インプットの基礎としての「○○でやったところだ!」の積み重ね


 

 読書は楽しんでなんぼ。

 その過程では、いかにして「効率的にインプットするか」がたびたび論じられるものではあるけれど、こういった既視感――もとい、“既知感”的な刺激をつなげることによる効用って、読書に限らずいろんな場面で見られるものだと思う。

 

胡散臭いけれど本質的な、進研ゼミメソッド

 ある本を読んでいるときに、ふと感じたデジャブ。冒頭にも書いた「これ、あの本でも読んだところだ!」という気づきって、この感覚自体もまた、別の既視感を呼び起こすものだと思うんですよ。いわゆる、“進研ゼミのマンガあるある”として有名な文句。

 

13. テストで「あ、これゼミでやったのと同じだ!」

 

 子供のいる家庭のポストに決まって投げ込まれる、“ゼミマンガ”。本来なら単にウザいダイレクトメールに過ぎないのに、そこは“マンガ”が好きな子供のいる家。なんだかんだで開封して、読んだことのある人も多いのではないかしら。入会はせずとも。

 かく言う僕自身、『こどもちゃれんじ』に始まり、小学生時代はゼミにお世話になっていた。何度か入退会を繰り返しつつ、退会後に届くDMを心待ちにしていたとか。だって、あの1話完結型のお約束マンガが、子供心にもおもしろかったんだもの。

 

 とは言え、“ゼミマンガあるある”としてネタ的に消費されているから良いものの、お約束展開ゆえの胡散臭さを感じるのも事実。「ベタな進研ゼミのマンガの法則」のページでもツッコまれているように、「あ、これゼミでやったのと同じだ!」は他の学習手段にも当てはめることができる。

 元も子もないことを言ってしまえば、学校で出される課題と問題集を反復練習したほうがテストでの正答率は高いだろうし、理解度を深めるための学外学習としては、対面で学べる塾のほうが効果はありそう。それらをすべて教材のみで完結させているゼミの信頼性もまた、否定はできないものですが。

 

 ……って、別に進研ゼミの話をしたかったわけじゃないんです。要するに、ゼミに限らず「○○でやったところだ!」という感覚は、あらゆる学習行為に当てはまるインプットの基礎であり、既知の事柄を関連項目として紐付けることによって、学びの質を高めるものなんじゃないかと。

 「何を今更」な話ではありますが、大人にもなれば、もはやそれがあまりにも当然過ぎるものとなってしまっている印象も強かったので、改めて意識するべく。個々の事柄を別々に暗記するのでなく、関連要素と結びつけ、セットとして記憶することで、学習効果を向上させる視点でござる。

 

当たり前にやっていた「○○でやったところだ!」の積み重ね

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 そこで、ようやっと「読書」の話に戻ります。冒頭の記事は、さまざまな「読書」の方法と視点を取り上げることで、その“在り方”を探る内容となっておりました。その手法は多種多彩にして、語られる読書論は論者によっても十人十色。

 万人にとって正しい「読書論」なんてものは存在せず、一人ひとりに相応しい別々の「読書の方法」があるんじゃなかろうか。それを自分で見つけ出せれば言うことはないが、如何せん現代人には時間がない。だから、先人の「読書論」を学び、参考にする。

 

 ――というのが、近頃の「読書論」の前提となると思う。それゆえに「ぼくのかんがえたさいきょーのどくしょじゅつ」が跋扈しており、ふるいにかけるのが大変になっているという一面もあるように見える今日この頃。先人の方法を参考にしようにも、選択肢が多すぎる。

 ならば、「『読書論』なんて気休め程度のものなんだし、方法論を気にするくらいなら、好きな本をどんどん手に取って読んだほうが良くね?」となるのも自然な流れ。実際にそのとおりだと思うし、ぶっちゃけ「読書論」って、一部の本好きの思考実験に過ぎないのかもしれない。

 

 ただ、そういった部分を考慮しても、読書のインプットの質を高めるための考え方として、複数の本の連関を意識した「あの本でも読んだところだ!」の視点は有効なんじゃないかなーと思いまして。当然、自然と得られるものではなく、結果的に「つながりがあった!」となるのが前提ですが。

 出口治明さんは、著書『本の「使い方」』で次のように書いています。

 

 新しい知識を学ぶときには、私は必ず「分厚い本」から読むようにしています。厚い本が最初で、薄い本が最後です。

 あくまで一般論ですが、「分厚い本に、それほど不出来な本はない」と私は考えています。なぜなら、不出来な人に分厚い本が書けるとはまず思えないからです。

 分厚い本をつくるのにはお金もかかるので、出版社も、不出来な人にはまず書かせないと思います。分厚い本が書けるのは、力量のある人です。力量のある人が書いた本なら、ハズレの確率は低いと思います。

 それに、薄い入門書は、厚い本の内容を要約し、抽象的にまとめたものです。全体像を知らないうちに要約ばかり読んでも、その分野を体系的に理解することはできません。

 このようにして分厚い本を何冊か読んだあとに、薄い入門書に移ると、詰め込んだ知識が一気に体系化されます。目の前の霧がさーっと晴れて、「ああ、わかった。あの本に書いてあったのは、こういうことだったんだ」という感覚を味わうことができます。

 

 言うなれば、高確率で「あの本でも読んだところだ!」の感覚を得るための読書法であり、読む本の「順番」の考え方。ある分野について学ぶ際、同ジャンルの本を複数読むのは常套手段ですが、そのなかでもあえて分厚い本から手に取ることで、続く入門書で確実に“既知感”を得る格好。

 しかし一方で、読書の習慣がなかったり、本を読む時間を確保するのが難しかったりする人にとっては、分厚い本から取り掛かるのはハードルが高いもの。そういったときは、純粋に「同ジャンルの関連本」をあわせて読む形でも、「あの本でも読(ry」を得ることはできると思います。

 

 

 実際に自分が最近、続けて読んだこれら2冊は、どストレートで「あの本で(ry」を感じられる内容となっていました。いずれも新書サイズで、「文章」について論じた内容。概括的に「文章の書き方」を示した前者に続けて、「接続詞」に特化した後者を読んだため、理解を深めやすかった。

 特にこの2冊については、あとで読んだ『文章は接続詞で決まる』の本文中で『大人のための文章教室』の文章がそのまま引用されていたため、「あの本でも読んだところだ!」を直に実感した格好。「別の書き口で同じことを言ってる!」ではなく、完全に“そのまま”なので、ちと方向性は違うかもしれませぬが。

 

 このように考えると、短期的に「読書」によってインプットを増やそうとするのなら、間違いなく関連している本をいくつか厳選して読むことで、学習効率を高めることができるのではないかしら。そういう意味では、同一作者のハウツー本を複数読むのもムダではなさそう。

 もちろん、これは「本」に限った話ではなく、あらゆるコンテンツ消費にも見られるものかと。「過去の偉人が現界するマンガを読んでいたので、その人の伝記を読んだらすんなり入ってきた」「小難しい民俗学の本を読んでいたら、大河ドラマの内容と被って容易にイメージできた」とか。

 ――などと、それっぽいことを書いてきましたが、これって全部、義務教育課程で誰もが触れてきた“学習方法”であるような気もする。異なる教科まで横断しつつ、最短距離で「○○で勉強したやつだ!」を積み重ねてきた学校教育。しゅごい。

 

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