「マイベスト◯◯」を見つけたときの感動と、次へと向かう期待


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 改めて考えてみると、世の中に溢れている「コンテンツ」ってとんでもない「量」があるだけでなく、その「種類」もむちゃくちゃ多岐にわたるんですよね。

 昨日の記事の冒頭にも書きましたが、音楽、小説、漫画、映画、ドラマ、アニメ、絵画、舞台、食べ物、お酒など。これでもほんの一部に過ぎないのに、それぞれをさらにロックやクラシック、SFやミステリー、西洋や東洋といった形に細分化することもできる。

 しかも、それら細分化された中のニッチなジャンルにそれぞれ、数多くの固定ファンが存在するという事実。それだけいろいろ生み出せるクリエイターもすごいけれど、それだけたくさん消費できるユーザーもすげえ。もちろん、誰もが音楽を聴いて、本を読んで、テレビを見るわけではないでしょうが。

 

 で、日々、大量のコンテンツに触れ消費していると、中には「これぞ!」という出会いもあると思うのですよ。何らかの消費行動の中でいたく心震わされ、感動し、「こいつはすげえ!」と大声で叫びたくなるような機会が誰しもあるのでは……え?ない?だったらごめんなさい。

 中でも「ブログ」なんてものを書いている人間だったら、その素晴らしさや感動を他の人と共有したい、布教したいと思い、言葉を尽くして語ろうとするようなこともあるのではないかしら。こいつはマジでパねえ!ネ申だ!一番だ!過去最高だ!!!!

 というのも先日、近年稀に見る「過去最高」に出会ったことで、ちょっとその辺の話題について考える機会があったので。自分の思考の整理がてら、書き連ねてみようと思いまする。

 

日常におけるコンテンツの暫定評価と、「過去最高」との出会い

 昨日の記事の「ランキング」の話じゃありませんが、ある特定のコンテンツ群に関して、自分の中でそれとなーく“順位付け”をしている人って意外といるんじゃないかしら。いや、自分の周囲だけかもしれませんが。昔から、ブログやmixiの“バトン”文化でよく目にするテーマだったので。

 もちろん、はっきりと「これが1番でそれが2番!」なんて決めているケースは稀でしょうが、何段階かに「評価の層」を分けているような人は少なくないと思う。ざっくり分けるだけでも、〈良い〉〈普通〉〈悪い〉の3段階評価。あるいは、レビューサイトのように複数項目で評価を分けるとか。デザイン、機能性、価格――みたいな。

 

 他方、そのように評価軸やレイヤーは人それぞれとしても、普段はやはり「なんとなく良い/悪い」といった評価が基本となっており、あまり意識には上がってくることもないとは思う。

 それこそ、そのコンテンツを誰かに勧めようと考えたり、ブログかどっかに書こうと思わない限りは、「そういやあの店/作品はよかったな~」と何かの拍子で思い出す程度が関の山なのではないかしら。ぶっちゃけ、日常生活には不要な情報ですし。生活用品なら話は別かもだけど。

 

 しかしそんな中には、ごく稀に「こいつはすげえ!」という出会いもあると思うのです。これだけコンテンツ過多の社会に生きていれば、別におかしくも何ともない話。数撃ちゃ当たる。わざわざ「狙い撃つぜ!」なんてスナイピングせずとも、ずっと同じ消費を続けていない限りは、どこかしらで「すげえ!」にブチ当たる。関係ないけど、グルメ系の作品って毎回「すげえ!」と出会っているからすごいよね。その点、某ゴローちゃんのバランス感覚はすっごい好きです。

 「こいつはすげえ!」という体験は、他とは違った衝撃と感動をもって訪れるもの。実際のところどうかはともかくとして、少なくともその瞬間は「過去最高だ!」と思うくらいに心震わされるものなのではないかしら。暫定評価、として。

 

時間経過によって生まれる「思い出補正」と、いつまでも決まらない「マイベスト」

 瞬間的な感動と共にもたらされる「マイベスト」は、その一瞬は確かに“過去最高”であるかもしれない。けれど、次の瞬間にはそれ以上の存在が現れていたっておかしくはない。どんなに大好きな作品だって、特別で高級感のあるモノだって、時間が経てば風化していくのが常であります。

 けれど、過去のモノはどんどん新しいコンテンツに上書きされて消えていくだけかと言えば、きっとそんなことはないとも思う。時を経ることによって、その間に新たに触れた別のコンテンツとの比較ができるようになったり、当時の記憶との結びつきが強まることで別種の価値を持つようになったり。それは当然の変化として、常日頃から起こっているものなのではないかしら。

 一口に言えば、いわゆる「思い出補正」。時に“懐古厨”*1と揶揄される「あの頃は良かった云々」という言説が現れるのは、主にこの補正のせいだと言えなくもない。良くも悪くも、時間の流れと変化は人の感情を揺さぶり動かすものなのでしょう。“時間が一番残酷で優しい”*2――とはちょっと違うか。

 

 一方で、そのような補正も織り込んだ――ブログでもよく目にする「マイベスト」を決めようとしたところで、実際問題として決定できるかどうかは疑問がある。時間の経過によって「評価」や「記憶」は徐々に変化してしまうので、ある瞬間の「最高!」はその後の「ふつー」になっているかもしれない。人間の感覚って、意外と大雑把ですしおすし。

 例えば、僕が今なにかの「マイベスト」を決めるべくランキングをまとめたところで、それはこれまで生きてきた四半世紀の主観による「暫定評価」に過ぎない。その後の1年間でたくさんの「最高!」と出会っても不思議ではなく、翌年にはまるっと内容が変わっているかもしれない。

 

 ――そんなことを、喫茶店で口をポカーンと開けて考えていたら、「時間」の偉大さと、「記憶」のバランス感と、人間の「飽きる」性質ってすげえな、と思いまして。

 コンテンツに限らず、人間なども含めた特定の事物に対する評価が一定ならば、それはそれで楽だとも思う。けれど、ずーっと何も変わらず、感情も動かず、固定化された評価が不変の状態で延々と続くなんてことがあったら、精神が死にそうで怖い。

 ひとたび“知った”ら、それでおしまい。その後はまったく振り返る必要もなく、顧みる必要もなく、ただただ知識が積み重なっていくだけ――というのは、想像するだけでも恐ろしい。“忘れる”こと、あるいは“飽きる”ことってたびたび悪いものとして扱われている印象があるけれど、実は生きていく上で不可欠な要素なのでは。

 

 そのように「評価」が不変ではないからこそ、先の時間軸に希望を見出すこともできる。とある「最高!」を知って感動させられたとしても、心の中では無意識に、その先に見つけるかもしれない別の「最高!」を期待しているからこそ、その瞬間を安心して楽しめているような。明日、天気になあれ。

 主観的な評価が不変なものとして決定する瞬間って、究極的には自分が死ぬ瞬間を置いて他にはないのかもしれない。死をもってようやく、その人の「マイベスト」を語ることができるのではないかしら。そう考えると、「あ、これ、死ぬわ」と感じたときには、最後の時間が欲しいっすね。ちょっと待ってね、閻魔ちゃん。「マイベスト」をまとめてから死にたいので、三途の川でブログを書かせてね。

 

 

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