「友達」とは?良くも悪くも自由自在な、究極の消費コンテンツ


 ──「友達」とは何ぞや。

 人間関係に悩んだことのある人ならば、大半が考えたことのあるだろう問いかけ。でも結局、「友達」が何かを定義したところで別に何かが変わるでもなく、「まあ、あれだべ。お互いに『友達』って認識してりゃそういうこったべ」的な解答に落ち着くんじゃないかしら。

 20歳も過ぎた今更、そんな「友達とは!」なんて考えたところで、別段に意味があるとは思えないけれど。しかし、無職で人付き合いも希薄になりつつある今だからこそ、思いつくこともあるんじゃないかと思いまして。はてさて、「友達」って、なんだべ?

 

「友達」は、どでかいマジックワード

 「友達」ほど便利な言葉も、なかなかないと思う。血縁関係や組織の上下関係を除けば、ほぼ全ての「ある程度は親しい間柄」=「友達」と言っても差し支えはないんじゃないだろうか。

 

 学校で話す人は、友達。
 塾で勉強を教えあう人も、友達。
 同じサークルに所属している人も、友達。
 顔は知らないけど、ネット上で絡む人も、友達。
 会社の同僚も、友達。
 ボールは、友達*1

 

 会社の同僚については、プライベートで積極的な付き合いがない限りは、「同僚」としか言わない人も多い気はする。それ以外に関しては、「クラスメイト」や「サークル仲間」と別の呼び方をすることもあれど、広義の「友達」として認識しているんじゃないかな。

 また、同じコミュニティ・グループの中での友達関係においても、一人一人について抱く感情は、明確に異なっているはずだ。

 

 その人がいないと寂しい、いなくても寂しくない。そんな、感情の度合いにかぎらず、尊敬の情念を持っていたり、逆に格下として見下していたり。特別に気の合う「相棒」的な人もいるかもしれない。それらに差はあるが、みんな等しく「友達」だ。

 何にでも使える便利な言葉、と考えれば、「友達」もひとつのマジックワードと言えるだろう。あまりに身近すぎて、定義するまでもない、というのが実際のところのような気もするが、あらゆる場面で使える単語という点では、確かに便利なものだと思う。

 

「友達」という踏み絵

 そんな便利な「友達」という言葉は、周囲が友達に囲われているときは安心のする壁だが、一度そこから弾かれれば、戻ることのできない強固な城壁として立ちふさがる。

 特に小中学生、高校生でもありえると思うけれど、「友達」を盾にして相手を思い通りに動かそうとする人は、必ずと言っていいほどにどこの学校、学年にも存在する。

 

 「ふーん、ぼくたち、ともだちなのに、いうこときいてくれないんだー」
 「そのCD貸してよー、いいでしょー?ね、だって、私たち、友達だよね?」
 「今日来れないとかありえねー、もうお前とか友達じゃねーわー」

 

 などなど。ねぇ、知ってる?「俺たち、友達だよな?」と言いながら何らかの要求を押し付けてくる人は、友達じゃないんだよ。これ、豆な。

 

友達だから、仲間だから、だから何を言ってもいいし、何をしてもいい。そして、その言葉の裏には「それができないなら仲間ではない。したがって敵である」という意図が隠然と込められている。こんなものはただの踏み絵で異端審問だ。*2

 

 関係の親密さは、時に刃と化して突き立てられる。友達の輪は、その中で、みんながほどほどに妥協しつつ、ほどほどに心地の良い空間でなければならない。ゆえに、その輪を乱せば弾かれる。小中学生の教室では、常にそんなせめぎ合いがなされているんじゃないかしら。おお、こわいこわい。

 

“20代前半無職”の僕の交友関係

 しかし、そんな見せかけの友達の輪は、その輪を構成する前提がなくなれば、あっという間に瓦解するものだ。成人した今、過去の友人関係を辿ってみて、果たしてどれだけの繋がりが現在も残っているだろう。

 僕の場合は、小学校まで転校が多かったため、幼なじみのような存在はおらず、築かれた交友関係もほぼ残っていない。……だから、ラブコメの幼なじみとか超憧れるんですけどね!毎朝起こしてもらって一緒に投稿するとかなによ!何次元の話だよ!二次元だよ!

 中学の友達も、残っているのは2、3人といったところ。それも、年に1回連絡をとるかも怪しいレベル。まあ就職しちゃえば、家が近くない限りはそんなもんよね。高校も同様。

 

 大学までくれば、一応はちゃんとした「友人関係」が続いている。たまーに誘い合って飲みに行くこともあるし、SNSで互いに生存確認はしている。これから会う機会は減っていくんだろうけれど、細く長く続いていけばいいなーと思う。

 現在、最も頻繁に会って遊んでいるのは、ネットの友達。もう4年ほどの付き合いになるので、もはや「ネッ友」というよりはリア友のようなものだけど。月1以上で会っているし、アホみたいに遊びまわっている。もうひとつ、別のネット繋がりでは、7年ほどになる関係があるが、年2回は会うペースで続いている感じ。

 

 そう考えてみると、学業を終えて社会に出るまでの友人関係、「友達」は、非常に限定的なものだったんだなー、という印象が強い。

 それは、学校という同じ「空間」で、同じ「時間」を過ごしていたから繋がっていたに過ぎない。卒業し、それが失われてしまえば、関係性も自然消滅してしまうような、曖昧模糊としたもの。自ら、繋ぎとめようとしない限りは。

 

「友達」という究極の消費コンテンツ

 時の流れと同時に、新しく生まれては、過去の関係は消えてゆく、「友達」という存在。言うなれば、どのように付き合うかも、どこまで踏み込むかも、いつまで続けるかも自由自在の、究極の消費コンテンツ、それが「友達」なんじゃないだろうか。

 こう書くと、「友達を消費物として見るとはけしからん!」とか、まるで僕が血の通っていない冷血動物だと思われるかもしれませんが、そんなことはないですよ?たぶん。昔から好きなコンテンツは、今も大切に残してあって、読み返したり観返したり聴き返したりしているし、それは人間関係でも同様のつもり。

 

 むしろ、いいように使われてポイされた経験がある身としては、そうでも考えないとやっていけない。そう、私はスルメ。噛めば噛むほど味が出るけれど、いずれは消化されて消えてしまうの。そして、排泄物となってバイバイするのよ。嗚呼、あはれ。

 いずれはいなくなるもの、だから、適当に付き合うのが良いというわけでもなく。先のことは分からないのだから、今現在、「友達」であると、そう信じている相手と、最大限に楽しく付き合っていく方が、よほど健康的なんじゃないかしら。

 

「道連れとは、何も目的を共有する者だけのことを言うわけではない。

 例え目指す場所が違ったていたとしても、長い人生、誰かと肩を並べて歩くことはある。

 それはほんの一瞬の邂逅だ。同時に二度とは巡り会えぬ機会だ。

 ならばその時は、楽しくやるべきであろう?」*3

 

 

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