「こども」と「おとな」の境界線


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ある時から、僕らは周囲からしきりに「おとなになれ」と諭されるようになる。そして20歳──成人を迎えると、「いつまでもこどもじゃないんだから」と、大人であることを強制される。

でもそもそも、「おとな」ってなんだろう。
実はこの定義って、人によって違うのでは……?

僕にとっての「おとな」とは、他人を認めることのできる人相手を頭ごなしに否定するのではなく、かと言って全肯定するのでもなく、受け入れ、認めることのできる人

 

 

しかしそうなると、逆に「『こども』って何?」という疑問も出てくる。今回は、そんなことをつらつらと考えてみた。

 

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「こども」は「おとな」の下位互換?

ある程度の年齢になると、「こども」という言葉はどこかネガティブな意味で語られるようになるイメージがある。

「あいつって子供みたいだよなー」と言えば、自己中心的だとか協調性がないだとかいう文句が聞こえてきそうだし、年下や格下を表す蔑称として「ガキ」「おこちゃま」のような言葉もある。

僕らが小さかった頃も、友達から「子供っぽい」とか言われればムッとしたし(お前も子供じゃねーか!)、久しぶりに会った親戚の大人に「まだまだ子供ねー(笑)」なんて言われて、なんとも言えない気持ちになった覚えもある。思春期は複雑なのです。

そう考えると、「こども」はまるで良いとことのない、未熟な存在であるかのように思える。実際、そのとおりかもしれない。親の庇護がなければ生活できないし、知識も知恵も充分に備わっていない。ただのダメダメちゃん。だって、こどもだもの。

弱い「こども」は、強い「おとな」になる前の、別のいきもの。でも成長するにしたがって、どこかの段階で「おとな」に進化するんだろう。──子供の頃は、そう思っていた。

 

「こども」に憧れる「おとな」たち

ところが、成人して「おとな」になった僕らはしばしば、「こどもに戻りたい!」という叶いっこない願望を抱く。それまでは「こども」に対して否定的だったのに、いざ大人になってしまうと、「あの頃は良かった」と懐古する。

大人が語る「こども」は、きらきら輝いて眩しいもの。こどもは素直。こどもは正直。こどもは純粋。こどもは自由。──嗚呼、あの頃に戻りたい。

「おとな」は、過去の良い思い出に縋りつく、弱い生き物なのかもしれない。

 

「こども」みたいな「おとな」

こうして見てみると、その時々で「こども」「おとな」に対する印象が異なっていることがわかる。

 

「こども」にとっての「おとな」は、強く賢く眩しいもの。
「おとな」にとっての「こども」は、無邪気で自由で眩しいもの。

過去の経験が少ない「こども」は、未来の「おとな」を夢見る。
未来に不安を持った「おとな」は、過去の「こども」を夢見る。

 

小説や漫画などの創作において、「子供=夢見る者」「大人=諦めた者」という対比構造をよく見かけるのは、そんな思いを多くの人が抱えているからではないだろうか。

でも結局のところ、「こども」や「おとな」と言った区別は曖昧なものに過ぎず、どちらが良いとか悪いとかいうものではないように思う。

ただ、自分にとっての「おとな」像を持っておいて損はないはずだ。きっとそれこそが、その人が未来を見るための動機づけになるから。

「これが、おとなだ!」という、いろんな人にとっての「おとな」像があるだろうけれど、僕は、漫画『惑星のさみだれ』で語られているものが好きだ。

 

「大人ってのは、人生楽しそうにしてる大っきな子供や。ああいう笑顔を子供に向けれる人が大人!」

「大人が笑うのはな、大人は楽しいぜって子供に羨ましがられるため、人生は希望に満ちてるって教えるためさ」

水上悟志 『惑星のさみだれ』2巻より

 

あなたにとっての「おとな」とは、どんなものですか?

 

 

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