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ぐるりみち。

日々日々、めぐって、遠まわり。

自分が死んだらどうなるの?墓標としてのブログやSNSアカウント

 丸2日と半日、体調を崩して寝込んでおりました。水曜夜に「なんだか寂しいしダルい……あっこれ風邪だわ」と嫌な予感と確信を抱きつつ床に就き、その3時間後には高熱でうなされ目を覚ます。いつぞやの胃腸炎並みに腹を下し、ひぃひぃ言いながらオフトゥンに包まれていた格好でございます。

 

 その人の平熱と体力、精神力によっても違いはあれど、高熱が出たときの精神状態って何段階かに分けられると思うんですよね。自分の場合だと、

  • 37度台……仕事・読書などはできるが能率が著しく低下、寝たい
  • 38度台……通常活動困難、無性にお世話して欲しくなる、おっぱい
  • 39度台……ネガティブスパイラル思考、あ、これ死ぬんじゃね?

 こんな感じかしら。今回は数年ぶりに40度寸前まで上昇したこともあり、「あー死ぬわー死ねるわー遺言書いてねーわー」なんてアホなことをアホだと知りながらも考えていた始末。たぶん。意識が曖昧ゆえ。これがアレか。俗に言う “頭がフットーしそうだよおっっ*1” 状態か。

 

 そんなちょっとした風邪?*2 によるマイナス思考は、一種の「あるあるネタ」として消化してそれで終わり。――ですが、生きていれば自然と考えてしまう「自分が死んだらどうなるか」という思考実験は、たまーにならしてみても悪くないと思うのです。リハビリとして、そんな話をば。

 

いつまでも続けられる「ブログ」の終わり

 自分に関して言えば、このブログを書き始めてから、はや2年半。期間としてはまだまだ若輩者ですが、記事数はいつの間にやら500本を超え、飽き性の自分としてはよく続いているなー、と思う今日この頃でございます。

 この「ブログ」という媒体……いや、ブログに限らず個人ホームページや各種SNSもそうですが、言ってしまえばこれらは「いつまでも続けられる終わりのない娯楽・趣味」なんですよね。

 映画のようにエンディングがあるわけでも、ゲームのように最終目的があるわけでもなく、自分の自由な頻度で投稿でき、好きなタイミングで辞めることができ、またしばらくして戻ってくることもできる。意図的に自ら削除しなければ文字どおりの「ログ」として残り続けるため、他人がアクセスすることも簡単。

 

 その大半は「個人の趣味」であり「自由」であるがゆえに、ぶっちゃけ「辞める」ことを宣言する・しないもその管理人に一任されている。飽きたから、と突如更新を停止しても何の責め苦を負われるべきではないし、負うべきではない。

 ……個人的な心情としては、自分の好きなサイトの管理人さんが辞める場合には、一言でもいいのでどこかでその旨を示してほしい、とは思ってしまいますが。何も言わずにいなくなられると寂しいし、何かあったんじゃないかと不安になる。

 

 実際、急な環境の変化など、何かやむにやまれぬ事情で更新ができなくなったとか、本当に純粋に「飽きたから」という理由でいなくなったのならまだいいのですが、中には別のケースも少なからずあると思うのです。それが、「管理人が故人となった」場合。

 そんなケースがあることを鑑みると、否が応でも自分の場合についても考えてしまうもので。――果たして、自分が死んだら、このブログはどうなるんだろう?

 

電子の海に漂う「ブログ」という名の墓標

 インターネットがまだ今ほど普及していなかった00年代前後から、管理人の失踪したホームページが話題に挙がることはしばしばあったのではないかと思います。

 もちろん、更新が止まった=管理人の身に何かあったと断言できるものではなく、今も昔も生死に結びつく発想に至ることはあまりないとも思うけれど。

 

 管理人さんが故人となったことで更新を停止したことが明確にわかるサイトと言えば、まず考えられるのは「闘病記」系のブログでしょうか。難病と戦う日々を毎日記録した内容は痛ましくもありますが、それがたとえ単調な日記調のブログでも、どこか真に迫ってくる文章に圧倒される。

 なかには病気を克服し、無事に退院・完治した旨を綴って締めくくっているサイトもあり、同じ病気を患っている人の助けとなっていることでしょう。ですが他方では――管理人さんが予め話をしていたのか、家族による「永眠」の更新で時の止まったブログも多くあります。

 また、ニュースになるほど有名な方がお亡くなりになった場合には、そのブログに大勢のファンが訪れ、頻繁にコメントを残しているようなケースも散見されるようです。

 この記事の主張に関してはさておき、ここで取り上げられている桜塚やっくん*3さんのブログには、今でも毎日10件以上ものコメントが書き込まれています。急逝から1年半が経ちますが、ファンの熱量の証左と言えるのではないかしら。

 

 テキスト界隈で話題になっていたサイトとしては、二階堂奥歯さんの八本脚の蝶でしょうか。若くして自ら命を絶った編集者さんによる日記サイトで、後に書籍化もされました。

 ブックレビューとしても評価が高く、いつかまとめて読もうと考えていながらまだ読めていないという……。さらっと読んだだけでも文章の読ませ方というか、引力がすごいんですよね。……相性の問題? 思考の海に徹底的に潜りたいときに、いつか。

 

 他にFacebookやTwitterなどのSNSも含めれば、故人となった方のアカウントは数知れず。2ちゃんねるのオカルト版では2009年に「管理者が死んで放置されたブログ・HP」というスレッドが立てられ、現在も書き込みが継続的にあるようですが、もはや珍しい話ではないのでしょう。

 このスレッドがいくつ続いているかを示すカウントとして採用されているのが、「○墓目」。書き手を失ったブログはその瞬間に時を止め、生前に関係のあった人たちの参る「お墓」となる。

 些か不謹慎かもしれないけれど、ネットを主体とした断片的な関係性が増えつつあり、現実で故人の元へ参るのが難しい昨今、このような形で弔意を示すことは何ら否定されるべきものではないとも思います*4

 

「遺書」の予約投稿でいざという時に備える

 ――我ながら何を言ってるんだこいつとツッコめなくもないんですが、ブログネタのメモをあさっていたら、こんな文句が見つかったので。要するに、未来のある日付に「遺書」を予約投稿し、自分の身に何かあったときには自動で幕引きをするようにしておこう、的な意味だと思う。

 まあ人生いつなんどき、何があるかわかるでもなし。急にあの世へ行ってもブログへの情念が強すぎて化けて出るようになるのも嫌なので、自ら備えとして「終わり」の用意をしておくのも悪くない……のかな?

 

 スパンとしては、「1年間更新がなかったら自動投稿される」くらいのタイミングかしら。毎年「この日!」という日付を設定して、その日を迎えるまで心身ともに健康で問題なく更新できているのなら、ちょっと前のタイミングで公開設定を1年後に先送りすればOK。

 もちろん、忘れたら悲惨なことになる。うっかり「私、死にました!」宣言なんて一度してしまえば、後で「間違えちゃった〜(・ω<)☆」とネタ的に許されることはあっても、おそらく信用その他は失う。ネットでは一回でも間違えたらオオカミ少年だからね。こわいね。

 

 ――と考えると、変に「遺書」を書くよりは、「何らかの理由でこれまで更新できなくなっておりました!これからも再開することは難しそうです!今まであざっした!」みたいな書き口でまとめるくらいがいいのかもしれない。

 急に更新が止まって心配をかけるのも悪いし、かと言って「実は中の人が……」というのもウェブ上の付き合いに限れば重いようにも。近すぎず、遠すぎず。僕のイメージする「インターネットの距離感」が、ちょうどこのくらいなのかな。

 

ネットが記憶する「ログ」の重み

 死後に評価された芸術家の作品。祖父が好きだった音楽。ある人が故人となることで、特定の作品や事物に対する印象が特別なものになることは珍しくないと思う。それはきっと、ウェブ上に記録されたデジタルデータでも変わらない。

 その事実が身近に感じられたのが、東日本大震災のとき。震災直後は津波に原発、避難場所や援助の方法といった、多くの人が真っ先に必要とする情報が大量に行き交っていた。デマとそうでない情報の取捨選択が求められていたし、精査するのにいっぱいいっぱいだった。

 

 でもしばらくして周りが見えてくると、「いつもと違う風景」に違和感を覚える人がちらほらと現れてくる。震災前後ではTwitterのタイムラインの様相も一変したけれど、あれだけ毎日ツイートしていた人が11日以降、全く呟いていない。そんな声が、自分のTLにも挙がっていたように記憶しています。

 後にウェブメディアやまとめサイトなどでも「震災後、更新の止まったTwitter・ブログ」が取り上げられ、目に見える物質的な被害とは別の観点から、震災のもたらした影響の大きさを物語る報道がされていました。言うまでもなく、更新の止まったアカウントのすべてがそう、というわけではないでしょうが。

 

 ただ、そうやって「もう更新されないかもしれないアカウント」を目にすると、ある種のやるせなさと寂寥感、それに畏敬の念を覚えずにはいられない。常に大量の情報が流れゆき、消費され、「変化」を渇望されているウェブコンテンツの中、ある意味では「完成」された存在となってしまったページ。

 そして同時に、その担い手たる管理人さんが帰らぬ人となっているかもしれないと考えると、そこに刻まれた「ログ」は一気に重みを増す。以後その人が自分から物語ることはなく、話に出てくるとすれば、誰かに物語られるときのみ。その際に参照されるのはきっと、生前に遺した「ログ」。……ちょっとした記録でも、何だか恐れ多いものに思えてくる。

 

 実際問題、著名人でもなければただの一般人でしかない個人サイト管理人が、そんなことを気にする必要なんざないのでしょう。けれど、もし自分がいなくなったとして、ウェブ上には何が遺り、どのように消えていくのだろう、と……そんなことを考えました。

 まあ数十年も「ブログ」という媒体で各種サービスが続くかはかなーり怪しいし、それを言えば10年、20年後のインターネットがどうなっているかもわからない。あっという間に、電子の海の彼方で藻屑となって沈むのがオチなのかもしれない。

 

 それでも、いっときでも「ネット」の世界に魅了され親しんでいた身としては、その海でジャブジャブと遊んでいた頃のいちユーザーの残滓が、欠片でもいいから遺ってくれたら素敵だなって。そう思わずにはいられないのです。

 先人の知恵も、著名人の輝かしい業績も、一個人の他愛のない一日も、アホみたいな黒歴史や失敗も、それを直接的に経験し記憶する人がいなくなったって、 “ネットは今でも覚えている” のだから。

 

「故人のサイト」に触れたページ等

 

関連記事

*1:頭がフットーしそうだよおっっ (あたまがふっとーしそうだよおっっ)とは【ピクシブ百科事典】

*2:胃腸炎の可能性もあり。

*3:桜塚やっくん - Wikipedia

*4:他方、必要以上にセンセーショナルに取り上げ、デマを誘発するような行動には反対です。