ぐるりみち。

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「無職」という肩書きの持つ「自由」と「重さ」

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photo by Mark O Rourke Photography

 

 

 読みました。無職だからって死ぬ必要はないけれど、「無職あるある」というか、割と自然な感覚だと思う。この恥ずかしさがなくなるのは無職でも自活できる「プロ無職」的な存在になった時か、もしくは完全に開き直った状態になった時か。後者は危険信号っぽい気もするけれど。それなら、とりあえず就職するべ。

 

 

何者でもないゆえに不自由な「無職」という肩書き

 「無職」とは、読んで字のごとく「職が無い」状態だ。所属している会社もなければ、自分で金銭の発生する仕事を見つけて取り組んでいるでもなく、大半の人間が労働によって生計を立てている日本社会からすれば「何者でもない」存在。肩書きがないのは、つらい。

 でも無職だって、探そうと思えば自分の「肩書き」なんていくらでも見つけられる。定住している居住地があれば「◯◯県民」は名乗ることができるし、特定の趣味があれば「◯◯好き」「読書家」「オタク」といったカテゴライズを自称することはできる。そういう意味では、無職でも当たり前に「社会」に属する一員であることは疑いようがない。

 

 無職は、一面的に見れば、自分のアイデンティティが喪失された状態とも言える。「学生」や「会社員」といった、“当たり前”の肩書きから解放されたことで縛りはなくなったが、社会的には“何者でもない”。逆に「無職」を確固たるアイデンティティとして立ち回っている人も中にはいるけれど、おそらくは少数派でしょう。

 端から見れば自由にも見える無職。でも、しばらくすると「無職」も肩書きのひとつであることに気付かされる。何時の世もニュースでは問題児扱い。働いていないことで蔑視され、“普通じゃない”存在として奇異な目で見られかねない。

 

そう、無職であることが恥ずかしい、羞恥的なことだと強く思ったのだ。

人によれば、それは当たり前のことかもしれない。無職は恥ずべき、隠匿すべき、墓まで持っていくべき問題だと考えている人も多いだろう。

しかし、俺はそうは思っていなかった。ネット上では無職であることを自らネタにし、笑いを取っていた。だから現実世界でも同じように軽やかに笑いにできるとあのときまでは信じていたのだ。

無職をネタにできなかった話 - 25歳ニートが35万円で上京を企むブログ

 

 無職は全くもって「自由」なんかじゃない。ウェブ上では「無職だけど人生楽しすぎワロタwwww」とおちゃらけることができても、リアルではそんな環境が、文脈が整っていない。

 むしろそこにあるのは、「無職は恥ずべきものである」という一般的な、社会全体に行き渡った「常識」という文脈だ。余程自分に自信のある人、外部環境に左右されない人でない限りその「常識」は重くのしかかってくるものだし、抗いようもなく萎縮してしまうのは当然のことだと思う。無職で申し訳ない。普通じゃなくてすみません。生まれてきてごめんなさい。

 

無職になって知る「肩書き」の重さ

 そうやって考えてみると、「肩書き」は単純にその人の所属や属性、役割を示す便利なカテゴライズ……であるだけではなく、その人の行動を規定する重々しい鎖でもあるように見えてくる。

 

 「学生」である頃は、まだ良かった。外部から働く強制力と言えば、学割や学生料金といった規定に加えて、両親から「勉強しなさい!」と叱責されるくらいだった。勉学は学生の本分。ええ、存じておりますとも。

 「会社員」になると、見方によっては少し狭苦しくなる。公私ともに所属している企業の一員としての立ち振る舞いを求められ、会社と結んだ契約上の役割を果たすことで対価=金銭を得ることができる。メリットも大きいけれど、その分息苦しさを感じる人もいるのでは。

 

 それが「無職」になると、とんでもなく大きな重圧がのしかかってくる。先ほども書いた、「常識」という文脈。無職は社会的に最底辺だ。負け組だ。クズだ。恥ずかしい。すぐにでも再就職しないといけない。まるで、社会全体から責め苦を負っているような気分。

 実際にそれがあるかないかは別として――被害妄想かもしれないけれど――、社会からの“圧力”っぽい何かを感じがちな無職。「言い訳だ」とツッコまれかねないけれど、そんな負の圧力によって動けなくなっている人は少なからずいるんじゃないかと思う。

 

 さっきから無職無職言ってるけど、職無しの人にだって様々な理由や背景があるし、いろいろな人がいる。あえてどこにも所属せず、たまに知人の手伝いをして得られる対価(金銭に限らない)によって生活している人もいるだろうし、退職してしばらくは充電期間や!と世界一周旅行に出ている人もいるだろうし、何もやる気が起きずぐだぐだ生活している人もいるだろうし、病気によって働くに働けない無職だっているでしょう。

 でも、理由があるのなら別に「無職」だって良いじゃないか。好きで会社を辞めて旅に出た人に対して周囲があれこれいうことはできないし、病気の人に働けだなんて、それこそ無茶言いなさんなという話。

 そりゃまあ、無職の数が増えて社会的に問題になっているのならどげんかせんとはいかんのだけれど、それを一括りにまとめて批判の一点張りを続けている人は、ぶっちゃけノイズにしかならないと思うのですよ。ある問題に対して抜本的な解決策を求めたくなる気持ちは分かる。だけど、その中の個人個人が抱えている問題を個別に吸い上げて検討し、徐々に最適化していくような形でしか事態は進展しないんじゃないかと思う。

 

 何度も何度も語ってきたように、つまずいた理由、立ち直るきっかけは、人それぞれで、そこに共通点は見つからない。一人ひとりがかけがえのない存在であることと同じように、一人ひとりがまったく違うのだ。

 それは、人の生き方が人の数だけあるのと、同じなのかもしれない。

工藤啓著『大卒だって無職になる "はたらく"につまずく若者たち』

 

 これは無職云々に限らず、あらゆる肩書きやカテゴライズに当てはまるものなのではないかしら。男はみんなああだ、女はみんなこうだ、◯◯人はどうのこうのと、大きな主語でみんな一括りにして語るのは怖い。

 「肩書き」を持つことで所属と役割を自認し、安心して生活することができるのは確かだと思う。けれど、それを他人に当てはめて安易にレッテル貼りしてしまうのは避けたいところ。複数のケースや事情も知らず、他人をああだこうだと規定できるほど高尚な人はそうそういないでしょう。少なくとも、僕には無理。

 

僕らは身近に感じられない存在に対して、よく知らないからこそ厳しい言葉を突き付けたり、根拠のない決めつけをしてしまったり、無下に不平や不満をぶつけてしまったりします。でもそれは、その人がたまたま知る、知り合う機会に恵まれなかっただけなんだと思います。

(同上)

 

 何が言いたいのかよく分からなくなってきたけれど、とりあえず「無職」だって生きていて良いじゃないか。少なくとも、“無職だから”と言って死ぬ理由にはならない。

 

 

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