人見知りの自分は、“文字”による自己表現に頼って生きていく


人とのコミュニケーション云々の悩みはいくつになっても尽きることがなく、折にふれては「やらかしたあああああああばばばばば!!」と自室の壁に頭を打ち付ける日々を過ごす今日この頃。

特に自己開示が苦手な人は、時に「本当の自分」なるものを渇望しがち。本当の僕はもっとできる奴なんだ──とか、褒められてるけど、実は逆にダメ人間なんだ──とか。

そうして悶々とし始めるとネガティブスパイラルに陥り、自他問わずに呪いの言葉を垂れ流し始めるけれど、それはよろしくない。心の殻を破るのです。壁を乗り越えるのだ。少年よ神話になれ。

 

結局のところは、そうしている自分も含めた現状肯定が「本当の自分」の幻想を破るものなのでしょう。

ダメダメな自分、あるいは猫っかぶりな自分、はたまた偽善的な自分を認めてあげることで、まあなんとかやっていこうぜ、的な。そういう意味での「自己啓発」はありっちゃありだと思うぜよ。

 

他方、現代には様々なコミュニケーションツールが溢れかえっているだけでなく、自己開示の手段も多様化しているような状態にも見える。無論、その多様性ゆえにリテラシーの断絶が発生していることも否めないのだけれど、それはまた別の話。

「本当の自分」はいないとしても、自分で自分を“それっぽい”と認められる「等身大」の自分を表現するコミュニケーション手段。そんなものの話。

 

“話せる人”に憧れるだけの人生だった

僕がたびたびこの手の話題について考えたがるのは、自分が明らかに「話せない」側の人間であり、そのことについて並々ならぬ引け目や劣等感を抱いていることによるものなのでしょう。

 

僕にできるのは、集団に溶け込み、空気となることだけ。それも一種の「コミュ力」かもしれないが、そこで空気となっていては、全く意味を成さない。

なんとなくそこにはいるけれど、何の主張も意思も表明しない、でくのぼう。集団の生み出す“空気”に操られ、最低限の役割をこなすだけの存在。“空気”に抗い、場の流れを変えるだけの信念も持たず、同じことを繰り返すのみの村人A。ここははてな村だよ。ここははてな村だよ。

「話せる人」に憧れるだけの人生だった - ぐるりみち。

 

思うこと、感じること、考えることがあっても、それを口に出すことができない。それを声にして発することで周りの人がどう思うか、そして自分がどう思われるかが気になってしまって、何も言えなくなってしまう。

話し合いの場でも同じ。「誰かが言ってくれるだろう」と人任せにして、机の隅っこで頷きマシーンと化しているのがテンプレ。そうですね!僕もそう思います!いいですねー!せやな。それな。

……だいじょうぶ。「はい」「いいえ」しか言えないRPGの主人公よりは語彙力あるよ、うん*1

 

だから僕は、「話せる人」をすごいと思うし、ずっと憧れていた。補足すると、“明確に自分の信念や主張といったものを持っており、その場その場に応じて、それを論理的な意見として発信・話すことのできる人”といったところかしら。

テレビ番組やラジオ番組でのトークや議論を聴いていても、あれだけ次々と、ポンポン言葉が出てくるのを見て、ほえ〜っ、と嘆息せずにはいられない。僕には無理。すぐに反論なんて出てこない。まるで、型落ちのパソコンみたいだ。ロードに時間かかりすぎ。

「話せる人」に憧れるだけの人生だった - ぐるりみち。

 

ポンコツな自分のメモリを増設したい。 人間の機械化、はよ。

 

目に見える「文字」に頼って生きてきた

それでもやっぱり、コミュニティに所属していれば自分の主張を通すべき場面もあったり、逆に自分の意見をその場ではうまく伝えられないこともあったり。いつもいつでも、壁ドンしているわけにはいかないのでござる。壁に頭突きしたって、ひるんでくれないよ。

 

そんなときに頼っていたのが、目に見える「文字」の存在。
思い返してみれば、要所要所で、僕は「文字」に頼って生きてきた。

 

転校の多かった小学生時代は、手紙と年賀状が遠くの友達との連絡手段。今となってはびっくりするほどアナログだけど、便箋を自分の「ことば」で埋める時間は楽しいものだった。あと、お絵かき。ポケモンとスライムしか書けなかったけど。

中学生になってインターネットと親しみ、チャットとメールを覚えた。メールはもちろんのこと、チャットでのやり取りは対面と比べれば「考える」時間があるので、自分の考えを言語化しやすい、ぴったりのツールでございました。あとは前略プロf……ゲフンゲフン

 

高校時代は、モバゲーやmixiのSNSがマイホーム。マイミクがドン引きするほどに長文の日記を日常的に投稿して、好きなマンガや音楽、思ったことを好き勝手に書き散らしていた。今のブログの文体は、その流れを汲んでいるものだと思う。

大学でもそれは変わらず。サークルで作っていた機関誌にこだわってみたり、レポートの課題が割と好きだったり。好きな子に中途半端な告白をかましてしまい、後で長文メールを送ってしまった黒歴史。つらい。相手も理解があったっぽいから良かったけど。

 

そんな過程をもって成長してきた自分が、「ブログ」なるものを楽しむようになるのは、当然の帰結だったのかもしれない。

僕の場合、対面で会話するよりも電話越しに話すよりも、「文字」を媒介として自分の考えを言語化した方が伝えやすいし、おそらく伝わりやすいんじゃないかと思う。その点、自分の「等身大」を示しやすいのは、「文字」なんだろうな、と。

もちろん、雑談などの簡単なやり取りを始めとして、総合的に見れば対面コミュニケーションに勝るものはないと思うけれど。それでも、特定の話題についてまとめて考えを示そうとするのなら、文字が一番まとめやすいように思います。僕は。

 

 

コミュニケーションと自己表現の形は様々

いまさら書くまでもないことなのだろうけれど、何も対面コミュニケーションが苦手だからって絶望することもないと思うんですよ。

「文字」に頼ったっていいし、「音声」に頼ってもいい。ブログもあればTwitterもあり、YouTubeもあればツイキャスもある。はてなもニコ生もあるんだよ。

 

双方向的なコミュニケーションに限らず、自己表現のしやすい媒体、しにくい媒体というのは人それぞれ昔からあったはず。

口下手な小説家だとか、やたらテンションが高くて我の強い画家とか、音楽家とか、詩人とか、そんな「表現者」のみなさん。それが今はよりお手軽にできるわけで、ブロガーとか、YouTuberとか、ニコ生主とか、人気のある人もたくさん出てきてる。

 

自分がどんなコミュニケーションをするのが好きなのか、楽しいのか、っていうのは各々が分かっているはずなので、あとはちょっとその媒体・サービスの環境に合わせれば、誰もがそこで自分の「ホーム」を作れるのが現代のネットなんじゃないかしら。

アルファブロガー*2やトップYouTuberを目指す必要はなく、自分とその周囲の仲間と楽しむような規模感で。それなら、多くの人が自分の「等身大」を示せる「居場所」を作れるんじゃないかと思う。

 

そりゃあ突き詰めれば最強なのは「対面」だと思うけど、そっちは日常的な部分を最低限こなせれば、他のものに頼ってもいいと思うのです。……ただ、最近はその“最低限”のコミュニケーションのハードルが高くなっているような気がしなくもないですが。

他方では、あまりひとつのコミュニケーションに依存・特化しすぎるのも怖くもあるけれど。

僕の場合、苦手なコミュニケーションと言えば「電話」がそうで、かと言って特に好きな「文字」に依存しすぎていることもない……はず。文字の「伝わらなさ」は身を持って経験しているので。告白メールとか。

 

 

とは言え、いつまでも口下手ではいられないというか、それで周囲に迷惑をかけるのも申し訳ないのでどげんかせんといかんとは思うのですが、悩みどころ。

1対1ならいいんすよ……5人以上になるとキツいんすよ……。いや、3、4人でもダメなときは明らかにダメですが。

 

らしさ って何ですか?
ちっぽけな自己満足のことですか?
繰り返される 言葉に
答えはありますか?

初音ミク・鏡音リンオリジナル曲 「園庭想空の女少」 ‐ ニコニコ動画

 

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*1:彼らのような圧倒的決断力も欲しいけど。

*2:死語?