお願いをしているのを見て、得も言われぬ気持ちになりました。

 

 ただ、だからと言って、「ネットの人格=リアルの人格」と断言するつもりはありません。なぜなら、上にも書いたように、別人格としてのキャラを「演じる」ことができるから。

 相手がキャラを演じているか演じていないかは、その人とリアルで会ったことがない以上、分からない。見えないから。知らないから。先日、サイバーエージェント社長さんがそんなブログ記事を書かれておりましたが、その全てに頷くことはできませんでした。

 

 リアルとネットの人格が全く無関係だとは思わないし、その人を判断する上でのひとつの基準にもなりうるとは思う。

 けれど、主に文字を利用するネットと、顔を合わせるリアルのコミュニケーションは別物であるとも言えるので、それだけに依拠するのは安直過ぎるようにも感じる。

 

 考え方としては、常に「暫定評価」でいるくらいがちょうど良いのかもしれない。ネットで知り合ったある人は、こういう人間“らしい”が、もしかしたら違うのかもしれない、といった形の。

 なんでも二元論で決めてしまうよりは、「〜〜っぽい」くらいの曖昧な付き合いの方が、健康的で良いお付き合いができるんじゃないかしら。ステキなパーティしましょ!

 

 

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