ネット炎上を避けるには?SNSやブログを楽しむための7つの考え方


 「炎上」という言葉も今やすっかり定着し、「炎上こわい」が合言葉のように囁かれたのも昔の話。昨今では「炎上こいよ!」と自ら油を被って突っ込むような人もたびたび見られます。大半は残念な結果に終わっているような気もしますが……それはまあ置いといて。

 2015年はあの「きんもーっ☆」事件から10年ということもあり、そうした切り口で「炎上」を話題にしている記事が散見されます。事件が発生したのが2005年8月のコミックマーケットということで、あと半月ほどでちょうど10年。そんな節目の時期に、自分なりに「炎上」という言葉を改めて考えてみました。

 

「炎上」ってなんぞ?

(比喩的に)インターネット上のブログなどでの失言に対し、非難や中傷の投稿が多数届くこと。また、非難が集中してそのサイトが閉鎖に追い込まれること。

炎上(エンジョウ)とは - コトバンク

 端的に言えば、このようなもの。中には大小さまざまな「炎上」があり、本人も周囲も“失言”だと感じていなくとも一部界隈からツッコミの集まる「プチ炎上」のようなものもあるため、これだけでは言葉足らずのようにも感じますが。

 ただ、ここで “非難や中傷の投稿” と表現している部分は重要かと。「批判的なコメント」といった言い回しではなく、より強く責め立てる “非難” という言葉。そして、根拠を持たない悪口としての “中傷” という言葉でもって説明している点は、まず抑えておきたいところです。

 続いて、ニコニコ大百科に掲載されている当該単語のページを見てみます。

多くの場合は誰かが問題のある行動を起こし、それに反応した沢山の人間が一度に批判の書き込みなどを行う構図になっている。また筋の通った批判は少なく、感情の赴くままに言いがかり・難癖をつけている書き込みが大半であるのもインターネット上の炎上における特徴の一つである。

炎上とは - ニコニコ大百科

 こちらでは、「炎上」に際して振りかかるコメントの特徴をもう少し詳しく説明している様子。ちょうど太字部分がそれに当たりますね。

 ここでポイントとなるのは、 “筋の通った批判” と “感情の赴くままに言いがかり・難癖をつけている書き込み” との両者を明確に分けており、後者を「ネット炎上」におけるコメントの特徴としている点ですね。これを換言すれば、先ほどの “非難や中傷” にほぼ相当するのでは。

「きんもーっ☆」事件と、「祭り」から「炎上」へ

 こういった「ネット炎上」の代表例として今なお引用されているのが、2005年8月に巻き起こった「きんもーっ☆」事件でございます。「きんもーっ☆祭」、とも。

 当時のITmediaの記事を読んでも、「個人ブログの発言が企業を巻き込む問題にまで発展した」という書き口で取り上げている格好。2ちゃんねるでスレッドが立てられるやいなや、各所に波及する事件となりました。

 実際の書き込みを読んでみると、「これの何が問題なの?」と思う人も中にはいるかもしれません。ネット住民の怒りを買った理由としては、いくつかの要素が考えられますが、具体的には以下のようなものが挙げられるのではないかしら。

  • 不特定多数の「おたく」を槍玉に挙げた
  • コミケ参加者を勝手に撮影し、投稿した
  • 店舗と自分の写真を掲載したことで、特定が容易だった

 無許可の撮影&掲載は言うまでもなく盗撮ですし、店舗名と人物がはっきりとしていたことで、この件に対して文句を言う対象が明確となっていたこと。それによって数多くのネット住民が具体的な行動を起こす「祭り」となり、大騒動になったように見受けられます。

 冒頭の日経ビジネスの記事でも書かれているように、この2005年以降、ネット上の騒動はたびたびマスメディアでも取り上げられるようになり、「炎上」という言葉も定着していくこととなります。2013年前後の「バカッター」*1案件などは、まだ記憶に新しいですよねー。

ローカルルールの存在と、異文化衝突としての「炎上」

 「きんもーっ☆」事件に代表される「祭り」や、昨今の「炎上」が起こる理由のひとつとして、ドワンゴ会長の川上量生さんは次のように書いています。

私は炎上を起こす側の心情的な背景として「ネットは自分たちのものである」というネット原住民たちの気持ちがあることを指摘したい。もともと現実社会に居場所がなくネットに移住してきたネット原住民たちだ。そのネットにすら現実社会に住む人々が侵入してきたことに対して憤り、攻撃をしかけてきているのである。炎上の本質とは、我がもの顔で新大陸に踏み込んできた新住民に対しての原住民の反撃であり、主導権争いなのだ。

<『角川インターネット講座4 ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代』より)

 インターネットが広く普及し、ネット上での 「文脈」もぼちぼち広く共有されている(あるいは原住民が減りつつある)2010年代現在においては、全ての「炎上」にこの説明が当てはまるかどうかは怪しいようにも思います。

 しかし、それでもなお「原住民」と「新住民」の争いは少なからず発生しているように見えるし、その場におけるルールや文脈を「知る人」と「知らざる人」の主張の差異を目にする機会も少なくありません。――極論ですが、「バカッター」はその最たるものなんじゃないかと。 “Twitter” あるいは “ネット” が、世界に開かれた場所であることを認識しているかどうか、というギャップ。

 他方で評論家の荻上チキさんは、「炎上」に際して可視化されるクラスター*2や、その場に参加する個人の動機に関して、次のように書いています。

ある炎上事例については「燃えて当然」と思う者も、別の炎上事例については「何が問題なのか」と首をかしげる場合もある。ウェブ上には様々な文化クラスターが存在しているが、それぞれの反感の対象が異なるため、ある炎上が特定クラスター内のローカルニュースにしかならない事例も多い。そのため、「多数の反感」といっても、それは「部分的多数」でしかないこともしばしばである。

『角川インターネット講座4 ネットが生んだ文化 誰もが表現者の時代』より)

ひとつの炎上事例にも、様々な動機を持った個人が参加する。本気で憤りを示すものもいれば、煽られた文言に反応しただけの者もいる。普段から抱いていた政治的憎悪をぶつける者もいれば、ビジネスのために反感を利用する者も、ただ数分間の笑えるネタとしてのみ便乗的に消費する者もいる。炎上事例のたびに、異なる意図をもった個人が、その都度集合を形成し、離散していく。それらを持続的な人格としてとらえることはできない。

(同上)

 「炎上」という現象を「悪意の集合体」として説明する動きも一部ではあるようですが、実際問題として、明確な「悪意」を持って参加している人がどの程度いるのかは、はっきりとはわかりません。

 中には「盛り上がっているからコメントしにきた」という人もいるだろうし、「思ったことを素直に書いただけ」という人もいて当然。匿名で思い思いの発言をする彼らは、一面的には「無責任」と言えるかもしれないけれど、かと言って全てを「悪意」と引っ括めて語るのも安易すぎるように思います。

 そして、そういった「匿名の個人」たちは、集まれば大きな力を発揮するように見える(実際に一企業を動かすこともある)一方で、その集団は実のところ、たまたま可視化されただけの「部分的多数」でしかないということも珍しくありません。

 特に最近、10だか20だかの否定的なコメントが集まっただけで「炎上した!」と自ら騒ぎ出すブログ・サイト運営者が散見されますが、ちょっとまず落ち着いてほしい。客観的に見ると、一部の限定的なクラスターからの批判でしかなかったり、一個人の筋の通った意見でしかなかったり、そもそも「炎上」であるかも怪しい、なんてこともままあるように見えます。

 いずれにせよ、「ネット炎上」という現象について、それは「異なるクラスター同士の衝突」であり、その “クラスター” は場合によっては「不特定多数で部分的多数の個人の集合体」でしかないという視点は、意識しておいて損はないように思います。

 自分が非難の渦中に巻き込まれることになった際に、それが本当に理不尽な「炎上」であるかどうかを見極める基準として。

「炎上」を避けるための7つの考え方

 正直なところ、どこの誰が見ているかもわからないインターネット上で、「こうしておけば炎上しない!」という100%確実な方法はないように思います。――強いて言えば、「永遠にROMる」*3くらい。発言・発信を全くせず、無言の傍観者として立ち振る舞うのみ。

 ただ、意識的に「炎上」を避けるための、発火する確率を下げる考え方はいくつかあるんじゃないかとも思いまして。もちろん、先にも引用したように「炎上」が “文化的衝突” である以上、どこかしらで自分の知らない “異文化圏” の人の怒りを買う可能性はなきにしもあらずですが。

 何があるかなー、と自分なりに考えてみたところ、以下の7つが思い浮かんだので、ざっくりと自分なりにまとめてみました。根拠はありません。個人の印象です。

1. 画面の向こうの「他人」を意識する

 基本と言えば、基本。Twitterのツイートが “ひとりごと” であり、ブログの記事が “個人の日記” であるとしても、それをネット上に公開する以上は、画面の向こうの「他人」の存在を少なからず意識する必要があります。

 コメント欄を設けており、自分がSNSのアカウントを持っているのならば尚更。自分の発言に対して誰かが何かを感じ、双方向にコミュニケーションが発生する可能性がある以上、 “画面の向こう” への意識は不可欠なのではないでしょうか。

 とは言っても、その先の相手がどのような“文化”に属している人間なのかはわからないし、全方位に気を遣った情報発信なんてできるはずもありません。なので、意識するのは最低限のところから。「自分が言われて嫌なことは書かない」という、ただそれだけです。

2.「大きな主語」と「レッテル貼り」を避ける

 いわゆる「主語が大きい」問題。「太宰メソッド」*4とも。「日本人はこうだ」「世の男はみんなこう考えている」「埼玉人はダサい」「ゆとり世代はクソ」「みんなが言っている」「世間的には当然」などなど。

 それを証明する説明ができているのならともかく、定義が曖昧だったり、あまりに多様な人間の集まる集団だったりすると、一概に「こうだ!」と結論付けるのは不可能に近いと言えるでしょう。また、自分が出会った特定の個人だけを指して、その集団全体を否定しようとすれば、そりゃあ批判も集まります。

 「オタクキモい」なんてもはやテンプレート過ぎるけれど、代表的な言い回し。嫌な思いをしたならばその人だけを批判すればいいのだし、逆に自分の優位性を証明するために「世間」や「常識」といった言葉を使えば、「一緒にすんな!」とツッコまれかねない。

 相手を「大きな主語」で括って否定するのも、自分を「大きな集団」に加えて肯定するのも、どちらもあまりうまい意見表明の方法だとは思えません。

3. よく知らない話題には首を突っ込まない

 基本的な知識もないまま、感情的に強く主張すれば、それを正すべく批判的なコメントが集まるのは当然の流れです。特にTwitterはそのシステム上、あまりに気軽に自分の意見・感情を全世界に投稿・公開できてしまうので、要注意。

 よく「タブー」として数えられる、「政治」「宗教」「スポーツ」の話題がその最たるものかと。「自分はこう思います!」くらいの感想ならともかく、知った振りしてあれこれ語ろうとすると、詳しい人から「それは違うよ!」とツッコまれても不思議じゃありません。……って書くと、専門家でもないのに「炎上」の話をしている自分も偉そうなことは言えませんが。

4. 上から目線よりも、下から目線で

 「人気ブロガーの俺様が教えてやる」「こんなの知ってて当然だろ」「これだから低学歴は」云々――。 “レッテル貼り” と似ている部分もありますが、こうした「上から目線」も火種の元。

 そもそも「偉そうな態度」はリアルでも嫌われやすい印象があるので、いくら自分が詳しいからといってこれ見よがしに上から語れば、それが間違っていた場合には非難轟々。例えばQ&Aサイトなんかを見ていても、たまに「なんでそんなに詳しいの!?」なんて専門家もびっくりする解説力を持った人がポッとコメントしに来てたりしますし。

 なので、「体系的に学んだわけではない門外漢ではありますが、自分はこう思います」くらいの「下から目線」で意見を表明したほうが、少なくとも“上から”よりかは、読んだときに悪い印象を抱きにくいんじゃないかと。ただ、あまりに卑下し過ぎると引かれてしまうこともあるので、ほどほどのバランスで。

5. 人格否定ではなく批判的意見を

 お互いに異なる主張でもって議論を続けていると、時に感情的になり、うっかり人格否定に走ってしまうケースもなくはありません。そうなってしまえば、場合によっては悪口合戦が始まってしまい、双方が悪い気分のままコミュニケーションが終わってしまうことも。

 これまた先程の “大きな主語” と被りますが、互いに意見を交換するようなコミュニケーションの最中に、定義の曖昧な特定の集団に理由を求めてしまうのは拙策かと。ついでに、話している相手はもちろん「個人」ですが、賛否や良し悪しを向けている対象は「個々の事象」です。

 これは「炎上」を避けるに留まらず、自分のブログに対する否定的なコメントを読むとき、あるいは他のブログにコメントするときにも当てはまると思います。そのコメントが何を批判(あるいは共感)しているのか、自分が何を批判したいのかを意識して、感情的にならないようにするための視点ですね。別にあなたを全否定しているわけじゃないんですよ、と。

6. 自分の言葉は「伝わらない」という前提で

 画面の向こうの誰かさんが「誰」であるかわからない以上、自分の意図したとおりに言葉が伝わるとは限りません。前提となる知識がなければ意味不明だし、共有された文脈を知らなければ異なった読み方をされるかもしれない。言葉が伝わっても、内容の誤読や誤解はあって当然。

 それゆえに、皮肉や毒舌、レトリックの類を使う際には、最新の注意を払う必要があるのではないかと思います。「俺の毒舌が伝わらなくて残念だ」なんて言う人もたまにいますが、 “悪口” と “毒舌” の区別がついていない可能性もある。エッジの効いた物言いは相応の技術が必要なので、自信のある人以外は避けたほうがいいかもしれません。

7. 感情をスパイスに、論理的なやり取りを

 「文章はアツく!感情を乗せて書かないと伝わらない!」という意見にも、一理あるとは思います。――ただ、それは最低限の文章構成能力があることが前提であり、感情本位で論理が欠落していては、読者の共感を呼び起こすことも難しいのではないか、とも。

 どんな文章でも「感情」だけを汲み取れば、残るのは「良いor悪い」「好きor嫌い」かというシンプルな部分になるはずです。「好き」というポジティブな感情はまだ共感されやすい印象がありますが、「嫌い」だけが乗っかった文章は、極端に言えば「悪口」にしかなりえません。

 なので、文章を書く際にはまず、その「好きor嫌い」をわかりやすい形で示すべく、具体的・論理的に説明するところから始めれば、発火性の高い文章ができあがる可能性は低くなるんじゃないかと思います。逆に燃えやすい表現は何かと言えば、「正義」や「悪」や「論破」といった、相手に反論を許さない “感情的な” 、強い書き口が挙げられそう。

「言葉」を大切に、健全な「コミュニケーション」を

 この一年間だけでも、個人のブログが批判的なコメントを集めて話題になるような出来事が何度もありました。

 個人的な将来設計を記事として書いたところ、バズって数百件以上の応援・反対さまざまなコメントが押し寄せ、炎上らしい炎上でもなかったのにコメント群を「悪意」と表現したことで総ツッコミを受けてしまった人とか。

 印象論で特定の職種について語る文言を載せて、本人曰く「本論とはあまり関係のない」(でも赤字かつ太字にしている)ところを各所からツッコまれて炎上し、謝罪することになった人とか。

 ブログ仲間を擁護する記事を投稿するまではよかったものの、その後なぜか「炎上上等!」「ネガコメばっちこい!」と全方位に暴言を吐き喧嘩を売って、自爆した末に謝罪もなく逃走した人とか。

 中には運やタイミングが悪く非難を集めてしまったケースもあるでしょうし、「そこまで言わなくても……」と思ってしまうような書き込みがあることも事実です。賛成だろうが反対だろうが、大量のコメントが振りかかると過敏になってしまう気持ちもわかります。

 ただ、そうした個人ブログの炎上する傾向を見ていると、小さなコミュニティに属しており、周囲からの客観的視点――先ほどの表現を引用すれば、 “異文化圏” の存在があまり目に入っていないように、なんとなく感じられました。

 あまりに内々のコミュニティで仲良くするあまり、その外部からのツッコミに慣れていないような。そうした楽しみ方もあって然るべきなのですが、開かれた「ブログ」という場で書いている以上、「外」の存在があるという前提は理解しておいたほうがいいのではないかと思います。

 誰も彼もが肯定的なコメントを残し合う、優しい世界。どこか部活動やサークルを思わせるグループ内であれこれと感想を言い合い、共通の価値観を言葉として共有し、コミュニケーションをすることの楽しさもわかります。

 けれど、それも外部から見れば、なんとなく曖昧模糊とした状態のまま共有されている「言葉」に疑問を覚えても不思議ではありませんし、限定的なコミュニティでユルく楽しくつながる「コミュニケーション」は、時に「駄サイクル」*5と揶揄されるものでもあります。

 そのコミュニティ内では伝わる「言葉」も、外部の人間が納得できるように説明できなければ胡散臭い目で見られることもあるでしょうし、批判的なコメントも含めて交流してこそ、健全な「コミュニケーション」だという向きもあるでしょう。

 なればこそ、ネット上で情報発信・意見表明をするのであれば、「インターネット」がどういった空間であるかという大前提、さらにはSNSやウェブサービス、その中で細分化されたクラスターごとにも異なる “文化” が存在しているという意識を持っておくことで、炎上を避けることにつながるのではないかしら。

 個人的な感覚ですが、さまざまな “文化” があることを知っている人ほど、普段の「言葉」選びは慎重に行なっているような印象がありますし、多様な意見があることを鑑みた上で賛否を表明し、他者と「コミュニケーション」しているように感じられます(雁字搦めになっている説も)

 とは言え、全てのコメントと向き合って交流しようなんて無理ですし、あまりにネガティブな意見と向き合い続けては自分の精神が摩耗してしまう。なので、「ネガコメはスルー」も別に問題ないとは思いますし、自分が「コミュニケーション」する相手を選ぶのは当然の戦略かと。

 しかし、そうした態度をひとたび表明することは、言い換えれば「このクラスターとのコミュニケーションは放棄する」ということの裏返しでもあるため、広く意見を問うことのできるネットやブログのメリットを切り離してしまっているとも捉えられます。

 別にそれが悪いとかそんなことは全くないのですが……「自分がネット上でどのような人と付き合うか」を表明する際に、「それ以外(スルーする人たち)」を貶めて話そうとすれば、そりゃあ炎上しても文句は言えないんじゃないかと思います、はい。

 ……と、そろそろ何を言いたいのかわからなくなってきたのと、具体的にあーだこーだと書いていると「ろくに知らない特定のコミュニティの批判」として鋭くブーメランが突き刺さりそうなので、この辺りで。

 

 ここまでの内容を、補足しつつざっくりとまとめるなら、

  • どの程度のネットコミュニケーションを求め、諦めるか
  • コミュニケーションは 異文化” を知ることにつながる側面もある
  • どれだけの 異文化” を知っているかで、耐炎上性能が変わる
  • ちょっとした表現の違いで炎上共感を起こしうる、言葉を大切に

 

 こんな感じでしょうか。ぶっちゃけ、 “ネット” に限った話ではないような気もしますが。……ただ、「ネットが息苦しい!わけわからん!めんどい!」という人は、あえて“ネット”的な表現でもって一口で言い切るならば、「半年ROMる」*6だけでも世界が変わるんじゃないかと。

 

 ってか、自分でぐだぐだと書いといてアレだけど、こんなにいろいろ意識しようとするくらいなら、限定公開にしちゃったほうが手っ取り早いのは間違いないっす。全体公開している以上、基本的には「ツッコまれること」が前提なわけですしおすし。ただ、ツッコまれた後の「コミュニケーション」の方針に関しては各々の裁量に委ねられるし、その方向性や言葉選びによっては「炎上」するリスクもあって然るべきですよ、ってことで。

 あと、「炎上上等!」と開けっぴろげに言っている類の人って、冒頭で書いた「炎上」の定義を当てはめて考えてみると、そもそもが議論のしようがない「誹謗中傷の集合体」としての現象を歓迎しているわけで、どういうことなのかよくわからんです。ドMなの?

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