上野恩賜公園。4月某日。
取材と称して週末に都内のとある公園に行ったんだけど、すばらしい癒やし空間が広がってた。芝生にシートを広げてお弁当を食べる家族、ベンチで語らうカップル、ギターの練習をする若者、斜面でひとり爆睡中のお兄さん、遊具で跳ねまわるチビッコ。ネガティブの欠片もない。まったり。
— けいろー (@Y_Yoshimune) 2015, 4月 19
週末の過ごし方はいろいろあるけれど、街中の公園ほど「休日」を体現した場所もないんじゃないかと思う。
「休日」の風景を五感で実感しようとするのなら、まずは公園に行けば間違いない。この世の「休日」を凝縮したような景色が、そこには広がっている。一口に言えば、 “Yeah!めっちゃホリディ” な感じのアレ。僕もノリノリで恋したい。
ここ最近、カメラの練習と取材目的で曜日を問わず公園をぶらぶらと歩いている。平日と休日では訪れる人の層が違うのは当然として、場所によっても色が出ているのは面白い。平日の上野公園には外国人観光客の聞きなれぬ多言語が飛び交い、真っ昼間の日比谷公園ではサラリーマンが爆睡中。
植物が四季折々の風景を見せる公園は、たとえそれがなくても人間模様の多様性に満ち満ちている。訪れる人間はさまざま。目的もいろいろ。アコースティックギターでオリジナルっぽい曲を奏でているイケメンがいれば、トランペットで∠(゚Д゚)/イェェガァァ! とアニソンを響かせているおねーさんもいる。お近づきになりたい。
そんな「公園」を舞台とした小説『東京公園』を読み終えたので、ざっくりと感想をば。まさに「休日」に読むのにぴったり。心がポカポカしてくる物語でありながら、僕らの歩む人生の「途中」を切り取り意識させてくれる作品でした。
写真のように切り取られた「途中」の日々の物語
世田谷公園。本小説にも登場する。4月某日。
本作にいわゆる「タグ」を付けようとするのなら、「公園」「写真」「カメラ」「青春」「つながり」といった単語が挙げられるだろうか。
甘酸っぱい恋愛小説のようでいて、違う。離婚・再婚といった家庭内の距離感を描いた家族小説のようでいて、そうでもない。――とくれば、大学生の主人公を中心として展開していく物語の様相は「青春」と呼べるものかしら。無難だけど、しっくりくる。
主人公は、北海道から上京した大学生。大学で勉学に励み友人と同じ屋根の下で過ごす傍ら、幼い頃に亡くなった母親の影響から写真家を志し、都内の公園で「家族写真」を撮影する日々。
そんなある日、たまたま出会ったイケメンサラリーマンから「妻を尾行して写真を撮って欲しい」という依頼を受ける。晴れた日には幼い娘とともに都内の公園を巡る若い人妻を撮影しているうち、好意とも関心とも言える複雑な感情を抱き始める主人公。血の繋がらない姉や元カノといった彼の周囲の人間も巻き込みその関係を描きつつ、人生の「途中」である青春時代の変化と内面とを描いた物語。
著者である小路幸也*1さんの作品を読むのは初めてだったので、「きっとこの中に悪い奴がおるんや!で、最終的には誰かと結ばれてハッピーエンドじゃ!」なんて先の展開をかるーく考えつつ読んでいたのだけれど。
……そんな推測をしていたことが申し訳なるくらいにスッキリとした読後感で、本当に面白かったです。あっさりめの優しい味わいの和菓子を食べ終えたような感触。思わず「ごちそうさまでした!」と頭を下げたくなるくらい。
誰もが優しく暖かな人間関係と日常の中で、降って湧いた「尾行&盗撮」という非日常。その変化を起点として、周囲の人間との交流や距離感の変化を描き出していく形。終始、主人公の独白で語られる文章ではあるものの、その中にも友人たちの心の機微が見て取れるようで、読み進めていて面白かった。まるで「人間はファインダー越しに嘘はつけない」と語る主人公の性格を体現した文体になっているような。
まだ、僕たちは途中にいる。
それは常に歩いていないと、どこかへ向かっていかないと使えない表現だ。
物語中ではっきりと登場するのは最初と最後のみだが、それゆえに象徴的な言葉となっているのが、これ。ライターであり、デザイナーでもあり、ミュージシャンでもある友人がよく使う言葉として序盤に示される、「途中」という表現。
いまだ何者にもなりきれず、そもそも何かの始まりや終わりがあるのかも判別のつかないままに日常を過ごす学生時代を象徴するかのような言葉。きっと今もその延長線上にいる自分にとって、この言い回しは本書を読み始めて真っ先に強く印象づけられた表現だった。
この「途中」という言葉は、写真を生業とする主人公の有り様にも密接に関係しているように読める。ファインダーを覗き込んだ先に見える一瞬を写真として写し出すカメラは、まさしく日々の「途中」を切り取る道具と言えるだろう。ファインダー越しに人間関係を築き成長してきた主人公はまた、その四角い画面の先の被写体に強く惹かれていく。
「誰かのために生きるためには、その誰かさんが必要なんだろうな。二人ともそういう人を求めていたのかもしれない。それは、単に好きとか恋とか愛なんていう言葉じゃ括られないものだろう」
自分が自分として生きるため、誰かを欲する感情を何と表現すればいいのだろう。
リアルで口にすれば「偽善」と一蹴されかねない問いではあるものの、それを真剣に考える誠実な主人公と、彼を応援する友人たちの距離感は読んでいて最高に心地の良いものだった。登場人物全員が魅力的な小説というのも珍しい。
一瞬の「途中」は過ぎ去り、人生は広がって行く
しながわ区民公園。4月某日。
本作品のもうひとつの特徴は、都内に実在する複数の公園が舞台となっている点だ。
ざっと羅列すると――水元公園、 日比谷公園、砧公園、洗足池公園、世田谷公園、和田堀公園、行船公園、井の頭公園――以上。それぞれ訪れたことのある人が読めば、「あ、このベンチはあの辺りだな」というのが想像できるような描写がされており、思わず足を運びたくなるかもしれない。
いずれの公園も週末は家族連れなどで賑わうが、その様子は、言ってしまえば全て「休日」という「一瞬」を切り取った風景だ。
仕事に精を出す平日が終わり、次の平日へと向かうその「途中」の小休止。土曜朝に目が覚めて休日が始まり、日曜夜にサザエさんシンドロームに苛まれつつベッドに入る終わりに至るまでの「途中」の時間。その一瞬を過ごす人たちを見ると、誰もが一様に楽しそうに見える。――もちろん、時には内に抱える何かをカメラが写し出すこともあるだろうけれど。
そもそも、今という時間をこうして過ごしている全ての瞬間が「途中」であるとも言える。
先に挙げた本文中の表現を借りれば、生きているだけで“常に歩いている”ようなものだし、誰もが等しく「死」に代表される“どこかへ向かって”いる途上にある。ただ、その道中でも特に自我が揺らぎ移ろいやすい「学生」を「途中」の代表として、本作品では切り取り描き出しているように読めた。
それら瞬間瞬間の「途中」は、後になって思い返してみればそれこそ一瞬のようなものだったと感じる人は少なくないと思う。そんな儚いものだからこそ、知った顔をしてぞんざいに扱わず、受け流さず、互いに寄り添い合って過ごしている本作の登場人物たちは、誰も彼もが魅力的に“写る”のだろう。全く無関係の作品だが、過去に目にして印象的だった台詞に似たような表現がある。
「道連れとは、何も目的を共有する者だけのことを言うわけではない。例え目指す場所が違ったていたとしても、長い人生、誰かと肩を並べて歩くことはある。それはほんの一瞬の邂逅だ。同時に二度とは巡り会えぬ機会だ。ならばその時は、楽しくやるべきであろう?」*2
たまたま一瞬交わっただけの関係性でも、その「途中」を一緒に過ごせる時間はかけがえのないものだ。後になって、「もっと話をしておけばよかった」「そういえば、あの人自身の話ってあまり聞いたことがない」なんて軽く後悔するのは日常茶飯事。
なればこそ、こうして日常の時間軸の「途中」を再確認させてくれる作品は、とてもありがたいものだと思う。
ひよっこの大学生の日常とは違うものがどんどん多くなっていって、それもまた日常の中に組み込まれていって〈日常〉の幅が広がっていくんだろうか。高校生のときに飲みに行くことが日常だなんて思えなかったように。
そうして過ぎ去った一瞬は「過去」となり、連続する別の「途中」を生きることになる。
自分のよく知る「日常」は変化し、拡散し、また別の一瞬を別の誰かと寄り添い合うことになるのでしょう。過去になればいろいろと思うことはあるかもしれないけれど、一緒に過ごせるその一瞬の「途中」だけは、お互いに楽しく過ごせたら素敵だなって思うのです。
さて、次の週末は、どこの公園に行こうかな、っと。