青春の一冊『カラフル』白黒つけられない、極彩色の世界で


 中学から高校生の頃にかけて、「おやつの時間には『ハリー・ポッター』を読む」という習慣があった。部活動のない平日、あるいは予定のない休日。小学校入学と同時に買い与えられた勉強机に向かい、あの分厚いハードカバーを開いて、お菓子片手に読み耽っていた思い出。

 たぶん、なんとなく手持ち無沙汰だったのだろう。カーチャンのいるリビングで、ぼけーっと袋詰めのお菓子をつまもうにも、人がいるとなんだか落ち着かないのだ。ただでさえ1日3回の食事で顔を合わせているわけだし、それなら自分の部屋でゆっくりと甘味を味わいたい。

 

 

 じゃあ、おやつのお供がどうして『ハリポタ』だったのかと言えば、それもなんとなく、都合が良かったのだと思う。携帯ゲームをプレイしながら……だとベタつくし、漫画を読みながら……だと、本が閉じないように片手で支える必要が出てきて手間だ。

 その点、ハードカバーのポッターは、本を開いて机に直置きすることができるという利便性に優れていた。しかもページ数が多く分厚いため、ページを捲るとき以外は両手がほぼフリーの状態でおやつを食べられる。――右手で本を捲り続け、左手でポテチ取り食べる。夜神月っぽさ、ある(ない)。

f:id:ornith:20160422145814j:plain

 “ハリポタDEおやつ”などという、個人的な話はともかくとして。要するに、中学生になる頃にはすでに「読書」の習慣が生活の一部として位置づけられていた、という話です。――とは言っても、「趣味は読書です!」などと自信を持って語れるほどではないのだけれど。

 実際は、気が向いたら図書室やBOOK OFFを訪れ、目に留まった本を読む程度。世の読書家さんたちが「子供の頃から本が好きで〜」などと話すのと比べれば、何も偉そうに語れるものではござらぬ。ゲームやマンガと同じように「読書」という行為が好きだったという、それだけ。

 そんな中途半端な「本好き」だった自分ではあるけれど、「読書」を自ずから楽しむ引き金となった、思い入れの強い1冊がございます。もともと国語の教科書を読むのは好きだったけれど、ただただ物語を消費するのでなく、もう一歩進んで、あれこれ考えるきっかけとなった本。

 

 

 それがこちら、森絵都さんの『カラフル』です。

 

メッセージ性の強い、児童文学の金字塔

 森絵都さんと言えば、世間的には「児童文学作家」というイメージの強い小説家さんなのではないかしら。『リズム』『つきのふね』など複数の著作が児童文学賞を受賞しており、読書感想文の課題本としても人気が高い。小中学校の図書室に行けば、少なくとも1冊は著作が見つかりそう。

 自分が森さんの本を初めて手に取ったのも、学校の図書室だったと記憶している。おすすめ本だか新刊本だかのコーナーにどでんと置かれていて、真っ黄色なカバーが気にかかったのだった。遠目に見ても、否が応でも目に入る、色鮮やかなイエロートーン。それが『カラフル』だった。

f:id:ornith:20160422154437j:plain

 『カラフル』の主人公は、何らかの理由で命を落とし、魂となった「僕」。生前に罪を犯したことで輪廻の輪から外されてしまったのだが、そこに現れたるは、胡散臭い“天使”。曰く「抽選に当たった」ので、輪廻の輪に戻るための再挑戦をしてみないか、と。

 その挑戦というのが、現世で自殺を図った少年・小林真の体に“ホームステイ”し、記憶もないまま自分の罪を思い出せ、という無茶振り。雰囲気のわるーい家族に囲まれ、冴えない根暗少年だったらしい“真”として生活しながら、困難に立ち向かっていく「僕」の物語。

 ――って書くと、なんか昨今の“異世界転生モノ”っぽく読めなくもないっすね。ツンデレ美少女は出てこないけど、アニメ映画版のヒロインはCV.宮崎あおいさんです。映画『クレしん』の『オトナ帝国』などでおなじみ、原恵一監督の作品でもある。劇場で観たけど、良かったです。

 

 

 そんな本作『カラフル』のテーマは、小さな子供の目にも明らかだ。それは「自ら命を絶ってはいけない」という、単純明快にして、現代日本においては当たり前とも言える価値観。

 今となっては、「そんなに単純な話でもないよね……」なんて穿った、大人の見方をしてしまう面もある。けれど、当時中学生の自分からしてみれば、本作ほどに「死」をわかりやすく切り取り、納得のいく形で「ダメ、ゼッタイ」を説明してくれる作品もなかったように思うのです。

 そりゃもちろん、学校では道徳の授業だってあったし、メッセージ性の強いマンガ・アニメだって少なからず観ていた覚えはある(その点で『ミュウツーの逆襲』はすごい)。しかし本作の場合は、テーマそれ自体は直球なのに、それに至る過程が程よく丁寧に“遠回り”しているように読める。幼心ながら「考えさせられる」作品として、ものっそい印象に残っているんですよ。

 

 ただ「死んだらアカン」と伝えるのでなく、主人公を取り巻く環境と、周囲の人間関係の積み重ねの過程で徐々にメッセージを浮き彫りにし、物語の結末と同時にテーマを描き出すような流れ。その展開と納得感が、それまでに触れてきた作品と比べて段違いだったため、衝撃を受けた。

 ……なーんて、すごいもののように書いてはいるけれど、つまるところ、創作物における物語の「構造」の話だとも言えます。起承転結だとか、伏線の存在だとか、そういった当たり前の“お約束”とも言えるもの。それを自分が初めて意識したのが、たまたまこの『カラフル』だったという。

 でもこれって、子供だった当時の自分からすれば、すごく画期的な“気づき”だったとも思うんですよ。それまでは「キャラクターがカッコいい」だとか、「ギャグがおもしろい」だとか、感覚的・感情的に楽しんでいたコンテンツについて、別の側面を知ることができたという感動。

 それすなわち、「物語性」や「文脈」などと呼ばれるものであり、創作物を隅々まで味わい楽しむための一要素。ただ単に「おもしろかった」で終わらせるのでなく、あれこれと考え、その「おもしろさ」を言語化する作業も合わせて、一連の「読書」とするようになった。言うなれば、このブログで書いている読書記録にもつながる、一種の原体験だったとも言えます。

 

「カラフル」が指し示すもの

 ところで先ほど、この『カラフル』のテーマに関して、「自ら命を絶ってはいけない」ことだと書きました。そういった一面があるのは間違いないし、中学生だった自分も「じさつはだめだよねー」なんて、素直に受け取っていたような記憶もございます。

 しかし同時に、別のことも考えた。物語中に登場する、どうしようもない大人や、理不尽な出来事や、責め立てられてしかるべき行為。他の作品では「悪」として語られていたそれらが、本作では理由ありきのものとして語られるのを読んで、モヤモヤを抱えつつも妙に腑に落ちたのです。

 

「おまえの目にはただのつまらんサラリーマンに映るかもしれない。毎日毎日、満員電車に揺られてるだけの退屈な中年に見えるかもしれない。しかし父さんの人生は父さんなりに、波瀾万丈だ。いいこともあれば悪いこともあった」

 

 「この世界と人間は、そんなに単純じゃない(≒カラフルである)」ということを、まだまだガキンチョだった自分に強く意識させてくれたのは、本作ではなかったろうか。

 大人には大人の事情があり、子供には子供の世界がある。個人の問題は言葉にしなければ誰にもわからないし、どれだけ言葉を尽くそうが伝わらないことだってある。さらには、本人の口から語られた言葉が真実である保証はないし、人の考えや感情や価値観なんて、容易く移ろい変化する。

 

 周囲がドン引くほどにブチ切れていた男友達の激昂や、授業中に当てられただけで泣き出してしまったクラスメイトの女の子。いつもは元気いっぱいな先生のある日の落ち込みようや、特定の話題を振ると遠い目をしていた、子供好きのホームレス。

 子供だろうが大人だろうが関係なく、目に見えてわかる――けれど、胸の内までは窺い知れない事情が、日常には溢れかえっている。そこで「あの人にも並々ならぬ事情があるのかも」と考えることで、ちょっとだけ他人に優しくなれたし、その人のことをもっと知りたいとも思えた。

 もちろん、そうして「他人」の存在を知れば知るほど、わからなくなる部分だってある。 むしろその人の複雑怪奇さが際立ってくるし、白黒つけるなんて不可能だとも思えてくる。けれど、それは自分だって同じ。思春期の頃は常に悩みと問題で脳内はぐるぐる状態だし、「これだ!」と断言できる主張の少なさ、自己の曖昧さに不安になることだってあった。

 

 この世は須く、勧善懲悪にして、信賞必罰。白か黒か、正義か悪か。二者択一にして、誰の目にも明快な結論が求められがち。優柔不断は好まれず、グレーゾーンは忌避されて、立場と主張がはっきりとした人間が好まれる。

 だって、そうでもしないと社会が回らない。物事は確定しなければ意味はなく、先に進むことができない。いつもいつでも、誰もがどこでも好き勝手にふらふらとしているなんて、無法地帯にも程がある。膨大な人間が参加する「社会」では、白黒はっきりさせる必要がある。

f:id:ornith:20160422182808j:plain

 しかしながら、もっと極小の人間関係、究極的には「個人」にまで落とし込んで考えると、やっぱりそんな単純に区別することはできない。生まれてから死ぬまで不変の「色」を持つ人間なんていないだろうし、瞬間瞬間を切り取っても、キレイな単一色であるとは思えない。

 今となって考えれば、至極当然な話でもあります。だけど、最初にその「色とりどりっぷり」を実感することができたのは、本書によるところが大きかったように思う。感覚的なものでなく、はっきりと言語化したうえで、自分の内に落としこむことができた――という意味で。

 

 ある物事について言えば、常にコウモリのようにグレーゾーンを行き来するなんて、決して褒められた行動ではないようにも思う。だけど、少なくとも「個人」に関しては「何か事情があるのかもしれない」と意識することで、互いに救われる場合もあるのではないかしら。

 成人してからあっという間に数年が経ってしまった、今日この頃。いまだ不確定かつ、間違いなく綺麗な色はしていない自信すらある自分だけれど、それでもええやん、と思う。動けるうちは積極的に周囲と混ざり合い、あれこれと色を変えるべし。そしていざ死の淵に際して、「ワシは、ドドメ色じゃった!」などと絶叫しインクを撒き散らして逝ければ、満足でござる。その“色”すら、死後に変わるかもしれないですしね。

 

特別お題「青春の一冊」

関連記事