いまだにファクス……日本人の情報技術に対する捉え方を象徴してるようにも。/ハイテク日本はなぜファックスを使い続ける? 高齢者の執着が要因と海外紙分析 http://t.co/yH6YwnQ9MI
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2014年4月17日
しかし日本人って本来は臨機応変、新奇なものはすぐ採り入れる新しもの好きの国民性のはずなのに、なんで今、こんなに変化を厭う人が多いように見えるのだろうか。
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2014年4月18日
朝方、佐々木俊尚さんのツイートが目に留まった。思い当たる節はある。ここで挙げられている情報技術にしてもそうだし、企業などで見られる、どう考えても無駄な「伝統」のようなものもそうだ。
たしかに、古くから続いてきた文化や風習を守るのは、大切なことだとも思う。けれど、いつまでも時代錯誤の技術や習慣を続けていては、新しい環境に馴染めず、周囲に取り残されてしまいかねない。外との付き合いのある国や企業などは特に。閉鎖的な山村、孤島などならともかく。Yes, Hinamizawa.
「古き良き」を守り続けることも意義あることだ。しかし、技術にせよ、制度にせよ、慣習にせよ、これまで「当たり前」だったからという理由だけで盲目的にそれを信奉していては、いずれ腐り落ちてしまいかねない。人も社会も常に変わり続けているのだから。
にも関わらず、そんなにも「変化」を嫌う人が多く見られるのは、どうしてなんだろう。
「これからも大丈夫」という幻の安心感
上の世代の話を聞いていると、「これまでもうまくいっていたのだから、この先も問題ないだろう」という主張をよく耳にする。……この自信は、いったいどこから溢れでているんでしょか。
実際、「現状維持」がベストである場合も、往々にしてあるとは思う。年の功というか、長年の経験による確信や直感。下手に時代に合わせて物事を動かそうとするよりは、それまで培ってきた「安定」を信頼し、それに頼る。結果として、それが正しいこともあるだろう。
小さなことであれば、その感覚も信じられる。会社員として働いていた頃、「こうやった方がいいんじゃないっすか?」と業務の効率化について(生意気にも)提案をしたことがあったけれど、「とりあえず従っておけ」という先輩の助言を信じたことで、その「正しさ」を理解できた。
しかし他方では、これなら勝手にやっても迷惑がかからんだろう、と勝手に「自分のやり方」をゴリ押ししたことで、想像以上の良い効果を生んだこともあった。
簡単に言うと、インターネット周りの工夫。やはり「ねっとはよく分からんし、覚える気もない!」という上司も少なからずいるもので、「無理にやる必要もないだろう」と完全にスルーされていた。その辺をちょちょいとやってみたら、良い結果をもたらしたこともあったので、一概に「変化が悪い」とは言い切れない。
歴史を振り返ってみても、それまでの体制が崩れる原因となったのは、「今まで大丈夫だったんだから、これからも問題ないべさ!」という慢心にその一端があったのではなかったか。慢心、ダメ、ゼッタイ。
企業活動にしても、消費者のニーズの変化に目を向けられず、時代と需要に合わせた他社の新商品に全てを持っていかれ、事業縮小に至った企業も多かれ少なかれあったのではないか。
「これまで」を盲信するあまり、周囲の変化に気付けず取り残されてしまっては、元も子もない。絶対的な「安心」なんてものは、幻だと思う。
「安定志向」という呪縛
翻って、若い世代はどうかと言うと。僕らゆとり世代は、よく「安定志向」だと評される。ゆとりなんて一括りにするのはどうかと思うし、それに勝手なレッテルを貼られるのも懲り懲りだけど、実際、僕の周りにはそんな人が多いので。
僕らの世代が育ってきた時代は、常に社会が「不安定」だった、と言われる。バブル崩壊に始まり、度重なる自然災害、終身雇用制は消え失せ、払っている年金が返ってくるかも怪しい。なにこれ、夢も希望もないじゃないですかー。
ゆえに、「安定」という名の青い鳥を求める。そんなものは、どこにもないらしいですが。「公務員がいいらしいよ!」と聞いて、そこそこ人気だとは言うけれど、それもピンキリだし、この先どうなるかは分からない。神のみぞ知るなんちゃら。
それでもやっぱり、「安定」を夢見ずにはいられない。「さとり世代」なんて、またよく分からない言葉もありますが、現実を悟りつつも、夢を見ずにはいられないのです。じゃなきゃ休日、おっさんおばさんに混じって若者がパチンコに繰り出すこともないでしょう。
就活生もそうだし、既に社会で働いている若者もそうだし、ドロップアウトした無職もそう。「安定志向」なんて呪縛はちゃちゃっと解呪して、「変化し続けること」を受け入れるしかない。夢見る少女じゃいられない。辞めたくなったら辞めりゃいいんすよ。でも、先の計画はしっかりと。
この日本社会がブラック企業を生むなら……みんな辞めるしかないじゃない!
変わってみても、いいんじゃね?
人が「変化」を拒むのも、「これまで」という過去を盲信してしまうのも、それが大きな安心感を生むものだからだと思う。変わってしまえば、先のことは分からないし、不確定な未来を想像するのは怖い。
「過去」は得てして美化されがちなものだし、長い時間の連続で構成されるそれは、言わば「圧倒的大多数」だ。目には見えないけれど、「これまで」の時間で認められ続けてきた実績があるので、それが多数派であると信じて疑わない。たとえ今、それが少数派だったとしても。
みんな、怖いのだ。
大多数の側にいると、多くの人は安心する。自分がいま立っているところは「正しい」場所なのか。そんなことは、考えようともしない。ただ大多数の側にいられさえすれば、それでいいのだ。
過去を美化するのは心が弱った証拠だ。
昔の栄光を語りたくなるのは心が老いた証左だ。
誰かを下に置いて安心したくなるのは弱くなった証だ。
「未来」を考えるとき、人は、正と負、2つのパターンの感情を持つのだと思う。
ひとつは、未来を「夢見る」プラスの感情。素敵な何かが待っていると信じて、わくわくする心持ち。もうひとつは、「不安」というマイナスの感情。何が起こるか分からない。今以上に悪くなるんじゃないかという疑念。
皆が「変化」に躊躇してしまうのは、社会全体が大きな不安に苛まれているせいなのかもしれない。今が不安定だから、この先もきっと良くはならないんだろう。そんな、一種の諦めにも似た思い。
かと言って、「今が最悪だからこれ以上は悪くならないっしょ」というのも、現実逃避に近い。「安定志向」と同様、漠然とした希望を未来に託しているに過ぎず、ただそのように信じているだけでは、どうにもならない。何らかの行動を起こさなければ、明確な「変化」は訪れない。
過ぎ去ったことは、もはや言うまい。かえらぬ月日にグチはもらすまい。そして、今まで他に頼り、他をアテにする心があったとしたならば、いさぎよくこれを払拭しよう。大事なことは、みずからの志である。みずからの態度である。千万人といえども我ゆかんの烈々たる勇気である。実行力である。
思うに、「変化」を嫌うあまりに、お互いに足を引っ張り合っているのが、日本社会の現状なんじゃないかと思う。あれはだめだ、これはだめだ、となんでもかんでも批判して、ひたすら現状維持を図っている感じ。とりあえず否定しておけば、それに乗っかってくる人もいるだろうし。
どんなことでも、試してみないことには何も始まらない。できるだけ損をしないように、失敗を回避するべく全力を尽くすのもひとつの手だとは思うけれど、それで身動きがとれなくなってしまっている人もたくさんいる。だから、なにはともあれまず行動、「変わってみてもいいんじゃね?」という意識を持てるようになるところから。
倒すべき敵って、なんでしょうね?
既得権益がどうこうというよりは、「変わらない意識」かな。「変わらなくてもいいんじゃないか」という日本人の意識。すべてを変えればいいというわけじゃないですけど、いやいや、これは変えないとまずいでしょ、というようなことを放置したまま変わらない、むしろ変えずに留めようとしている人たちというのが、僕にとっての敵なのかもしれません。