小さなころから本を読むのが好きだった僕は、小・中・高校とずっと、国語の授業も同じように好きだった。新しい教科書が配られたら、その日のうちに、収録されている文章を読み切ってしまうくらいに。
その一方ではは「道徳」の授業も好きで、週一度の授業を心待ちにしていた記憶がある。周囲を見れば、「道徳が好きだー!」と声高に叫ぶような人は見たことがない、マイナーな教科ではあるけれど……なんとなく好きだったのよね。そんな話。
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割と「自由」な雰囲気だった道徳の授業
周りの人に「道徳の授業って、どんなことやってた?」と聞くと、人によってまったく違う答えが返ってきておもしろい。
「国語の授業と変わらなかった」という人もいれば、「ディベートのようなことをやらされた」という人、「ひたすらNHKのビデオを見てた」人、「道徳の時間は別の授業をやってた」という人――などなど。最後のようなケースはなかなか聞かないので、びっくりした。
教師側の事情はわからないけれど、「道徳」の時間は、先生によってまったく異なる内容の授業をやっていた印象が強い。
自分の場合、低学年のころはテレビやビデオがを使った授業がメインで、映像ネタが尽きたら「じゃあ教科書開いてー」なノリだったように覚えている。『ざわざわ森のがんこちゃん』は鉄板。
中学年〜高学年になると、教科書を使いつつ、たまにディベートのようなことをしていた思い出。2つのグループに分かれたら、教室内の机を向かい合わせて議論タイム。テーマによっては、休み時間にずれこむまでに議論が盛り上がることもあり、楽しんで参加していたことを覚えている。
ほかには、新聞記事のコピーを読んで意見を言い合ったり、あらかじめ提示されていた短編に関して話し合ったりする場合もあった。――今となって考えてみると、ここまでするような先生は、かなり教育熱心な方だったのかもしれない。
このように、ある程度の「解答」が示される国語の授業とは違って、道徳の授業には「自由」な雰囲気があったように思う。ビデオを見るのは単純に楽しいし、ディベートにせよ新聞記事にせよ、それらには教科書のように特定の「答え」がない。
AかBか、またはCか――と複数の意見を出しながら道徳の授業が進んだ場合は、それぞれの考え方に対して最後に先生がフォローをし、うまくまとめていたように記憶している。
僕ら生徒のあいだの雰囲気としては、なんとなく「多数派が正しいのかなー」というものがあったのだけれど、最後に先生が「でもこっちの考え方にはこういう良いところがあって――」と補足してくれていたため、ほぼ全員が納得して終われるような空気があったように思う。
え? 何を言ってもいいの? やったー!
当時の僕はと言えば、運動神経は悪いけれど、クラスの優等生的な立ち位置だった良い子ちゃん。ただ、それなりに成績が良いと、プライドというか完璧主義というか……負けず嫌いな気持ちが前面に出てくるもの。ここぞとばかりに、道徳の授業でも積極的に発言しておりました。
たまたまクラスに議論好きが多かったのか、それとも先生の指導が良かったのか。道徳の授業は、ほかの教科と比べても段違いに盛り上がる時間だった。黙々と先生の話を聞き、板書をノートに写し取るだけのような他の授業と異なり、道徳の時間はいつもわいわいがやがや。
「勉強は苦手だけど、口では負けたくねえ!」という体育会系スポーツ少年もいれば、「運動神経抜群のイケメンにはここで勝つ!」とプライドの高いガリ勉くん、「お前ら俺より目立ってんじゃねえよおおお!俺が正しいんだし!」という見栄っ張りっ子もいた。
――あ、もちろん、女子陣も活発でしたよ! 論理性と口の強さの前に、男子共はたじたじでございました。べ、別に負けてねえし! 涙目になんかなってねえし!(´;ω;`)
そんなこんなで、僕にとっての道徳の時間は「みんなが好き勝手に話し合う時間」という印象が強い。普段は大人しい子でも、議論が紛糾したときに鋭い突っ込みを入れてくれるといったことがしばしばあり、クラスメイトの個性が際立つ時間でもあったのかもしれない。
主張の補強、鋭い指摘と、揚げ足取り
道徳の授業の良いところのひとつに、「突っこみどころの多さ」があると僕は思う。
と言うのも、基本的に「答え」がひとつしかない教科では、ひとりが正解を答えてしまえばそれで終わり。ひとつの「正解」があらかじめ決められており、みんなの目の前でそれを導き出し、目立つことができるのはひとりだけ。
しかし一方で、決まりきった絶対的な「正解」のない道徳の授業には、驚くほどに突っこみどころが多い。ひとつの意見に対して、十人十色の視点から「突っ込む」ことができる。
例えば、主張の補強。
「私はこういう理由でこう思います!」と誰かが発言したときに、「あっ、僕と同じ意見だ!でも、僕とは少し考え方が違うかも」と気付けば、その主張の補強として、自分の考えを述べることもできる。「◯◯さんに賛成です! でも僕は、このような理由で考えました」といった形で。
ほかには、反対意見の表明や、複数の意見を考慮したうえでの鋭い指摘、言い換えなども。
誰かの主張に反対ならば、「異議あり!」と反論することができるし、その反論だって、さまざまな視点から考えることができる。また、多様な主張が飛び交いすぎてごちゃごちゃになってきたときには、「それってつまり、こういうことだよね?」と意見をまとめたり、わかりやすく言い換えてくれる人が出てくることもある。要するに、「こうだ!」と強い主張ができなくても、他者の主張に「突っこみどころ」さえ見つけることができれば、その人にしかできない役割を果たすことができる。
あとは、揚げ足取りなんかもありますね。
言い間違いや主張のわずかなブレを突いてくる、時として嫌らしく見える突っこみ。これは、突っこみどころが多すぎるゆえの弊害とも言えるけれど、そんな揚げ足取りから学ぶことも多かったように思う。「ああ、この言い方だと突っこまれそうだな」とか。……そもそも「揚げ足取り」という言葉を学んだのが、道徳の授業だったような気もする。
道徳というか……ディベート?
ここまで好き勝手に書いてみたけれど、これって、世間一般に言う「道徳」の授業とは違うものなんじゃないだろうか……とふと思った。
「道徳の授業ってどんな感じだった?」なんて、あまり深く突っこんで他人と話したことがないので、実際はどうなのかわからないけれど……。でも、少なくとも僕が経験してきた「道徳」は、「ディベート」と置き換えたほうが正しいのかもしれない。
――とまあ教科の名称はさておき、この授業の時間で学んだことは多いように思う。一口に言えば、ほかの教科以上にクラスメイトと意見を交わすことで、「自分で考え、疑問を持ち、主張する」という一連の流れを身に着けることができたような印象です。
ところで「道徳」と言えば、小中学校で「特別の教科」に格上げされるということで話題になっておりました(参考リンク:「特別の教科」に格上げ…道徳 : 教育 : 読売新聞)。その目的として「いじめ対策」にが挙げられているそうですが……うーん、どうなんだろう。
僕の受けてきた「道徳」の授業について考えてみると、普段の授業とは違う、ひとつの特別な「場」となっていたようにも思う。勉強や運動の得意・苦手などに関係なく、誰もが自分の主張を発表できる場所。たしかにそういう意味では、いじめの温床となりがちな閉鎖的な教室空間における、一種の緩和剤のような役割を果たしていた……のかもしれない。
いずれにせよ、マイナーで自由な「道徳」の授業には、マイナーなりの良いところもあるんじゃないかと思います。僕にとってのそれは「楽しい教科のひとつ」だったけれど、ほかの人はもしかしたら別の印象を持っているのかもしれない。――あなたにとって、「道徳の授業」はどのようなものでしたか?