思い出補正と、いつの世も不変の「作品」から受けるイメージ


思い出補正(おもいでほせい)とは、昔経験した内容が美化されることを意味する2ちゃんねる用語である。主にアニメや映画、テレビゲームなど昔の作品が思い出により補正され面白く感じている現象のことを指す。

思い出補正とは - ニコニコ大百科

 「思い出補正」という言葉がある。過去の楽しかった思い出、良い記憶は、得てして美化されるものである、というような。まだ僕は、20そこらの若造だけれど、子供の頃に好きだったゲームをプレイして懐かしくなったり、大好きだった音楽を聴いて「これだよこれ!」と感じるようなことは多い。

 音楽にせよ、映画にせよ、小説にせよ、自分が昔、好きだった作品に久しぶりに触れて、大きな感動を呼び起こされるという経験は、多くの人がしたことがあるはずだ。それは、とても気持ちの良いもの。

 しかしその一方で、「あれ?こんなんだったっけ?」と違和感を覚えることもある。作品そのものは不変であるにも関わらず、何かが違うような、そんな気がする、してしまう。

 その瞬間、僕らは自覚することになる。ああ、変わってしまったのは、自分の方なのだ、と。そうして、センチメンタルに浸るのも悪くはない。幼い頃から常に僕らの傍にあり、そのような気付きを与えてくれる「作品」。確かに自分は「変わった」と感じた。ならば、その変化はどのようにもたらされたのか。どのように変わったのか。

 今日はそんな、作品と僕らの関係性について考えてみようと思う。

 

「補正」され、「美化」された「思い出」

 テレビを見れば、「◯年代の名曲ランキング」のような番組も定期的に放送されているし、最近は、映画や小説、名作と呼ばれる作品のリメイクなどもしばしば見かける。決して「今」が悪いというわけではないが、僕らは過去を美化して、懐かしむことに一種の快感を求めがちだ。

 「補正」や「美化」という言葉が示すとおり、そこには強いバイアスがかかっている。どうでもいいこと、嫌なことには目を瞑り、感動だけが蘇ってくる。それはとても気持ちの良いものだけれど、だからと言って、「でも最近の◯◯は……」などと言うのはよろしくない。懐古厨だの老害だの言われまっせ。

 思い出の作品に触れて、「やっぱり良いなあ」「いつ観ても(聴いても、読んでも)いいなあ」と感じるのは、過去、その作品に触れた時の体験が、感覚が、感動が蘇ってきて、今の自分を底の方から揺り動かすからだと思う。一方、そんな「感動」以外は忘れてしまっている模様。だって、気持ち良くないんだもの。

 例えるなら、自分の奥底に眠っていた「思い出くん」が、下から手を出して、「ほれほれー!これがいいのんか!これがええんやろ!分かっとるでー!」とくすぐりにきているのを、「ああっ!そうっ!これよっ!これがいいのよおおおおお!!」と、喘がされているような状態。

 僕らは皆、思い出くんというテクニシャンに良いようにされているのです。「感動」のツボだけをピンポイントで突いてきて、他の「嫌な」「どうでもいい」ことのツボは、完全にスルー。なんというテクニック。悔しいっ……!でも感じちゃ

違和感は、気付きを得るチャンス

 ところが、思い出くんも百戦錬磨ではない。「ここがええのんk――なにぃ!?効かない……だと……!?」といったことが、しばしば見受けられる。昔は良いと思っていた作品に触れても、喘がない。そう、ツボが変わってしまったのです。

 人間、成長すれば、考え方も感じ方も自然と変わってくるもので。当時はめちゃくちゃ感動したのに、どこか陳腐に見えてしまったり、昔は共感できた点が、今ではそうでもなかったり。そのように、「補正」が効かないような場合も、往々にしてある。

 逆に、ツボが変化していることもある。「こういう解釈もできそうだ」とか、「大嫌いだったはずのキャラが、めっちゃ好きになった!」とか。昔は気付けなかった点に気付けたり、物語の捉え方や、登場人物の好き嫌いが変わったり。

 このような「変化」は、ある意味で、ひとつのチャンスだと僕は思う。なぜ変わったのか。どのように変わったのか。それらを考え、検討してみることによって、自身の考え方や価値観の変遷、思いもよらぬ「気付き」を得るに繋がるのではないだろうか。

 ひとつ、例を挙げてみよう。話の筋が明確で、解釈も多様にできる、しかも多くの人が読んだことのあるだろう作品として、ここでは夏目漱石『こころ』について、考えてみる*1

 おそらく、中学国語の授業で大半の人が読まされたであろう、『こころ』。それを読んで中学男児が考えることといえば、「失恋して自殺とかww」「登場人物、全員メンタル弱すぎだろww」のようなものだと思う。いえ、決してバカにしているわけではなく、僕がそうだったので。「精神的に向上心のry」はどのクラスでも一瞬、ブームになる。

 ところがどっこい。大人になった今、読んでみると、人によって驚くほどに解釈が違ってくるからおもしろい。失恋を経験して「分かるわー」と共感しまくったり、「Kがまっすぐ過ぎて辛い…」と汚れつちまつた自分に絶望したり。ちなみに僕は、大学時代に読んだ時に、「『私』とはなんだったのか…」と考えたような記憶が。

 そもそも、中学生の頃にそんなに深く考えていたとも思えないので、この例は極端かもしれない。けれど、自分がそれまでに積み重ねてきた固有の「経験」があるがゆえに、今と昔で、作品に対する解釈・考え方が異なっているということは、疑いようがない。

 その「経験」が人によって異なり、全く違った価値観を育んできたからこそ、同一の作品に関しても、人それぞれ固有の、違った感想や感動を抱く。当たり前といえば当たり前。だが、それが同一人物であるはずの、「過去」と「現在」の自分にも適用されるというのは、考えてみると、なかなかにおもしろい話だ。

いつの時代も「不変」の作品が、僕らに教えてくれること

 言うまでもなく、「作品」は基本的に不変のものだ。文学にせよ、芸術にせよ、音楽にせよ、映像にせよ。それ自体が実態として存在しているものはもちろん、形ある媒体に記録さえされていれば、変化することはありえない*2

  そんな、不変のものであるからこそ、作品たちは、僕らに「変わったこと」と「変わらないこと」を教えてくれる、貴重な存在だ。久しぶりに触れて、作品に対して感じる感情が異なってしまっていることに気付き、「自分も変わったのだなあ」とおセンチな気分になったり、自分が歳をとっても、いつも同じ感動を与えてくれる作品に安心したり。

 言うなれば「作品」は、外にありながらにして、その瞬間の自分の「内面」を測り、炙りだしてくれる、「価値観計測器」のようなもの。そう考えると、悩んだ時や辛い時に、ふと自分の好きな作品を手に取って触れてみることは、自分を見つめ直す意味で、とても効果的な対処法なのでは。

 これは、就職活動における「自己分析」にも当てはまるかもしれない。よく「他己分析」といって、多くの人に自分を分析してもらう手段が推奨されるが、それよりも、自分が作品に触れて感じたこと、考えたことを書き出し、その思考の根本にあるもの、基となったものを分析してみる方が、やっていて楽しそうだ。

 「変わったこと」を自分なりに分析するのもおもしろいが、「変わらないこと」について考えてみるのも悪くない。いつ触れても同じ感動を与えてくれるということは、その「感動」が、昔から変わらない、自分の価値観の根っことなっているものかもしれないからだ。それを把握しておくことは、「自分を知る」上で大きな力になるはずだ。

 でも逆に、そんな思い出くんが、「ほぉら……俺に身も心も委ねて、楽になっちまえよ……子猫ちゃん……(イケボ)」と襲ってきた時に、「あなたには……負けないっ!!」と立ち向かってみれば、自ら気付きを得ることも可能かもしれない。つまり、自分で「変化」を読み取ろうとする視点を持つことだ。

 自分と作品との関係性を考えてみることは、作品の解釈を試みるのと同時に、自分を知ろうとする作業でもある。感覚的に、純粋に作品を楽しむことも良いけれど、たまにはちょっと、深く踏み込んで、思い出くんと戯れてみてはどうでしょうか。

 

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*1:夏目漱石『こころ』(青空文庫)

*2:新訳版、リメイク版、アレンジ版などで、若干、形を変えている可能性はあるけれど