「そんなことできるわけがない」
2つの文を比較したとき──用法の正しさはひとまず置いておいて──どちらのほうが読みやすいでしょうか。
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「正しい用法・表記」って?
先日、こちらの記事が話題になっておりました。
自分としては、「だいたい無意識に合っているほうを使ってはいたけれど、理由までは知らなかった!」と素直に驚いた次第です。……あ、でも “致します” と “立ち振る舞い” は当たり前に使ってた。
この手の「日本語の用法」って、人によって思った以上に書き方がばらばらなんですよね。最近、仕事で文章校正をするようになったことで、それをより強く実感するようになりました。と同時に「あれ? 結局はどれが正しいんだっけ……?」と、正解を知らないことに絶望した。
たとえば、冒頭の文章。それぞれの単語に漢字を使うか・使わないかという選択は、人によって変わってくるのではないでしょうか。
- 「こと」or「事」
- 「できる」or「出来る」
- 「わけ」or「訳」
- 「ない」or「無い」
「全部漢字にする!」と言う人も居れば、
「これとこれは漢字で……」という人もいるだろうし、
「ぜんぶひらがなだよ!」というひともいるでしょう。
自分としては、「少なくとも漢字の『出来』は名詞として使うとき限定かな……?」と考えていたのでひらがな一派に賛同しますが、実際のところはどうなんでしょう。検索してみたところ、文化庁の「公用文における漢字使用等について」というPDFファイルを発見しました。
(2) 「常用漢字表」の本表に掲げる音訓によって語を書き表すに当たって
は,次の事項に留意する。(中略)
キ 次のような語句を,( )の中に示した例のように用いるときは,原則
として,仮名で書く。
- ある(その点に問題がある。)
- いる(ここに関係者がいる。)
- こと(許可しないことがある。)
- できる(だれでも利用ができる。)
(以下省略)
(※PDFファイル注意:公用文における漢字使用等について)
ほかにも、「もの」「ゆえ」「ほか」「わけ」などが続いており、 “公用文に関しては” そのように決められているようです。知らなかった……。
「わかる」?「分かる」?
関連する言葉でもうひとつ気になったのが、「わかる」。
小学生時代から「使える漢字は全部使ってやる!」などと考え、几帳面に原稿用紙を漢字で埋めていたのは僕だけではないと思いますが(……ですよね?)、パソコンに向かってタイピングする場合でも、「分かる」は常に変換して使っていました。
ところがどっこい。普段から読んでいる「本」をよくよく見てみると、その大半では「わかる」という、かな表現になっているんですよね。本棚の本を適当に手に取って読んでみても、むしろ「分かる」を見つけるのが大変なレベル。
これは「わかる」が正しいのではないかと思って検索してみたところ、Q&Aサイトの以下の指摘が目に留まりました。
「分」という漢字は、「分割」「分類」など、まさに「わける」(二つのものを引き離す) という意味意識が強くて、「理解する」というニュアンスと自分の中で結びつき難かったのです。
ところが、常用漢字表に「わかる」の読みが掲げられている以上、仕事柄、「分」を使わなければならず、最初はかなり戸惑いがありました。
で、ある時、何かの本で「わかる」の語源について書いてあるのを読みました。
――言葉を覚えたての子どもは、何かにつけてモノの名前を知りたがるのは何故かというと、子どもたちは、モノやコトの名前を知ることによって、 それを他のモノやコトから、区別することができるようになる。
つまり「分ける」ことがで きるために、それが「分かる」ようになるのである。「わかる」とは「わける」(分ける)の意味である――これを読んで、理屈ではなるほど、と思いましたが、まだ自分の中では、understandという単語と、漢字の「分」とが、なかなか完全には結びつきません。
ものを理解する (わかる) という行為は、単に「分ける (区別する)」というだけでなく、もっと深い意味内容を孕んでいる、という意識が働いているような気がします。
ソースが不明なので「これが正しい!」とは断言できませんが、考え方のひとつとして興味深く感じられました。これもまた「表記」の一例に過ぎないとはいえ、こういうのもあるらしい……ということで。
本来の用法を優先するか、文章のバランスを優先するか
このような文章表現については、少し前に読んだ『危険な文章講座』でも取り上げられており、なるほどーと納得した記憶があります。少し長いですが以下、本文より引用。
日本語のこの表意/表音の二重構造は、日本語文化圏の住人の意識や情緒にとても大きな影響をあたえてきた、おそらく日本最大の文化だったにちがいない。もちろんニワトリとタマゴの関係のように、逆に日本人の意識や情緒こそが、長い歴史のなかでそんな文化を醸成させてきたという側面もあるのだろう。つまり、そんな漢字・カナ混じり構造をほどよく活用した文章は、日本人の脳を活性化させる「おいしい文章」であり、それは少なくとも「読みやすく(時には)わかりやすい文章」になりうるということだ。
たとえば、8行前のカッコ内にある「戦後の国粋的な漢字排斥運動」という表記も、第一稿には「戦後の国粋的漢字排斥運動」と書いたのだが、やや漢字ばかりが続きすぎて読みづらいため、間に「な」という格助詞をはさんでみた。たった1字でも、ずいぶん文面のイメージは変わる。また、その直前の「惜しいことに」も、当初は「残念ながら」だったものを、やはりカナの混合バランスを調整するために書きかえたものだ。こういう作業は、もう挙げればキリがなくなる。いっそのこと、この10行ほどの間におこなわれた同様の書きかえとその理由を、すべて列挙してみようか。
- 日本人→日本語文化圏の住人(日本語の使用領域をより正しく特定するため)
- 意識構造や情緒構造→意識や情緒(「構造」が重複しすぎるため)
- 多大な→とても大きな(表現をやわらげるためと漢字を減らすため)
- 与えて→あたえて(漢字を減らすため)
- 違いない→ちがいない(右に同じ)
- にわとりと卵→ニワトリとタマゴ(カタカナもほどほどに混ぜたいため)
- 生み出した→醸成させてきた(表現があっさりしすぎているため)
(以下省略)
一般的な文章術のハウツー本とは異なる、型破りな “文章講座” 。自分ひとりではなかなか意識できない視点で「文章」について説明しており、まっこと刺激的な1冊です。
これを読んで「そういうのもあるのか」と納得する人もいれば、「いやいや、気にしすぎでしょう」と疑問を呈する人もいるはず。
でも一方では、普段からインターネットに触れている人の多くは、これと似たようなことを無意識にやっているのではないかとも思うのです。──そう、Twitterですね。
「人生楽ありゃ苦もあるさ」とは言うが人生には他にも「「「割とどうでもいい」」」的な物も存在してて恐らく7、8割はそんな「「「割とどうでもいい」」」事なのだろうけれどやはり人生では楽しい事を増やしたいので日々を楽しく生きる為には何よりも精神的な余裕を持つのが重要だと思う次第で文字数
— けいろー (@Y_Yoshimune) 2015, 1月 13
こちらのツイート、この記事のために先ほど適当に呟いたものですが、もともとは12字オーバーした、以下のような形で考えておりました。
「人生楽ありゃ苦もあるさ」とは言うけれど人生にはそれ以外にも「「「割とどうでもいい」」」的なものも存在していて恐らく7、8割はそんな「「「割とどうでもいい」」」ことなのだろうけれどやはり人生では楽しいことを増やしたいので日々を楽しく生きるためには何よりも精神的な余裕を持つのが重要だと思う次第であります(適当)。
「ため」「こと」を漢字にしたり、接続詞を変えたりして、文字数を稼いだ格好ですね。
前述の引用部分で挙げられていた「おいしい文章」とは異なるものの、読者や媒体に合わせて文面をこねくり回し、 “書きかえ” ているという意味では似た意味合いを持つものなのではないかしら。同じく文字数制限のある、はてなブックマークも同様かと。
そう考えると、日本語の文章を書くにあたっては、必ずしも決められた「用法」にこだわる必要もないと思います。もちろん、多くの読者を抱えているメディアや、パッケージ化された書籍として発行する場合には、表記を統一する必要もあるでしょう。ですが、個人的な発言まで気にすることはないかと。
そもそも「ことば」の意味は時代によって移り変わるものですし、それは「話し言葉」だけでなく「書き言葉」にも当てはまるはず。ただ、書き言葉については、このような「表記」の考え方があり、「書き方」の選択肢があることを知っておいても損はないように思いました。