ぐるりみち。

平成生まれのフリーライターのブログ。本・映画・マンガ・アニメの各種レビューに、旅行・グルメ・街歩き日記など。

新聞は「時代遅れ」で、インターネットは「最先端」なの?

http://www.flickr.com/photos/62693815@N03/6277208708
photo by NS Newsflash

 インターネットの普及によって訪れたのは、誰もが情報を受信・発信できる時代。情報の受け手と送り手の境界は曖昧になり、「情報」の価値は今もなお変化しつつある。それにより、テレビや新聞といった、これまでのマスメディアは衰退した。

 しかし、それらオールドメディアと呼ばれる媒体は、果たして本当に「時代遅れ」なのか。たしかに全盛期と比べれば、視聴率や売上は確かに低迷している。それでもなお、多くの人の生活の一部としての役割を果たしているテレビや新聞が消えていくだけのものとは、どうしても思えない。

 

「時代遅れ」の意味するところ

 冒頭の記事を読んで違和感を覚えたのが、次の部分。

 

ニュースサイト「ザ・ハフィントン・ポスト」日本版を運営する会社の最高経営責任者(CEO)でもある小野さんは「世界で流通する膨大な情報量のうち、新聞に載る活字はわずか。だが、プロ集団が厳選し編成した情報が詰め込まれている」。シンポ開催を知らせるチラシに私たちが書いた「時代遅れの紙媒体」という文言に違和感があるとし、「紙媒体もオンライン(の媒体)も情報の伝達が使命。情報があふれすぎて使いこなせないなら、オンラインの方がむしろ時代遅れといえる」と話した。

 

 「時代遅れの紙媒体」という言葉。これの意味するところは、「インターネットによる情報伝達の方が、紙媒体よりも優れている」というものだろう。チラシの文言ということで、少し煽りを入れる意味でこのような言い方になったのとも考えられるが。

 対して、「情報があふれすぎて使いこなせないなら、オンラインの方がむしろ時代遅れといえる」という切り返し。この突っ込みは、一見すると正論であるように思える。「情報量が膨大過ぎるインターネットよりは、厳選された情報をまとめた新聞の方が優れている」という話だ。

 

 ところが、これらふたつの主張には、そもそもの隔たりが存在しているように思えてならない。前者が、ネットという媒体の情報伝達機能を評価しているのに対し、後者は、新聞という媒体が伝える情報の質を評価している。

 機能。異なる視点ではあるが、そこに、ネットの効用と問題点、新聞という媒体の目指すべき姿があるのではないか。

 

無限の情報量と双方向性を持つ、インターネット

 インターネットが情報伝達媒体として優れていることは、自明の理だ。端末とネット環境さえあれば、いつでもどこでも、世界中の誰もが等しく、世界中の情報にアクセスすることができる。時間と場所を選ばないという点は、他の媒体では成し得ない利点だろう。

 加えて、その伝達速度も、他の追随を許さないものとなっている。テレビならば「生放送」という手段があるが、映像に限らず、あらゆる情報をオンタイムで受発信できるインターネットの速さは尋常ではない。特に日本人の中は、地震が起きたらTwitterをチェック、という人も少なくないはずだ。

 

 さらに、インターネットならではの双方向性こそ、最も大きな特徴だろう。それまでは、テレビを視る視聴者、新聞を読む読者でしかなかった僕らが、送り手として情報を発信できるようになったのは、インターネットの恩恵によるものだ。

 どこの誰とも知れない他人と気軽に繋がり、仲良くなったり、言い争ったり、議論をしたり。自作ホームページやブログなどを利用することで、自らの主張を世界中に発信することすらできるのだから、とんでもない。

 このように、時間や場所、さらには国境や言語の壁すらぶっ飛ばして、世界中を包むように広がっている網こそが、インターネット。情報量と規模、そしてその機能性で言えば、もはや地球におけるNo.1の媒体と言えるだろう。

 

確実性と専門性を持つ、新聞

 では一方で、昔からの情報伝達手段の代表、新聞の利点とはどのようなものがあるだろうか。

 

 まず、前述されているように、「厳選された情報をまとめている」という点がある。言い換えれば、確実性

 誤報がゼロであるとは言い切れないが、然るべき手段で集められ、プロによる事実の検証と、妥当性を確かめた上で、ひとつの記事として情報がまとめられる。デマや事実とは反する内容のものが溢れかえり、雑多な情報が散らばっているインターネットと比べれば、そのは圧倒的に良いものであるはずだ。

 

 そしてもうひとつ、新聞ならではの専門性

 新聞と一言に言っても、結構な種類の新聞があり、特定のジャンルを扱う専門性に秀でた新聞社も存在する。地方紙、経済誌、商業紙、業界紙、スポーツ紙、学生新聞、などなど。そして、それぞれに専門の記者が就いており、彼らが厳選した上で完成する新聞は、他に負けない質の濃さを持った内容となっている。

 もちろん、ネットにおいても専門サイトはごろごろ存在しているが、如何せん数が多い。その中から信頼できるサイトを探し出し、さらに自分の求める情報を探すとなれば、それは非常に労力を要するものとなるだろう。その点、プロ集団によって作られた新聞ではあれば、ある程度の信頼は置けるはずだ。

 

新聞は「時代遅れ」で、インターネットは「最先端」?

 このような両者の特徴を鑑みた上で、新聞という媒体の是非を考えてみよう。

 

 本記事のタイトルの問いに答えるとすれば、「機能面ではそのとおり」となるだろうか。

 方法として、情報を伝える手段として考えると、新聞はインターネットよりも劣っていると言わざるをえない。配達の時間も場所も限定された新聞では、残念ながら、光通信になど敵うわけもない。そのような意味で、新聞は「時代遅れ」と言えなくはない。

 

 が、他方では、情報の確実性や信頼性、専門性という観点で見れば、新聞はまだインターネットに負けていないと考えられる。前項で述べたように、プロによって厳選された情報が濃縮されている新聞は、質的にはごったごたで混沌としたインターネットと比べれば、確実に勝っている。

 インターネットでの情報収集においては、僕らが自らその正確性や妥当性を検証する必要があるが、新聞ではそれがプロによって予め為されていると言える。この点は、新聞に限らずマスメディアの大きな利点だろう。

 

両者のメリットの相互輸入

 そんなインターネットと新聞だが、最近ではお互いの良いところを吸収しようと動きが活発になってきている。

 

 インターネットにおいては、これまであまりできていなかった、莫大な情報の選り分けと、価値の判断を行うものとして、数年前からキュレーションが注目を浴びている。

 広大なネットの海から、信頼のできる情報を選び出し、再構成、まとめ直して発信する。さらに、時には、その情報に他の有益な情報や、自身の考えなどを付加価値として付け加え、他とは差別化した上で発信するような動きもある。新聞のように、厳選された情報が増えてきたように感じる*1

 

 新聞の方では、自社新聞の電子版を配信することによって、ネットにおける「信頼の置ける情報源」のソースとしての立ち位置を確保したようだ。やはり、名の通った新聞の記事が情報源として紹介されていると、名も知れぬ個人の情報よりは、断然、信頼できる。

 そして、一部では、新聞記者が個人として名前を出し、Twitterなどで情報を発信する試みも行われている。そこでは、新聞では取り扱わなかった情報を提示していたり、誰よりも早く情報を呟いていたりと、プロならではの発信を続けているようだ*2

 インターネットは、新しいサービスやツールに合わせて環境を変えつつあり、また、新聞も、ネットに触発されて相互活用の道を見出そうとしている。そのような中で、僕ら消費者はそれら媒体に、どのように向き合っていきばいいのだろう。

 

ネットユーザーの在り方

 若いインターネットユーザー、特にデジタルネイティブと呼ばれる世代に話を聞くと、「テレビや新聞は信用ならない」という意見を耳にする。マスメディアは時に消費者を煽動し、世論を操作しようとしているのではないか。彼らの多くはテレビや新聞に対して懐疑的であり、ネットを主な情報源として利用している。

 その意見を完全に否定することはできない。SNSなどで非常に話題になっているように見えるのに、なぜマスコミは報道しないのか、と思ったり、逆に、大胆な煽り文句を謳っていて、さすがにやりすぎじゃないだろうか、と感じたり。一消費者として、不可解な流れのようなものを感じることもある。

 

 だが、その一方で、彼らが信じるネットの情報こそ、偏向的であるケースも少なくない。一部SNSや、まとめサイトでの反応を見ていると、それがまるで多数派の意見であるように感じるが、全くそんなことはない。そこに、情報の編集者としての発信者が存在する以上、意識的・無意識的に関わらず、人の感情が含まれてしまうことは念頭に置く必要がある。

 

 インターネットは、機能面では優れているかもしれないが、そこで情報を発信しているのは人間であり、それぞれの情報にも人の意図がある。

 

 「マスコミは駄目で、ネットの方が信頼できる」というのは、インターネットを万能と考えるがゆえの思考停止だ。媒体が、テレビや新聞からネットに変わっただけで、そこにある大きな流れに流されてしまっている人が、相当数、存在しているだろうことに変わりはない。

 消費者であり、発信者ともなった僕らは、それを使うに値する段階まで成長しなければならない。メディアリテラシー・ネットリテラシーは、これからますます重要視されてくる技術だと思う。

 

新聞の目指すべき姿

 ネットユーザーが流れに翻弄される他方で、新聞は苦境に立たされていると言っても過言ではない。新聞を読む若者は減り続け、幼い頃からネットの主張に触れてきた彼らは、オールドメディアに懐疑的だ。新聞は、どこへ向かえばいいのだろう。

 このまま行けば、新聞は一次情報源としての価値しか認められなくなってしまう可能性がある。感情や人の思考、社の方針などを全て削ぎ落とした、単純な情報ソースとしての存在価値。それはもはや、「情報の検閲者」でしかない。余計なものはいらない、後は他の人が考えるから、と。

 

 となれば逆に、新聞は個性を前面に押し出していくべきではないだろうか

 今でも新聞ごとのカラーはあるが、それをもう全力で。中途半端に中立・公正を謳うよりは、元の情報を載せた上で、それぞれの記事に記者の主張が書かれているくらいの方が良い。その方が読者としては面白いし、記者ごとに様々な考えが読み取れて、議論も活性化するのではないか。

 

 昔からの疑問で、「なぜ新聞記事には記名がないのか」というものがある。上司による検閲があったり、新聞社の方針があったり、という事情もあるのだろうが、新聞はあまりに淡白でつまらない。

 名前を出せば、その分、リスクも高まるだろうが、反面、ファンだってつくはずだ。本名が問題ならば、ハンドルネームでもいい。「読者の読みたい記事」を想定して書くよりも、「読者が読みたくなる記者」ができるくらい、個性的な記者を増やして、ファンを獲得していく方が良いのではないだろうか。

 

 「目指すべき姿」などと書いたが、これは僕の希望だ。新聞はあまり読まないし、マスメディアにも詳しくない僕が、「こうなったらおもしろいし、読む!」と思える希望。各新聞社はいろいろと細かな策を講じているようだけれど、それよりももっと、インターネットにすら影響を及ぼすような、大きな変革をもたらして欲しい。

 

 

関連記事

*1:それ以上のスピードで、偏向的な情報が増えている気もするが

*2:どこまで発信していいか、という兼ね合いは難しそうだけれど