『ビタミンF』を読んで思うこと


 ビタミンは身体にとっても重要な栄養素。

 風邪をひいた時には、ビタミンCを摂取するのだよ! みかんを! みかんを食べるのだ!(挨拶)

 読んだのはかなり前になるけれど、今日は重松清さんの著作、『ビタミンF』(新潮社)を読んで考えたことをつらつらと。

 

 

 「家族」という集団を考えたとき、最も理解が難しく、複雑な位置付けにあるのが「父親」なんじゃないかと僕は思う。理由は単純だ。日中は仕事に出ていて、家にいないから。また、昔から “一家の大黒柱” として頼られる存在ではあるが、その辛さや思惑は他の家族に伝わりにくい面がある。ぶっちゃけ、何を考えているのか分からない。このことは本作の物語のひとつ、「かさぶたまぶた」を見ても明らかだ。

 しかしその一方で、自身の少年時代を思い返してみると、その思い出の中にはいつも父親がいる。休日に遊んだ記憶、家族で遠出した記憶など。一緒にいる時間の長い母親と比べると、ひとつひとつの思い出が印象的だ。それらは子供にとっても大切なものであると同時に、父親にとっても数少ない大事な思い出なんじゃないかな?勝手な想像だけど。

 けれども、本作の物語を読むとどれもが、僕のイメージするような幸せで大切な日々とは別物だ。読んでほっこりするような親子関係が描かれている訳ではない。それなのに、なぜそれらが「ビタミン」と成り得るのだろう。

 そう考えていた時に、ひとつのAmazonのレビューを読んで「あーなるほど!」と合点がいった。

 

 重松清の書く物語は「65点の1日」だ。

 1日の合格点を50点だとするなら、

 僕らのすごす毎日は、おそらく45点だったり56点だったりする。

 

 でも、人の記憶の中に残るのは

 “恋人にふられた10点”の日や

 “子どもが生まれた95点”の日なんだろう。

 

 中途半端な日のできごとは、忘れてしまう。

 

 そう! そうなんだ。

 ある人にとっての大切な記憶は、他人に話すと「お話」になってしまう節がある。心に残る思い出は人によって違い、その特別性も異なってくるからだ。話を聞いた人にとっては、それは自分と無関係の「他人の物語」でしかない。

 だからこそ、誰もが共感できるような物語は、在り来たりで日常的なものになる。非日常の物語は「憧れ」や「感動」こそ生みはすれど、そこに万人の「共感」を持たせるのは難しいからだ。

 本作が描き出しているのは、確かに “中途半端な一日” だ。つまり、当たり前すぎて普段は全く意識することもない、「日常」を。だから現実味もあるし、それがいい具合に読者の私達にスパイスと栄養をもたらしてくれているんじゃないだろうか。 

 本作のあとがきには、次のような文がある。

 

 Family、Father、Friend、Fight、Fragile、Fortune……<F>で始まるさまざまな言葉を、個々の作品のキーワードとして物語に埋め込んでいったつもりだ。そのうえで、いま全七編を読み返してみて、けっきょくはFiction、乱暴に意訳するなら「お話」の、その力をぼくは信じていたいのだろうと思う。これからも読み物の書き手として畏れながらも信じつづけていくものは、「お話」の力しかないんだろうな、とも。

 

  本書の短編たちが「ビタミンF」であるように、存在する全ての物語にも様々な効能がある。それらは人間個人のように千差万別で、もたらす効能や及ぼす影響も多様だ。それらは「お話」と大きくひとくくりにできるかもしれないけれど、皆が皆違うもの。だからこそ、極論を言ってしまえば、作品におけるジャンルなんてものは、本当に簡単な区別の基準でしかないと思った。

 そう、みんなちがって、みんないい。

 

 

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